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 ある日の昼下がりのことだった。

 冷たい風に吹かれて色をなくした花壇をミエルと二人で手入れしていたとき、孤児院の裏口からカールが自身のコートを腕に抱えて現れた。

 真っ先にわたしのもとへ歩いてきたカールは、それをぎゅっと抱き締めながら、何かを乞うようにわたしを見上げた。

 野暮ったい布の中には子犬がいた。

 すきまから鼻先をぐりぐりと突き出したそれは顔を覆う布の存在が気に入らなかったようで、顔が外気にさらされると動きを止めた。まるい瞳で周囲を窺って、目の前に立つわたしが見下ろしていることに気づくと首を竦めて布の中へ戻った。

 カールが拾ってきた子犬はゾーイと名づけられ、孤児院で面倒を見ることになった。

 自分よりか弱いものを守るように子犬を抱くカールを見て、院長先生は幼い頃のわたしを思い出したと言って懐かしげに笑ったあと、カールへ責任という一つの約束を取りつけた。

 これまでだと考えられなかったカールの大きな返事を聞いた先生は慈悲深い眼差しを向けていて、その目をわたしにも向けていたのだなと外から眺めてみて初めて意識した。

 孤児院で犬を飼うのは二度目だったため、ゾーイの住処は満場一致でみんなが集まるリビングの一角になった。余っていた布で縫ったパッチワークのカバーに包まれたクッションが寝床。

 ぱちぱちと音を立てて燃える暖炉の火に目を釘づけにするゾーイは宙に舞う灰へ今にも短い前足を伸ばさんとし、遊びたい盛りであることをまざまざと見せつけた。ゾーイは心配になるほど無垢で、すぐにみんなとの生活に馴染んでいった。

 外は肌を刺す空気にあふれているというのに、弟妹らはゾーイと乾燥した地を無邪気に走り回っていた。

「遊んでいる様子を眺めていると、冬は暖かいのかなって勘違いしそうになるな」

 窓の枠に肘をのせ頬杖をつくミエルに倣って窓から外を見ると、子犬のゾーイより少し小さいボールを順番に蹴ってはみなで追いかけて、という単調な遊びを楽しむ子どもたちとゾーイがいた。

 閉め切られた窓のすきまから漏れる弾んだ声に、わたしは頬を緩めた。

「戻ってきたら汗を拭いてやらないとね」

 ミエルがこちらに顔を向けた気配がして横目に見る。

「髪の毛、一束落ちてる」

 すっと伸ばされた指がわたしの頬の横をかすめ通り、結び切れなかった短い髪を掬い上げた。人差し指にのせたそれを耳にかけるために、縁をなぞる。上から下へと耳の形を確かめるように指が辿るその感触がこそばゆい。

 わたしは肩を竦めて身をよじった。

「くすぐったいわ」

「ごめん」

「笑いながら言う言葉じゃないわ……でも、ありがとう」

 夕食の下ごしらえをしているわたしの手は包丁と芋を握っている。視界の端で頬をくすぐる髪がちょうど気になっていたところだったので、ミエルのスマートな対応はわたしのごくわずかな苛立ちを霧散させた。

「ねえ、僕も手伝うよ」

 U字型にシンクやオーブン、火元などが備えつけられ、部屋の真ん中に大きな作業台があるキッチンで二人きり。その作業台に向かって芋の皮むきを続けるわたしを観察するか外を見るだけで、とうとう暇を持て余したミエルは窓から離れた。

「その気持ちだけで充分よ。あなたはわたしがちゃんと仕事をしているか、子どもたちがいなくなっていないか見張る役」

「それだけだとつまらない」

 ミエルは機嫌を悪くしたのか、眉間にしわを寄せた。

「僕だって孤児院の家族なんだ」

「でも」

 あなたは貴族のご子息かもしれない。そう思うと、わたしも院長先生も仕事をさせるのにためらってしまうのだ。

 しかしそんなことをミエル本人に言えるはずもなく、口を引き結ぶ。するすると皮をむきながら何を言うべきか少し迷って、わたしは挑発するように顔を歪めてミエルを見た。

「あなた、包丁は扱える? きっと難しくて投げ出してしまうわ。わたしだって最初は野菜を運んだり火をつけるだけの仕事しかやらせてもらえなかったの。だから、まだだめ」

 わたしのすぐとなりに並び、しゃべりながらも仕事をする手元をじっと見下ろすミエルの視線は下を向いているのに、なぜだか目を真っすぐ見られているように感じられた。

「アナは器用だね」

「もう長いこと経験を積んでいるもの」

「僕にもできるようになるかな」

 顔を上げ、わたしを見る。わたしより少しだけ背の低いミエルはわたしを下から窺うように目を合わせてくることが多いが、それほど背に違いがあるわけでもない。明らかに背の低い弟妹らからされるのと、ミエルからされるのとでは距離感が不思議だった。

 蜂蜜色の瞳を感じて、わたしは唇を噛んだ。

「どうかしらね? あなたがここで暮らすことになったら、いずれは何でもできるようになると思うけれど」

「アナは僕がここに暮らしていないとでも言いたいの」

「そうではなくて。だって」

 わたしの声は喉でつっかえ、不自然に途切れた。ミエルは深いため息を落とす。

「何となく、分かってはいたよ。アナも院長先生も、僕を本当に受け入れていないことくらい」

 ミエルの白くて細い指が作業台の上を踊る。無造作に散らばる黄土色の皮を弄ぶ。洗っても取り切れずこびりついたままの土は水で伸ばされ、彼が皮を散らすと泥水が道を作った。

「アナ。僕はね、ここにいたいんだ。家族とか、家とか、そういうのはもう過去のものだって思ってる。着ていた服だって、綺麗にしてもらったけれど、もういらない。売ったほうがお金になる」

 泥水に濡れたのか、ミエルの指先が白い作業台の表面をなぞるとそれを追って汚れた水が線になる。皮むきの手を止めてそれを見届ける。指は自身のほうへ向かうように真っすぐに下っていき、わたしの真下で止まった。最初に指を置いたところが一番濃く汚れていて、大きな土の粒が遠目からでも見えたが、最後のほうになると泥水はもうなくなって、摩擦で彼の指も乾いたようだった。

「もし思い出したとしても、僕はここから離れたくない」

「……でも」

「きみが拾ったんだよ」

 その言葉は優しい音で紡がれた。けれどわたしの奥のほうで何度も何度も繰り返された。どろどろに煮詰めすぎて焼け焦げたように、底にこびりついた。

「ねえ、アナ。きみが拾ったものはどこにある?」

 わたしの指先に吐息が絡んだ。

 

 夕食を終え、しばらくしてから外に出た。うっすらと霧が立ち込めており、暗いはずの夜でも不思議と明るく感じながら、わたしはリードで繋いだゾーイが花壇に鼻を突っ込んでいるところを眺めていた。

 寝る前に外で用を足させるのは、一日で最後のわたしの仕事になった。ゾーイも最後に顔を見るのはわたしだと理解していたため、夜になるとわたしの足元をついて回った。洗い物をする時も、食器を片づける時も、弟妹たちを部屋に押し込む時も、ゾーイはわたしの周りをくるくる、自分の尻尾を追いかけるように回る。

 その仕草は昔、わたしが拾った犬を思い起こさせた。もうとっくに死んでしまったあの子にそっくりで、なんだか胸が熱くなった。

「ねえ、ゾーイ。わたし、十五歳になってしまったわ」

 ゾーイは自分の名前を覚えおり、呼ばれたことで顔を上げた。

「院長先生はわたしの好きなようにするといいって仰ってくれるの。孤児院で働くのなら職員にしてくれるんだって。でも、ゴートン先生がわたしを娘にもしてくれるんだって。先生の娘になったら、お医者様の助手として外で働くのよ。夢があっていいと思わない?」

 花壇を囲う古びたレンガに腰を落ち着けて、鼻の頭に土をのせたゾーイに指を伸ばす。

「ベラが将来を語るように、わたしにもいろいろあるの。わたし、誰かのためにわたしを使うことが好き。だからあなたのために夜の散歩にだって喜んでいくわ。あなたと二人きりで秘密のお話もできるからね」

 くすぐるように土を払うとゾーイは可愛らしいくしゃみをした。

「でも、ちょっと怖いの。思ったよりわたしは使えない人間で、孤児院の外では誰にも必要とされなかったら、って。考えすぎなのは分かってるわよ? 先生はわたしを放り出したりしないって。だってもう何年も顔を合わせているもの。でも怖いの。でも」

 首の下を撫でると、顎を引いてわたしの手の甲に舌を伸ばした。

「わたしは、ここを出るべきなのかしら」

 気づけば、ここで暮らしていた。優しい人たちに囲まれて、穏やかに成長した。弟妹たちがたくさんできた。やっぱりみんな、わたしに優しくしてくれる。

 贅沢だと分かってはいるのだ。たとえわたしがどんぐりの箱をなくしても、埋めた蝶が掘り返されてしまうくらい浅い穴にしてしまったことも、拾った子犬が馬車に轢かれてしまっても。みんな、わたしを責めたりしないのだ。

 優しいアナ。真面目なアナ。かわいそうなアナ……。

「アナ」

 ちろちろと指先を舐めるゾーイから顔を上げると、ひざ掛けを手にしたミエルがわたしたちを見下ろしていた。

「今日は結構冷え込むみたいだから」

 しっかりコートを着て防寒するミエルとは反対に、わたしはいつものようにすぐ済むだろうからと上着を着ずに外にいた。

「コートは着ないとだめだよ。アナが風邪を引いたらみんな悲しむ」

 わたしの身体を包むように屈んだミエルの両手には広げたひざ掛けの端が握られ、そのままわたしをぐるりと覆った。

「耳が真っ赤」

 少し楽しそうに微笑んだミエルがわたしの耳に触れた。縁をつまんで、耳たぶをやわやわと指で挟む。小動物のようなじゃれ合いだった。

「ミエルの手、あったかい」

「今まで室内にいたからね。くすぐったくはない?」

「わざと触ったんでしょう」

 くすぐったがることを知っていての行動だった。指の腹で耳を撫でられ、ぴくりと肩が上がった。

「ふふ」

「趣味が悪いわ……」

「ごめん。となり、座ってもいい?」

「どうぞ」

 耳から手を放し、となりに腰を下ろしたミエルは、わたしに自分の体温を分け与えようとするように身体を寄せた。ぴったりと、少しの風も通さないくらいに。

 彼はあたたかく、わたしは体温を求めて顔を彼の肩へと傾けた。コートの襟元から立ち込める彼の空気が頬を包む。うっとりと目を閉じる。

「ゾーイ」

 ミエルの声が頬から伝わり、わたしの指先で遊んでいたざらつきが消えた。唾液で湿った指はまたたく間に乾き、冷たい風をまとった。自分の指が色を失った植物になってしまったように思えて、目蓋を持ち上げてゾーイを見た。

 ゾーイは行儀よくおすわりをして、わたしたちを見上げていた。

「ゾーイ? もういいの?」

 指を伸ばす。ゾーイはそれに鼻をすりつけるだけで舌を覗かせることはない。

「あなたったら、そんなにお利口さんだった?」

「ゾーイはよく言葉を理解してくれるよ」

 ミエルが手をかざすと、ゾーイは短い前足を折り曲げて地面に伏せた。

「……ミエル、ゾーイに覚えさせたの?」

 子犬の顔は先ほどまでのおてんばさはなく、口を閉じてミエルを上目に見つめていた。まるで忠誠を誓った気高い血統書つきのようだった。

「そういうわけではないよ。僕、過去に犬を飼っていたことがあったみたい。だから何となくできただけ。ゾーイの頭のよさもあるおかげだ」

 ミエルの手のひらが小さな毛むくじゃらの頭を撫でた。ゾーイも目を閉じて身を委ねていた。

「記憶が戻ったの?」

「いいや。ゾーイを見ていたら思い出しただけで。他のことは」

 目が合った。蜂蜜色の瞳はゆっくりと細められ、ほんの少し笑みを浮かべた。

「記憶が戻ったら、何かが変わる?」

「何かって……何?」

 分からず、正直に返すとミエルは笑う。

「ごめん、言葉が足りないな。たとえば、僕とアナの関係とか。何でもいいんだ。アナが厳しくなるとか、僕が冷たくなるとか。今と何かがずれていくのかなって」

「そう簡単に変わるものではないと思うけれど」

「言い切れる?」

「……ちょっと意地悪じゃない?」

「そうかな。でも気になってしまって」

 ミエルの瞳からそっと視線を逸らし、足元でおとなしくしているゾーイを見る。相変わらずこちらを見上げたまま動かないゾーイはお手本のような佇まいだ。

 少し寂しくなって、ふたたび指を伸ばす。遊ぶゾーイが恋しくなったのだ。

 しかしわたしの指はゾーイの口元まで向かう前に、ミエルの手によって動きを止められた。

 びっくりして彼を見た。ミエルはうつむいていた。横顔も美しい彼の鼻先は赤く染まってあどけなさをにじませつつ、瞳はまぶしそうにまつげを揺らしていた。

「僕も舐めてもらいたい」

 指を無遠慮につかんだ手の力は弱まり、しかし形を変えてもわたしを捕らえた。指先をつかんだ手はそのまま甲へと滑り、手首に指を巻きつけた。内側を親指の腹で撫でた。

 血管に直接触れられたような気分がして拘束から逃れようとしたが、わたしの手は力を加えただけで彼の手を振り払おうとすることはなかった。

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