客気(かっき)、そして静穏なる覚醒 【移】
身支度を整えて部屋を出ると、廊下には案外にひんやりとした空気が漂っていた。どこからか吹きこんでくる風とともに、食事の香りが漂ってきて鼻腔をくすぐる。食堂へと足を踏み入れる直前、おなかの虫がかわいらしい鳴き声をあげた。
「かあさま、おはようございます」
青い髪と青い瞳を持つ少女、シリア・アス・ノーマは、いつものように台所に立っていた母に声をかけた。パンを切っていたその手が止まり、母レティシアがこちらを振り返る。
「おはようシリア。夕べはよく眠れたかしら?」
前掛けで手を拭きながら近づいて、それからしゃがみこむと両頬に軽く口付ける。いつもどおりの朝の挨拶だったが、シリアはどこかそわそわとレティシアに伝えた。
「ねぇ、かあさま」
「なぁに?」
「あのね、ここがすごくどきどきする」
言って胸元を軽く押さえる。
「あら。どこか具合が悪いのかしら」
「ううん。ちがうの……」
心配そうに首元に触れるも、ふるふると首を振って。と同時に言葉が途切れた。どうやら幼子の語彙では、うまく表現仕切れないらしい。不安げな様子に、注意深く顔色を観察していたレティシアだったが、ふとある可能性に至ると、柔らかな頬を両手で優しく挟んで言った。
「シリア、すぐにお顔を洗ってらっしゃい。そうしたら暖炉のお部屋にとうさまがいるから、朝のご挨拶をしにいきましょう」
「はい」
母に言われるままにシリアは頷くと、すぐさまたらいへ向かって駆けていった。その小さな背中を追って廊下に出ながら、レティシアは小さな息をつく。
「まさか」
振り返った廊下の反対側からは、男性の話し声がかすかに伝わってきていた。
*******
「シリア、いらっしゃい」
顔を洗い終えたあと、レティシアはシリアを膝の上に呼び、その髪を梳いた。さらさらと櫛の間をすり抜けていく娘の髪は自分と同じ青。それを見ながらふと考える。
この子は無意識に、自らの置かれた状況を察知しているのだろうか。
見い出した推測に不安がよぎる。昨夜遅く、突然夫の元にもたらされた報と責務。その重さに向かっては、親として、母として、人として、気を揉み憂うことも致し方なかろうとも思えた。
「かぁさま?」
そのときふと、シリアが振り向く。幼くとも心細やかで察しのよい娘だ、やはり何事かを感じているのだろう。心配そうな表情に笑顔を向けて櫛を置く。
「ごめんなさいね。少しぼうっとしていたみたい。さ、とうさまのいるお部屋へ行きましょうか」
「はい」
少しだけ気の張った面持ちの母。シリアは首をかしげながらも手を引かれ、父が居る暖炉の部屋へと共に向かった。
「あなた」
入り口で母が声をかける。
「ああ、いいよレティシア。入っておいで」
低く穏やかな声が返るや、握られた手にほんの少し力が加わる。シリアはそれを感じ取りつつ中に踏み入り、そうして今度はソファに腰を下ろした父、クレード・ラスターシュに目を向けた。
と同時に、父の目の前に立った人物の背中が目に止まる。自分たちの気配に気づいたらしく、その小さな背中がゆっくりとこちらを振り向いた。
年のころは自分と同じくらいの、見たことのない少年だった。闇夜のような黒髪に、鳶の羽色の瞳。初対面の相手に少し緊張しているせいか、引き結んだ口元が凛々しく大人びて見えた。
「おはよう、シリア」
挨拶も忘れ、ぼおっと立ち尽くしたままでいると、父が声をかけてきた。瞬間我に返り、おはようございますと慌てて挨拶する。そうして父は、いつもと変わらぬ微笑をシリアに返してきた。
「今朝はおまえに紹介したい人がいるんだよ」
言うと、少年の肩に手を置く。
「この子は私の知り合いの子でね、事情があってうちでしばらく一緒に暮らすことになったんだ。名前はアーツ・ラクティノースという。ほかの国から来たばかりで、こちらの生活にはまだ慣れていないから、シリアからも色々と教えてあげてほしい。仲良くするんだよ」
クレードは少年の肩から手を離すと、そのまま静かに彼の背を押した。彼――アーツが数歩こちらに進み出てくる。
「さ、あなたもご挨拶なさい」
レティシアに同じく背を押され、シリアもゆっくりと進み出る。しかしながら、初対面の相手に恥ずかしさが勝って、どうにもうまく言葉が出てこない。もじもじと所在なげにしていると、察したのだろうか、彼はゆったりと大人びた笑みをたたえ、それから目の前でやおら片膝をついてかしこまると、突然シリアの右手を取って軽く唇を寄せてきた。
まるで物語に聞く騎士と姫君のごとく。思いがけない彼の行動に、シリアの顔が真っ赤に染まった。直後すっくと立ち上がった彼が、そのまま手を握り締めて続ける。
「ぼくはアーツ・ラクティノース。きみのなまえをおしえてくれないかな?」
「……シリア」
「え?」
「シリア・アス・ノーマ」
小さく震える声で答えると、彼は何度か名前を繰り返し呟いてから、今度は少年らしく朗らかに笑った。
「きれいななまえだね。これからよろしく、シリア」
「うん」
真っ直ぐに向けられる眼差しに、一層頬を熱くしながらこくりと頷く。少しかすれた返事だったがしっかり届いたらしく、彼は満足げになおもにこにこと笑った。
握られたままの手が、身体全体が、まるで熱せられた鉄のように熱くなっていく。と同時に、この手が自分を導いてくれそうな、そんな予感と期待感が、シリアの小さな胸に清々しく湧き上がった。
これが覚醒。血の定め。
遠き乞う想いを呼び覚ます、再びの朝の出会いであった。