炯然(けいぜん)たる陽、このうちに 【移】
突然降り出した雨が、夕刻の街並みをけぶらせている。
どこか凛とした空気を吹き込む仲秋の雨。ここリシリタ王国イエンスでも、朝夕の気温差により生まれた彩りが、北の方角から徐々に山河を覆い始めていた。通りを歩く人々の装いも、袖の長く厚いものに移り変わっている。降るごとに温もりを奪ってゆく肌寒い雨に、襟を寄せて歩く人々をなんとなしに眺めながら、ウィラード・ヴォーリュックは通りを北へと進んでいた。
向かっているのは、大地と法を司る男神ヴェルジの神殿。警察の役割を成すそこでは、入信者を対象にした体術と捕縛術の指導が定期的に行われている。7つの時にヴェルジへ宗旨替えし、以来ずっとその指導を受けてきた今では、平信者から神官へと格も上がり、正式な警官の訓練としてその技を日々研磨している。
今日は割り当てられた夜間勤務の日。雨のせいで人影がまばらになった通りを、雨除けを羽織り無言で進んでいたウィラードだったが、ふとその視界に映りこんだ姿に思わず足を止めた。
霧がかりぼんやりかすむ風景の中、戸板の締められた商店のひさしの下に佇み、じっと空をうかがうその美しい横顔。そして何よりも目につく青い髪。ウィラードは、つい先日ある人物によってひきあわされたばかりの少女の名を思い出し、ゆっくりと歩み寄っていった。
「シリア……ちゃんか」
名を呼ぶと、彼女ははっと視線をこちらに向けた。年下の女の子と接することなど、近頃ではほとんど機会のないウィラードは、どう呼んだものかと一瞬ためらう。それがなんとも不自然な間となって言葉に現われ、言ってしまってから後悔した。そうしてやっと、彼女が腕に抱いていた小さな生き物に気がつく。
「ウィラードさん?」
驚いた表情でシリアも呼び返す。まさかこんなところで会うなどとは思ってもみなかった。まだ知り合ったばかりの相手に、少しだけ緊張が勝って、仔猫を抱いていた腕に力が込もる。
「こんなところでどうした?」
「あの、急に雨が降ってきたから」
「雨宿りか」
確認の言葉に頷きが返され、それっきり会話が途切れてしまった。彼女を一人にしてそのまま立ち去る気にもなれず、ウィラードはひさしの下に入り込むと、シリアの隣でぬれた雨具を脱ぎ始めた。水滴の滴るその下から現れた、肩にかかる長さの黒髪に、シリアの視線が思わず引かれる。
彼と引き合わされたのは、ついひと巡り前。共に暮らしている同い年の少年が、剣修行の兄弟子だという彼を家に連れてきたのだ。それまで話の中でしか聞いたことのなかった人物。紹介されながら、シリアはどこか近寄りがたい雰囲気を彼に感じていた。
そんな相手に一体何の話題をふればよいのだろうかと、困惑がますます沈黙を招く。しとしとと降る雨と共に静まる雰囲気の中、考えれば考えるほど適当と思える言葉が出てこなくなる。そうして互いをうかがいながらも、なす術もなく押し黙る時間がしばらく続いた。
ふと、シリアの腕の中でおとなしくしていた仔猫がにいぃと小さく啼いた。もぞもぞと落ち着きなく動き始めたそれに同時に視線が向いて、二人の間の雰囲気が少しだけ和らぐ。
「そいつ、どうしたんだ?」
思い切ってウィラードが口を開いた。その問いかけに、シリアは腕から落ちそうになった仔猫を抱えなおして答える。
「道の真ん中で、雨に打たれて震えていたの。多分母猫とはぐれてしまったんだと思うけど」
「それで一緒に雨宿りしてたのか」
よくよく見れば、彼女の髪や肩がしっとりと雨にぬれていた。それを見やって腰袋から布を取り出す。
「これで拭けよ。ぬれたままじゃ風邪を引く」
いささかぶっきらぼうな言葉と共に差し出された白い布をしげしげと見つめ、シリアは驚きつつもほんのりと笑みを浮かべた。
「ありがとう」
素直に受け取った厚意を、仔猫にふわりとかぶせて身体を拭いてやる。そんな彼女の行動に、ウィラードは少なからず苦笑せざるを得なかった。
「俺は、シリアちゃんに貸したつもりだったんだけどな」
その言葉にはっとして、シリアがかぁっと頬を赤らめる。
「あの……ごめんなさい」
「いいって。でも自分のこともちゃんと拭いてくれよ。あとで風邪でもひかれようもんなら、それこそ俺がアーツに責められる」
自分たちを引き合わせてくれた少年の名を出して、少々からかい気味に言う。するとシリアの頬がますます赤くなった。
「それから、ひとついいか」
「はい」
「『さん』づけはよしてくれ。あいつと同じに、呼び捨てにしてくれて構わない」
するとシリアが驚いたように目を見開いた。
「アーツが、あなたを呼び捨てに?」
「ああ」
「そうなの。アーツが、あなたのことを……」
「それがどうかしたのか?」
「ううん、ちょっとびっくりして。彼、本当に心を許せるひとでなければ、おいそれと年かさの相手の名前を呼び捨てにしたりしないから」
どこか感慨深く発せられたその言葉に驚かされる。
「きっと偶然だろ」
まさかな、と胸に湧きあがった感情を圧して言う。が彼女はそれに反論してきた。
「そんなはずないわ。彼が今呼び捨てにしている人なんて、あなた以外ではカガンしかいないもの」
カガンと言う名は初めて聞くもので、一体どのくらい親しい間柄なのかはわからないが、勢い込む様子からしてどうやら真実らしい。
「アーツは、あなたを本当に信頼しているのね」
柔らかに微笑む彼女の瞳に、ウィラードは内心複雑な想いに駆られた。
自分は今まで、決して何かに寄りかかることなく過ごしてきた。最後に信用できるのは自分だけなのだと言い聞かせ、己に厳しい訓練を課す。そうして確立した自身に、情などという脆弱なものは必要ないとさえ思ってきた。
少年と引き合わされたときも、同じ師を持つだけの関係だと割り切っていたつもりだった。共に修行を重ね彼の才を目の当たりにするにつれ、負けてなるものかとの競争心が生まれた。柔らかな順応性と物覚えの速さで、彼が今にも自分の背中に追いつかんとしていることに、仄暗い何かを感じたことすらあった。
けれども彼は、そんな自分の内心を知ってか知らずか、心からの信頼を自分に向け慕ってくれているのだという。シリアの言葉にほんのりと暖かくくすぐったいものが胸に湧き、ウィラードはなんだか急に照れくさくなった。無意識に火照った頬を覚られたくなくて、少しだけ顔を背けて彼女に問う。
「あいつは、どういうやつなんだ」
もう大分長い月日を共に過ごしておきながら、実は彼のことをまったく知らない、知ろうとしなかったのではないかと、今ここに至って恥じる。同じ黒髪と鳶色の瞳。歩けばいつの間にか隣を歩いている彼。神殿の者たちはそんな自分たちを見て「まるで本当の兄弟のようだ」ともてはやす。そんなふうに言われながら、自分は彼の本質を知ろうとしてはいなかった。どこで生まれて、どこでどのように育ち、何を見てきたのか。ウィラードは、自分よりもより多くの時間を彼と過ごしている彼女にその答えをすがった。
「私も、よくわからない」
そういうシリアの顔に、どこか戸惑いが感じられる。
「5つの時に初めて出会って、それからずっと一緒に過ごしてきて、私は彼を本当の家族だと思っているけれど、それじゃあ彼は一体どんな人なのって聞かれると、まだうまく説明できないの。でも」
「でも?」
「今ひとつだけ気づいたことがある。彼はあなたと同じものを心の中に持っているような、そんな気がするわ」
こちらを見つめ返してくる青い瞳と発せられた言葉に、ウィラードは激しく動揺した。
「まさか。単純に外見が似てるってだけだろ」
確かに風貌などはよく似ていると自分でも思う。人々が言うのはまさしくそういう部分のことだろう。けれども。
「違うわ。アーツの中には、確かにあなたが居る」
まるで御年8つの娘とは思えない力強い断定。その視線はシリュエスタの光の如く、強く確実に心を射抜き、貫かれた心がざわざわと漣立った。己の心の片隅に住まうものを、眼前に突きつけられ暴かれたような気分。生まれ出でたものを押し込むことなどできない、内に抱くものを隠し通すことなどできはしないのだと、青い瞳に、そう諭されたような気がした。
再びやってきた沈黙に耐え切れなくなったのか、腕の中で仔猫が再び啼いた。その声にはっとして彼女が視線を手元に向ける。その様子を、ウィラードは言葉もなく、ただじっと見詰めていることしかできなかった。
ふと辺りを見回せば雨脚は弱まっており、そろそろ止みそうな気配だった。薄い雲の間から赤い夕焼けの光が覗き始めている。
にゃぁ。
その時突然猫の声が耳に届き、二人は驚いた。シリアの腕の中の仔猫が、にぃにぃと激しく暴れている。見れば商店の角に、一匹の雌猫と数匹の仔猫がやってきていた。
「あら、かあさまがお迎えに来たのね」
シリアがにこりと笑って、ゆっくりと仔猫を下ろしてやる。一目散に母猫に駆け寄る仔猫のさまに、ウィラードは思わず表情を崩した。
「よかったな。かあさんの所に戻れて」
そう声をかけると、猫の親子は何もなかったかのように一斉に路地へと駆け出し、水溜りの向こうへ去っていった。
「ったく、礼の一言もなしかよ」
苦笑を浮かべたウィラードを、猫たちを見送ったシリアが振り返った。
「アーツだけじゃなかったみたい」
かけられた言葉の真意がつかめずにいると、彼女が続けた。
「あなたの中にも、彼がいるみたい。いまのあなたの笑顔、彼にそっくりだわ」
普段自分に向けられる笑顔。それを脳裏に浮かべてなおも驚く。穏やかで優しいと感じるそれが共通しているという彼女に、ウィラードは照れ隠しに頭を掻きつつ言った。
「そんなことより……シリアちゃん、本当はあいつを迎えに来たんだろ」
「え」
「隠したってわかる。神殿からの帰りに、雨にぬれてまで、こんなところまで普通はこないからな。別な目的があるんだって考えた方が自然だ」
白い頬が一瞬にして夕焼けのように赤く染まる。見事な洞察に、シリアは彼をからかったお返しをされた気分になった。
雨の上がった通りには人の波が徐々に戻り始めており、帰り道に夕食を買い求める声や、酒場に誘う声などがそこかしこから聞こえ始めていた。ランプに明かりが灯され始め、赤く燃えるそれが二人の表情を照らし出す。
「あれ、シリア。ウィラードも?」
ざわめく人の波の中から突然かけられた言葉に、二人は驚いてそちらを見やった。そこにいたのは黒髪の少年。雨よけのフードを下ろして不思議そうにこちらを見つめている。
「おかえりなさい、アーツ」
少年の姿を目にするや否や、シリアの表情がぱっと輝いた。
「ただいま。どうしてこんなところに?」
「お前を迎えに、わざわざここまで来たんだってよ」
そういうウィラードの口調がなんとなくいつもよりも柔らかいような気がして、アーツはほんの少し首をかしげた。
「ウィラードは、これから夜勤だね」
「ああ。突然雨に降られたんでな、ここで皆で雨宿りしてたってわけだ」
そうは言うものの、二人以外に人影はない。「皆」と呼ぶほどいるまいにといぶかしげに眉を寄せたアーツに、シリアがくすくすと笑った。
「ほら、さっさと帰らないと日が暮れるぞ。お前はともかく、シリアちゃんが帰ってこないんじゃ、おふくろさんが心配するだろ」
腑に落ちない表情の彼を急かし、ウィラードはひらひらと手を振って二人を追いやる。
「あ、うん。じゃあウィラード、また明日」
「ああ」
「またね」
「ああ……」
手を振ってきたシリアに振り返して、ウィラードは並んで歩く二人の背中を見送った。一人になったひさしの下で、少々複雑な想いが胸に湧きあがるのを感じる。
なるほど、あいつの中にもシリアちゃんがいるってことか。
彼から感じる優しさは、確かに傍らの少女に所以するものだ。今まではそれに慄き嫌悪を抱いていた。誰かへの甘えは己の決意を揺らがせ、手に入れた自信を崩落させるものなのだと。
けれども、それだけではないのかもしれない。そこから生まれる強さもあるのかもしれない。己の内のみならず、人とのつながりの中で育つ強さもあるのかもしれない。二人を見つめて、今、そんなふうに思い始めている。
もしかすると自分は、本当は求めていたのではないのか?
すがるのではなく、糧とする人のぬくもりを。
「そう、なのか」
そう呟いてひさしの下から歩み出る。
己の内にはっきりと灯った二つの輝き。
心に淀む隠雲を撥ねるそれを、今度こそ正面から見据えんと決意し、ウィラードは宵の迫った街へと身を投じた。