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長らくお待たせいたしました。これにて一応完結となります。

 部屋の窓から眺める景色はいつもどおり曇っていた。煤や灰なのか、雪なのかも分からない霧のような薄膜が木々や建物を覆っていた。

 厚い雲の奥にあたたかな熱を発するものがある気はするものの、やはりそれは顔を出すことはなかった。

 窓枠に肘をのせて外を見下ろす。庭先から元気な子どもたちの声がわっと立ち昇ってきた。

「アナ!」

 うしろで扉が乱暴な動作で開かれると同時に、ベラの声。男の子のような振る舞いにわたしは小言を漏らそうかと振り返って彼女のほうを向いた。しかし彼女の顔を見て開きかけた口は勝手に閉じてしまった。

「ベラ、どうしたの? その顔」

「え? か、顔……?」

 ベラはドアノブをつかんでいた手を自身の頬にあてがった。

「誰かと喧嘩でも?」

「喧嘩? いいえ、あたしは喧嘩なんてしてないわ」

「本当?」

「……廊下を走って先生に怒られたくらい」

 怒られるようなことをしたという意識はあるのか、彼女はわたしから目を逸らしてもじもじと身体を揺らした。レモンイエローのワンピースの裾がふわふわと風を撫でる。

「素敵な両親ができそうなんだから、そろそろおてんばは卒業しないとね。飾ってある陶器や花瓶を割るなんていう猫みたいなことは減らしていかないとだめよ」

 ベラは口を尖らせつつ、渋々といった重たい挙動でうなづいた。

「わ、分かってるわよ……でも、まだ決まったわけじゃないし。決まったとしても冬を越してからの話でしょ」

「まだまだ、って言ってるうちにすぐその時がくるものよ」

 眉を寄せて何か言いたげに、彼女はこちらへ視線を向けていた。それを横目に息を落としてみれば、先ほど飲んだミルクと蜂蜜のにおいがかすかに漂った。

 わたしは窓辺から離れてベッドの上に放置していた青色の毛糸玉と、その玉から一本伸びた糸の先に繋がるセーターのほうへと足を進めた。ベッドはきれいに整えていたはずなのに、編むことに集中しているうちに乱れてしまっていたようだった。掛け布団は足先に重なるようにたまっていて、シーツもしわだらけだった。

 ふとベラをこっそり見やる。ベラも少し前のわたしの動きや視線を見ていたのか、ベッドのほうを見下ろしていた。彼女の横顔から覗く瞳には、青がいっぱいに吸い込まれているような気がした。

「ねえ、アナ。話に来たのはあたしのことじゃなくて」

 わたしはベッドの縁に腰かけて、編み途中のセーターとそれに突き刺さったままの棒を手に取った。

「園長先生から聞いたわ。アナ、あなたはずっとここにいることにしたって。孤児院の仕事を手伝うって」

「そうね」

「いいの?」

 目の前に立つ彼女の手が、レモンイエローのワンピースの一部をぎゅっと握り込んだ。

「これでいいのよ」

「でも」

「ずっと悩んでいたわ。でも、やっぱりわたしはここじゃなきゃ落ち着かないみたい」

 わたしは青いセーターを糸がほどけていかない程度に持ち上げ、ベラに注目させるように促した。

「これ、あなたにあげようと思って編んでるの。上からかぶるんじゃなくてね、羽織りものにして、寒くなったらすぐ着れるように。前はボタンがいい? それともリボン?」

 ベラの手がセーターに触れる。指の腹で編み目を確かめるように表面を軽くこすった。

「女の子はリボンが似合わないと」

「あなたなら言うと思った。色はシックな黒にするわ。ちょうど街に出かけた時、手触りのいいものを買ったの」

 肝心なリボンは机の引き出しにしまってあったので、わたしはベラにそれを見せようと腰を浮かせた。しかしベラに肩を押され、おしりがベッドの上へと着地した。ぎし、とベッドの木枠が軋む音。彼女がわたしのとなりへ同じように座るので、二人分の重みを受けたベッドがまた小さく鳴いた。

 肩と肩、腕と腕とをぴったりくっつけて座ったベラの頭が、ゆっくりとわたしの肩にのった。頬をくすぐるふわふわの巻き毛。

「どうしたの、ベラ」

 問いかけても口を閉ざしたままわたしに身体を預けていたが、しばらくするとわたしの腕に腕を巻きつけた。甘えるような仕草だった。彼女の豊かになった胸がやわく腕にぶつかっていた。

「ちょっと寂しくなっちゃった。今までずっとアナがいたから、先のことが考えられないわ。上手くやっていけるかしら?」

「先のことが分からないのはみんな同じよ。わたしだってよく分からないもの」

「アナも?」

「ええ。上手くやっていけるか悩んでも、どうとでもなるわ。だから少しでも不安がなくなるように、少しずつマナーを覚えましょう? 廊下では走らない、食器で音は立てない。木は……登っても許してくれる人たちなら安心ね」

「意地悪だわ……」

 くすくす。小さく震えるような笑い声がベラの頭を揺らす。綿毛のようにふわふわと舞う彼女の髪の毛に頬をうずめる。甘くて優しいにおいがした。

 わたしがベラに身体を傾けたことに気がついたのか、ベラもまたわたしに寄り添う。かすかな息遣いと上下する胸の感触を覚えながら、わたしはそっと目を閉じる。規則正しく鼓動する心臓の音が、板張りの廊下をこつこつと歩き鳴らす靴の音と混じり合った。

 その足音はわたしの部屋の前で止まった。目を開ける。乱暴にやってきたベラが閉めきらなかった扉と枠のすきまから、蜂蜜色が覗いた。

「扉は閉めないと。廊下は寒いんだから、アナの部屋まで冷えてしまうよ」

 ふわりと微笑んだミエルは部屋の中に足を踏み入れると、後ろ手で扉をきちんと閉めた。わたしはもたれかかるベラへと視線を落とす。ベラは目を閉じてぬくもりを感じようとしているようだった。

「ベラ姉さんは意外と甘えたなところがあるよね。そういうところ、可愛いと思うよ」

「アナ。ミエルがからかってくるわ」

「わあ……頬を膨らませてる」

「……何よ。何か言いたいことでもあるのかしら」

「僕に姉さんと呼びなさい、って言った本人なのに」

 ミエルはわたしたちのそばまで歩み寄り、目の前で立ち止まった。ちらりとベラに目を向けたあと、わたしを見た。口角は緩やかに持ち上がっており、桃色の薄い唇が弓なりに表情を彩っていた。わたしは釣られるように唇を引き結ぶ。身体が動かなかった。わたしのすべての縁を、均等に糸で縫い留められたような心地だった。

「ほら、ベラ姉さん。アナが困ってるよ」

 彼の長いまつげが影を落とす。隠れた瞳の先でわたしのとなりに縋る彼女を見下ろしたようだった。彼の強い視線から解かれたわたしは、空気を欲して水面から喘ぐ魚になった気分で口を薄く開いた。

「アナはあたしの姉さんだから、困らせてもいいの」

「じゃあ僕も自称姉さんのベラ姉さんを困らせようかな。さっき院長先生が呼んでいたよ。先生の部屋にある花瓶、ベラ姉さんがぶつかったせいで床に落ちたみたい」

「え、うそ」

「嘘なんてつかないよ。あと、話の途中でどこかに行ったことと、とりあえず廊下を走ったことに怒ってた」

 行ったほうがいいんじゃない? そう告げたミエルの声は、確かに彼女をからかうような色をしていた。

 わたしの腕に押しつけていた顔を上げたベラは、べ、と舌を出した。

「可愛くない!」

「僕は男だから可愛さは惜しくないかな」

「生意気な弟だわ!」

 吐き捨てるように言って、ベラはベッドを軋ませながら立ち上がった。

「あ、ベラ。走っちゃだめだからね」

 今にも走り出して院長先生のところへ向かおうとしたように思えたので釘を差す。彼女は居たたまれさなげに歪めた顔をわたしへちらりと見せつけながら、一歩一歩をゆっくり地につけて歩き出した。

 わたしの目の前でくすくす笑うミエルの背後で、彼女が扉を静かに開く。

「夕食の席、今日はあたしがアナのとなり予約したからね! マナーを教えてもらうためだから、ミエルは文句言ったらだめなのよ!」

 少し力んでしまったのか、扉は空気を裂くように鋭い音を立てて閉じた。

 くすくす、くすくす。

 声を押し殺し、吐息まじりの笑い声が降ってくる。

「おもしろいな。僕、ああいうおしゃべりってしたことないから、なんだか新鮮」

 わたしに向かって伸ばされる白い指。それは先ほどまで彼女がつかんでいた場所を的確に捉えた。

「本当に姉がいたら、あんな感じなのかな?」

 腕にミエルの指が絡む。五つすべてがわたしの内側を感じ取るように、皮膚を押しつぶしていた。骨をぐりぐりとまさぐる圧迫感。拘束に近かった。

「ねえ、アナは分かる?」

 ベッドに片膝を立てて乗り上げた彼が、そのままわたしを押し倒す。軋む音は一つだけだった。

 肘より上を拘束され、ベッドに縫い付けられるように転がされたわたしは目をふせた。ふせているのに、蜂蜜色がわたしをじっくりと丹念に眺めているさまが肌を通して伝わってくる。閉じかけた目蓋やまつげが震えるところ。鼻での呼吸の仕方を忘れてだらしなく口を開け、犬のように短い息を漏らすところ。喉が引きつるところ。肺が酸素を求め胸を激しく揺らすところ。熱く、赤みを帯びているであろう肌までも。

「アナにはたくさんの家族がいるから知ってるか」

 目蓋を開くように指で圧をかけられて、わたしはそっと瞳に彼を映す。煮詰まった蜂蜜の奥でわたしがどろどろと混ざり合っていた。

 わたしの拘束を解いた彼の腕が目の前で揺れる。それは最初宙に浮いていたが、ゆっくりと落ちてきて、わたしの身体の上に重みをのせた。お互いの衣擦れがわずかに耳へ届いた。

「ベラ姉さんの頼みだから、今日の夕食はベラ姉さんに譲るよ」

 幾分か機嫌の良さそうな声音で彼が言って、指先でわたしの顎をくすぐった。輪郭をなぞり、顎の先を何度か往復する。細くて白い指が、喉を滑る。喉仏がないそこは彼の指を引っかけさせることなく、一直線に通らせる。

 見るように訴えられて見つめていたわたしの瞳はいつのまにやら視界がぼやけ、彼の姿をはっきり映せなくなってしまっていた。あふれた涙が目尻を伝い、髪や耳をぐちゃぐちゃに濡らした。

「今日の夕食は何?」

 彼の甘い吐息が鼻先に触れ、身体が揺れる。

 わたしはベッドに力なく垂らしていた腕を持ち上げ、わたしの上を這う腕へと絡ませる。ベラがしてきたように腕と腕をすきまなくくっつけて、わたしがしたように腕と顔を寄り添わせて。

「……今日は、ベラが好きなチキンを焼くわ。あと、デザートにケーキ」

 胸を押しつけるように抱いた彼の腕。わたしの胸の奥の秘密を知った腕の先で、ミエルは微笑んだ。目を優しげに細めて、蜂蜜の中にわたしを閉じ込めてしまうように見つめて。

「ベラ姉さんの喜ぶ顔が浮かぶね。じゃあ、もう少ししたらキッチンに行くんだよね? 僕も一緒に行くけど、いい?」

 わたしはすぐそばにある彼の顔に息を吐きたくなくて、喉を鳴らして息を呑む。彼の指が通ったところを忠実に、息のかたまりが流れてゆく。

「もちろんよ」

 軽やかに廊下を走り出す靴が床を鳴らし、ベッドの脚を通ってわたしの後頭部に響いてくるのを感じながら、抱いた腕が身じろいでわたしの唇へ指を差し出す仕草を見つめた。

 遠くからベラの可愛らしい鼻歌。

 わたしはミエルにじっと見下ろされながら、彼の指を食べるように口を開いた。

需要があるようならば拾われた少年目線の物語もいつか書けたらいいなと思っています。

ここまでお読みいただきありがとうございました。

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