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 数日も経つとミエルは快復した。部屋もわたしのところから空き部屋に移動し、おろしたてのカーテンと淡い黄色のベッドカバーが気に入ったらしく、いつ見ても綺麗に窓やベッドを彩り、清潔にされていた。

 院長先生は知り合いの大人を頼ってミエルのことを話したというが、誰も彼のことを知らないと言ったらしい。ただみな口を揃えて言うことは、ミエルは上流階級の子だろう、ということだけだった。

 彼が最初に着ていた服や靴は、土や泥、黒ずみも擦り切れたところもすべて新品同様に仕立て直されていた。もしものことがあればと先生が専門店に頼んだらしいが、ミエルはあまり喜ばなかった。

 それらはミエルの部屋に備えつけられた、クローゼットの一番奥にしまわれていた。記憶ごと封じ込めるように、それらは息もなく暗闇に沈んでいった。

 代わりにミエルは孤児院を出ていった人たちのおさがりを着た。着古され、色も落ちてくすんだそれはミエルにはとても似合わなかった。それでもミエルは着ることを止めなかったので、なるべく色味が残ったものや、白いもの、あとは新品の毛糸でセーターを編んで、お古を隠すように上から着せた。

 二人で夜を明かして以来、ミエルは元気になったように思う。

 体力も戻り、ゴートン先生からお墨付きをもらって外に出ることも増えた。しかし外ですることと言えば、わたしのとなりでぼうっとするか、一緒にお茶やお菓子をつまみながらおしゃべりするかのどちらかだ。

 元気に走り回る子どもたちに誘われるとその輪に加わるが、あまり得意ではないみたいだった。お絵描きも木登りも経験がないらしく、周りの子を見ておろおろしていた。しかし彼が「不得意」ということを何となく察した弟妹らは彼に、見てくれるだけでうれしいから、と無理にやらせることはない。

 ミエルは少しわたしに似ていた。お絵描きも木登りも慣れ親しんだわたしは一緒にそれらで遊ぶけれど、鉛筆の芯が出ているかだとか、クレヨンがなくなっていないかだとか、遊ぶよりも遊べる環境を作るほうが向いていた。ミエルも同じだった。

「アナったらね、あなたのことをお姫様みたいって言ってたのよ」

 午後になると、わたしとベラは外にバタフライテーブルと椅子を二脚運び出して二人でお茶会を開いていた。ときどき紅茶やお菓子の甘い匂いに誘われて弟妹らが寄ってくる、少し騒がしいお茶会だ。

 そのお茶会は、ミエルが外に出るようになってからは彼も参加した。彼が途中で席を立つことはないので、わたしたちは椅子を一つ増やすようになった。わたしとベラで椅子を一つずつ、ミエルはテーブルに椅子を逆さに載せて運んでくれた。

「おひめさま?」

 深みのある香ばしい香りが湧き立つアールグレイのカップに指をかけて、ミエルは首をかしげた。

「僕のこと?」

 不思議そうに問うミエルに、ベラはつまんだクッキーを振りながらうなづいた。

「あなたを拾った日、あたし街のほうに行ってたのよ。帰ってきたときにアナがお姫様を拾ったって言うものだから、てっきり妹が増えると思ってたの。新しく入ってきた妹にどんなスカートを穿かせようかワクワクしたのに。騙されたわ」

 彼女の手元にぽろぽろと落ちるクッキーの粉を指で集めていれば、ミエルもわたしの真似をしてテーブルに指を這わせた。

「そうだったんだ」

「男の子がお姫様なんておかしいわ! まあ、確かにミエルは女の子みたいな顔はしているけれど……髪の毛は短いし、スカートを穿かないんだから。王子様って言うんなら認めてあげるわ」

「僕は王子様にもなれるの?」

「食べ方だけでなく仕草が上品だもの。加えてその容姿でしょう? あなたは王子様の素質があるわ」

 ベラはいまだにお姫様に憧れを抱く、可愛らしい少女だ。自分を飾ることに努力を惜しまない彼女は、いつも自身の服に自らフリルやレースなどの装飾を器用に施す。明るい栗色のたっぷりとしたウェーブヘアは天然もので、絡まないようにブラシ掛けを忘れず、リボンの色も毎日変える。

「ベラはまず仕草を控えめにしないといけないわね」

 彼女が落としたクッキーの粉は小さな山を作っていた。

「……これくらいおてんばなほうが男の子は惹かれるはずよ」

 恥ずかしそうに頬を赤らめてそっぽを向いたベラは不貞腐れた様子だったが、何かを思い出したのか、ころりと表情を変えてわたしに笑いかけた。

「ねえ、アナ? あたしね、絶対お金持ちの家の養子になって、幸せになるわ。そうして、王子様みたいな素敵な人と結婚するの。孤児院くらい大きなお屋敷で、旦那様と子どもと、犬と使用人で仲睦まじく」

「その話は昔から何度も聞かされているもの。知っているわ」

「ベラ姉さんは可愛いことを考える人なんだね」

「あら、ミエル。ベラの夢に興味があるの?」

「そうなの!? ミエルったら、以外と気が合うじゃない」

 ベラは顔を綻ばせた。行儀悪くテーブルに両腕を組んで載せ、身を乗り出してわたしとミエルに顔を近づけた。内緒話をするように、わたしたちにも同じことをさせた。

「あのね、このことを他の子に聞かれたら喧嘩になるから秘密にしていたの」

 目だけを動かして注意深く周りを見渡して他の子がいないことを知ると、ベラは照れ臭そうに微笑んだ。

「幸せな大人になったらね、あたし、アナも一緒に連れていきたい」

 柔らかな少女の声で空気がわずかに震えた。

「本当はそういうのがよくないって知ってるわ。でもアナがいないと寂しいわ。アナはもう、ここから出ないつもりでいるんでしょう?」

 ベラの青い瞳がこちらに向けられた。青はわたしの声や表情を吸い取ってしまうほど強いもので、そこに映るわたしはひどく情けない顔をしていた。

「それでもいいとは思ってるの。アナがそれを望むなら、あたしはたびたびここに訪れて、アナと今みたいに顔を合わせるわ。でも、もしそれを本当は望んでいないのなら」

 視線を落とすと、紅茶が息を殺してそこにあった。皿に盛られたクッキーはみんなで作ったもので、一枚一枚形がいびつだった。

「アナは外に出るべきよ」

 テーブルが揺れた。テーブルの上にあるものも一緒に震えて、カップは倒れて中の紅茶を吐き出した。皿のクッキーも居場所をずらし、テーブルの上へ滑っていった。

「ミエル? ミエル、大丈夫?」

 吐き出された紅茶はミエルの赤いセーターを濡らしていた。胸元から腹にかけて赤がどす黒く染まっていた。

 ミエルは何が起きたのか分からなかったのか目をまるくしていて、ただただ自分のセーターを見下ろしていた。

「あ……ごめん。テーブルの脚を蹴ったみたいだ。セーターも。アナが僕のために編んでくれたものなのに」

「セーターはいくらでも編めるわ。それより、足を痛めていない? 紅茶で火傷はしていない? 冷めていたとは思うけど……」

 スカートのポケットからハンカチを取り出し、ミエルの濡れた手の甲にそれをあてがった。紅茶を吸った布は冷たく湿っており、カップの中身は完全に飲み時を過ぎた紅茶だった。

 わたしが彼の手を拭っていると、上からミエルの手のひらが重なった。その手はほんの一瞬、わたしの手の甲を撫でた気がした。突然の感触に手の動きを止めてしまっても、重ねられた彼の手がわたしの手ごとハンカチを揺すった。

 重たい。

 浮かせることもなくぴったりとくっつけられた手は、じっとりとわたしの手を覆う。本に挟まれたしおりのようになったハンカチから、微かに紅茶がしみ出していた。

「ありがとう、アナ。平気だよ」

 動けないでいると、手の上から重みが消えた。ミエルはわたしに笑みを見せたあと、ハンカチをわたしの手から抜き取った。

「僕が洗うよ。セーターって、水に浸けたら縮んでしまうんだっけ?」

 その場でセーターを脱ぎ、白いシャツだけになったミエル。幸いシャツまでは紅茶も届かなかったようだ。

「わたしがやるわ。しみ抜きのやり方を知っているから、ミエルはベラとここにいて。あなたが初めて作ったクッキーなんだから、ちゃんと味わって食べないと」

「だったら僕もアナの洗濯の仕方を見ておくよ。覚えておいて損はないよね?」

 わたしが手にした赤いセーターを優しく奪い取り、もう片方の手でわたしを捕まえた。

 ミエルがベラに声をかけるところをぼうっと見ていれば、彼女はなぜだか笑っていた。

 口もとに手を当てて笑うようにと注意しても一向に直す気のない、ベラらしい無邪気な笑い方だった。

「アナとミエルって、なんだか旦那様とメイドみたいね」

 わたしはミエルを見た。わたしを引っ張るように前へ立っているミエルも、繋いだ手を辿るようにしてわたしに視線を向けた。

 目が合ったとき、胸の奥のほうで何かが掠めた。虫食いのどんぐりを箱に詰めたときのぶつかる音だったか、蜘蛛の巣に絡まった蝶を助けるときに使ったはさみの音だったか。子犬の鼻がロビンの雛鳥を押したときの地面をこする音だったかもしれない。あるいは、彼を背中におぶったときの衣擦れか。

「あ、ねえ、エド。アナとミエルってまるで――」

 ベラは楽しい話題を見つけたとばかりに席を立つ。ミエルはわたしの手を引いた。

「旦那様とメイド、だって。姉弟ではないのかな」

 口もとにだけ笑みをかたどって、わたしに諭すような低い声で問いかけた。

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