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 院長先生と二人だけで話をする場を設けてもらった。

 これからどうするのか。孤児院に残るのか、ゴートン先生についていって外の世界へ向かうのか。薄明かりにぼんやり照らされた、湖の底のように静まり返った先生の部屋で向かい合って。

 わたしはまだ決められずにいた。そのことを伝えると、院長先生は少し困ったように眉を寄せたけれど、決して激しい感情をぶつけることはなかった。

 瓶の蓋を開けられずに奮闘する、幼子を見守るような瞳。


 消灯の時間を過ぎても眠れなくなり、わたしは暗い廊下をこっそりと通ってゾーイのもとへ向かうようになった。

 暖炉の火も消え、閉じたカーテンのすきまから漏れる月光が帯になっていた。

 少し汚れたクッションに収まるゾーイのとなりに腰を下ろす。短いふさふさの尻尾を左右に振り回し、ゾーイがわたしの手にじゃれついた。

 ゾーイに話しかけるのが好きだ。彼はただただわたしを見つめるだけだから。構ってほしいのだと素直に見つめ、わたしが話しだしても自分の欲を優先させて好きなことをする。けれどその黒くてまるい瞳は、確かにわたしがそこにいることを確認する。

「あなたといると気が楽でいいわね」

 言葉を理解しているようでしていないような、ゾーイの瞳がわたしを向けられた。

「わたし、あなたが好きよ。わたしのことをちっとも考えていないところとか。こうして話しかけても、あなたったらわたしの手で遊ぶことに夢中なんだもの。でもそれがほっとするわ。なんて、手の届かない相手に恋をしている少女みたいね」

 舐められてべとついた指をゾーイの背中にすりつける。それすらも遊んでくれているのだと解釈したのか、ゾーイはやがて腹をさらけ出した。

「あなたね、あんまりそうやって愛想ばかり振りまくのもどうかと思うわよ。勘違いされて、いろんな女の人が寄ってくるの。それで女の人はあなたを浮気者だって怒るんだわ」

 所望されたとおりに腹を撫でた。腹の毛は他の場所よりまばらに伸び、ところどころピンクの地肌が覗いていた。

 目を閉じるゾーイはうっとりと気持ちよさそうに見えて、わたしの手が彼を眠りに誘っていると分かる。

「まだまだ子どもだものね。起こしてしまって悪かったわ」

 手を離すとぱちりと目が開かれわたしを見るが、それ以上引き留めることはなかった。

 可愛らしくておばかなゾーイのおかげか、わたしはどこか満足感に満たされながらゾーイに別れとおやすみの挨拶を聞かせてリビングの扉を開いた。

 開けた時、廊下が見えるはずだった。すきまから手が伸ばされた。指先がぱらぱらと動き、親指と人差し指とでわたしの寝間着の布をつまんだ。

 見覚えのある白い指。そこから視線を上へと辿らせていく。ミルクをたっぷり含んだ紅茶色の髪の毛。

「ミエル? どうかしたの」

 寝間着をつかむ彼の手に手を重ねながら、もう片方の手で扉を押す。ミエルにぶつからないように声をかけてゆっくりと開ききる。ミエルの全身が視界に映る頃、彼の手が寝間着を引っ張ってわたしを引き寄せた。

「眠れなかったんだ」

 ミエルの顔が肩に埋まった。

「わたしも同じよ。心配しないで」

 甘えるように重さを増し、すり寄る頭を撫でる。柔らかい髪の毛に指を通し、梳く。

 後ろで扉が閉まる音がした。わたしではなく、ミエルの手が扉を押したらしい。

「ゾーイのところに?」

 彼は顔を埋めたまま話すものだから、唇の動く様子が布を通して伝わってきた。熱い息を吐くところも。

「少しだけね。何もゾーイが寝不足になるまで居座るつもりはないわ」

 ミエルの頭が居場所を変え、肩に頬を押しつけてきた。首を近いところから見つめられていて、少し居心地が悪い。

「アナ。蜂蜜を入れたミルクが飲みたいんだ」

 浮き出た鎖骨が食べられてしまいそうな距離だった。息を呑むとそれは思いのほか喉を鳴らした。ミエルの視線を感じた。

「分かったわ。あなたの部屋に持っていくから、先にベッドにいて」

「ゾーイのところにはもう行かないよね」

「ええ。真っすぐにミエルの部屋に行く。温めたミルクが冷めてしまうもの」

「この家を出るなんて、そんなことしないよね」

 もたれかかるミエルを見下ろす。前髪のすきまから、蜂蜜色の瞳がちらちらと透けて見えた。

「……聞いていたの?」

「拾った僕を残していくなんて。アナ」

 彼の顔が上を向き、肌が触れそうなほどの距離からわたしを見つめる。いつの間にか背中にぬくもりが這っていて、その近さにむず痒さを覚えても逃げ場はなかった。

「アナ。アナは行くの?」

 彼の吐息がわたしの唇を湿らせる。彼の吐き出した息を吸い込むことが恥ずかしくて、唇を割ることができなかった。

 わたしが口を閉ざしたままでいることが気に入らなかったのか、ミエルの指が下唇の縁をなぞった。腹で優しく触れたあと、清潔に切りそろえられた爪が唇の間を引っ掻いた。

「僕の部屋で待ってる」

 ゆっくりと唇から指が遠退くさまを、わたしは静かに見届けた。

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