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 おぼんにカップを二つと燭台を載せてミエルの部屋に入る。部屋は暗闇に沈んでおり、わたしが一緒に持ってきた燭台の火だけが淡く光った。

 部屋が整頓されていることは知っているものの、万が一何かに足を取られたら大変なので、燭台を手にして足元を照らしながらベッドまで歩く。敷き詰められたカーペットが音を吸収すると分かるのに、わたしは足を慎重に進めた。

 向かうまでの途中で視界に彼の靴が見え、顔を上げる。ミエルはベッドにはおらず、わたしのことをわざわざ迎えてくれていた。

「ベッドにいてよかったのに」

 顔色を見ようと燭台を持ち上げると、オレンジ色に染まった彼の顔が浮かび上がった。ミエルはやわらかい笑みを作り、わたしの手からすべてを奪っていった。

「ありがとう、アナ。テーブルに置くよ」

「ええ」

 ミエルの正面が淡く光っていた。背中の輪郭から光が僅かに漏れ、まるで彼の内側にまぶしいものが閉じ込められているようだった。

 わたしはベッドのそばに置かれたいつもの椅子に腰かけた。背もたれに寄りかかろうと身じろいだ時、ほんのりと湯気をくゆらせるカップが胸元にあった。テーブルに据えられた燭台がベッド周りを照らすようになったおかげか、ミエルの白い指先から蜂蜜色の瞳がこちらを見下ろしているところまでもが見えた。

「ちょっと熱いみたいだから、火傷しないようにね」

「わたしが作って持ってきたのよ? あなたも気をつけて」

 カップを両手で包むように受け取る間際、ミエルの指も一緒に混じった。ひやりと冷たい感触だ。

「寒かったの? 手、すごく冷たい」

 膝にカップの底をのせて固定しながら、空いた手で宙に浮いたままの手をつかむ。発光しそうなほど白く青ざめた指。表面から冷気を放ちそうに思えた。

 ミエルはベッドに座ってつかまれた手を見ていた。振りほどくことはなく、ただじっと見下ろしていた。それからわたしのその手を覆うようにしてもう片方の手を重ねてきた。

「アナの手はあたたかいな」

「今まで動いていたもの。運んでくる時に少し寒さを覚えたけどね」

 冷たい手のひらがわたしの手の甲にぴたりと寄り添った。緩く握るように折り曲げられた彼の指先が、わたしを撫でる。わたしの手から熱を奪おうとするようにも、彼の少ない熱をわたしに与えようとするようにも思えた。

「ゾーイに触れた手だ」

 絵本を読み聞かせることが得意でない彼の声。感情をのせることが難しいと言って、抑揚もなく一文を読み終える彼の声。わたしに対して言っているのか、ひとり言なのか分からない。

「……あなたは、なんだか手を気にするわね」

 伏せられていたまつげが震え、影の中から金色が覗いた。

「そうかな」

「わたし、あなたに触られるたびに緊張するの。わたしの手はかさかさで、傷も多いから。冬場の今が特にひどいのよ。水仕事で節が切れちゃって」

 彼の滑らかな皮膚とは大違いだった。彼の指が手を撫でる時、わたしの乾燥した象のような皮膚が、彼を傷つけてしまうのではないかと気が気でなくなってしまうのだ。引っかかるような感覚を察知するたび、わたしは手に神経を集中させる。それが何か変えるわけではないのに。

「アナの手は素敵だよ。……僕を拾った手だもの」

 彼は手を撫でることをやめなかった。

「あなたが思うほど、わたしは優しくなんかないわ」

「だからここを出ようとしているの? 拾った僕を置いて」

「……まだ、分からない」

「きみは意地悪だ。優しいからあいまいなのかもしれないけれど」

 手が離れた。ミエルは少し腰を浮かせ、テーブルのカップを手に取った。わたしは彼の行動につられるように膝にのせたカップを見下ろす。湯気はない。真っ白な液体が蝋燭の灯りでつやつやしていた。

 両手でカップを包んでみるが、さきほどのように落ち着くあたたかさは得られなかった。カップの表面がほんのりあたたかいくらいだった。

 カップを口まで持ち上げた時、すぐ下にこちらを向いたつま先が目に映った。光沢が残った茶色の革靴。わたしはそれを辿りながら見上げた。

「ミエル――」

 視界の中を、上から下へ何かが通っていった。

 足下で重たい音がした。カーペットに音を吸われ、本来鳴るはずだったものよりも静かだった。しかしなぜだか、わたしにはそのまま床を壊してしまいそうな音に聞こえた。

 日中に見るカーペットは薄いグレー。今は闇に染まった暗い色。そこを真っ白い液体が一部を塗りつぶしていた。そばには転がったカップ。

 わたしはもう一度顔を上げた。オレンジ色の淡い光にぼんやり姿を浮かばせた彼が、すぐそこに立っていた。肘から持ち上がる手は何かを持っていたように形作られていたが、手を下ろす時に形は消えた。

 思わずわたしは腰を上げ、カップを椅子に置いた。ワンピース型の寝間着の裾を巻き込みながら、カーペットに膝をついた。

「ミルクが……」

 転がったカップに触れた。

「舐めて」

 わたしの上から声が降った。

「アナ。ミルクをこぼしてしまったんだ。片づけてほしいんだ」

 茶色のつま先がミルクを示す。

「舐めて」

 何を言われたのか、すぐに理解はできなかった。じわじわとカーペットににじんでゆくミルクの輪郭を眺めながら、わたしは口を開いた。

「……なに、言っているの。舐めるって……」

 わたしの声は動揺でみっともないことになると思っていたが、案外落ち着いていた。静かで、自分の声なのにどこか他人の声を聴いているような気にさえなりながら。

 ゆっくりと目線を上げてゆく。床に座ったわたしを立ったまま見下ろす彼がいた。蜂蜜色の瞳はやっぱり黄金の甘い液体のようにまぶしかった。

「ねえ、アナ。きみは何を怖がる必要があるのかな。こんなにも僕はアナと一緒にいたいと思っているのに。僕はきみを置いていったり、捨てるなんてことしないよ。弟妹たちも犬もあの医者も、きみのことなんてそのうち忘れてしまうのに。でも僕は違う。だってアナが拾ってくれたんだから。きみが僕から離れないって約束してくれるなら、僕はずっとアナといる」

 蜂蜜色の目が細められた。

「僕ならアナを使ってあげられる」

 ふ、と辺りが外の暗さと同じになった。溶けた蝋のにおいが窓から差し込む月光にのって届いた。

「僕とアナだけだよ」

 手をカーペットに押しつける。背中を丸めて、顔を白に寄せた。垂れ落ちてきた髪の毛がカーペットや白の上に着地した。

 生臭いミルクのにおいを近場で感じながら、唇をそこに当てた。カーペットのざらつきとミルクを吸った冷たい感触。そっと舌を伸ばせば、少し甘い冷めたミルクの味がした。

 目を閉じて舌を伸ばしては引っ込めてを繰り返していれば、わたしの頬を冷たい手のひらが掬い上げた。

 促されるままに顔を向けた。正面に膝をついた彼は微笑み、わたしの頬を何度かさすった。丸みを確かめるように、質感を覚えるように。

 彼の手のひらは頬を滑り、やがて口の端を開くように指を引っかけた。抵抗なく開いてしまったわたしの唇に彼の唇が触れ、すきまを埋めるように舌が刺し込まれた。蜂蜜とミルクのにおいがした。

 甘みを含んだ唾液が行き来した。どうしようもすることができない、何も分からないわたしに、彼は教えるようにただ静かに口を吸った。

 暗闇に沈んだ床に背中を預け、わたしは閉じたまぶたの裏にミエルを映していた。

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