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 しばらくのあいだ、ミエルはわたしの部屋で静養した。彼が嫌がるなら綺麗に掃除した空き部屋へすぐ移してもよかったが、彼は何も言わずわたしの部屋にいることを受け入れた。

 わたしとしてもミエルが使ってくれるならそのほうが安心した。人が使った形跡のあるベッドや部屋は、それだけで不安をやわらぐものだとわたしは思っている。もちろん、顔や素性も知らない他人であれば別だが、わたしとミエルはそれに当てはまらないはずだ。

 ミエルは三日ほどわたしの部屋のベッドにいた。

 孤児院のかかりつけ医であるゴートン先生はミエルの状態を診て、著しく体力が低下していると言った。運動するよりも快復し、よく食べてよく寝ることを先生やその場にいたわたしにも伝えた。

 孤児院にいる家族はみなその言いつけを守った。ミエルを知った弟妹たちは彼を歓迎し、交代で食べ物を部屋に運んだり、外で遊んだときに拾った植物を窓の枠に載せてプレゼントしたり、彼らなりにミエルとの距離を縮めていた。

 わたしはどのときでも彼らのやりとりを壁際で見ていた。ミエルは笑顔を浮かべて対応しつつも、どこか晴れない表情をしていた。

「弟妹たちがうるさかった?」

「いえ。そうではないんです」

 二人きりになったわたしの部屋で、ミエルはベッドで身体を起こして、わたしは傍に寄せた椅子に座って、という格好で話すことが多かった。

 ミエルは腰までかかった布団の上で両手の指を何度か組み替えながら、戸惑うような、不安定な視線運びでわたしを見る。

「忘れてしまったはずなのに、胸が苦しくなるんです」

 そう言って、ミエルは自身の胸元に手を置いた。

「きっと、僕はこんなふうに人に囲まれたことがなかったんです。興味を持って話しかけてくれる人も、笑顔を向けてくれる人も、僕は知らない。だから、なんだか、変な感じがする。説明の仕方が分からないけれど」

 ヘッドボードに凭れたまま、ゆっくりと頭をかたむけた。風呂に入った彼の髪は見違えるほど輝きを増し、さらさらと絹のように滑らかな手触りに変わった。その髪もかたむきに合わせて流れる。

「だから、こんな話を聞いてくれるアナさんがいてくれて、良かった」

 控えめに、下から窺い見るようにミエルがわたしを見つめた。

 蜂蜜色の瞳をしたミエル。そんな名前のつけ方を、弟妹たちは呆れた様子で聞いていた。そんな犬に与えるような名前のつけ方は彼がかわいそうだ、とみな口を揃えてわたしに抗議した。

 しかしそれを宥めたのは他でもないミエルだった。彼はその名前を気に入ってくれたようで、お姫様や王子様が浮かべる美しい微笑みでその場を収めた。

 最初に彼を見たとき、わたしは童話に出てくるお姫様のようだと思った。髪の短さや着ているものから男の子であることは瞭然だったが、繊細な陶器細工のような顔は男の子のそれではなかった。一本一本職人が手ずから整列させたような豊かなまつげも、均一に削り上げられたような鼻も、すべてが麗しい人形のようだったのだ。

「お礼を言うのはわたしのほうだわ。ここには明るくてやんちゃな子が多いから、あなたのように落ち着いた人とゆっくり話せることを嬉しく思っているの。たとえばエド。あの子は外遊びが好きなものだから、家のどこにいても走り回って大変だわ。ベラも。あの子はとても華やかで綺麗でしょう? でもちょっと気が強くて、本当は木登りが好きなの。だからワンピースを汚しては隠れて洗うの。みんな知っているのに」

 一緒に暮らす子たちの話を誰かにするのはミエルが初めてだった。関わりのある大人はみな昔から孤児院を知っているし、院長先生はわたしよりも子どもたちのことを知っている。かといって一つ下の十四歳であるベラにこんな話をするのも、少し照れ臭いような気がした。

「ミエルは自分の年齢も思い出せないのよね?」

「……いくつくらいだと思う?」

「そうね……」

 椅子から身を乗り出して、ミエルの顔を覗き込む。やわらかな曲線を描く頬はまだ肉が取れずに幼く見える。どのパーツも整ってはいるが、全体的に角がなくまるみを帯びていた。

「喉仏もまだみたい。ゴートン先生のは見たことある? 喉を中から突き破りそうなくらい、こんなに出っ張っているの。あれって食べるときに邪魔になったりしないのかしら? 空洞なのか、骨なのかも分からないわ」

 わたしは自分の喉を撫でさする。ゴートン先生のようなものはなく、平らだ。

 わたしの様子を眺めていたミエルは声を上げて笑った。

「面白いことを言いますね。あれは確かに骨の一部だけど、なんの邪魔もしないんです。変わるとしたら、声ですね。僕にもできたら、きっと今の声より低くなると思いますよ」

 言いながらミエルも自分の喉に手をやった。

「だから、僕はまだ子どもですね。アナさんより年下だと思います」

「わたしなんかよりよっぽど博識だけれどね」

 肯定するように笑うミエルを恨めしく睨みつつ、わたしは椅子から立ち上がった。壁掛け時計を見れば、短針は九を指していた。

「さて、そろそろ消灯の時間ね。電気を消すから、ミエルは横になって。冷えるから布団でしっかり首まで覆うのよ」

 椅子を机の脚の間に寄せながらミエルに声をかけるも、ふと彼を見るとまったく動いていなかった。わたしと話していたときと同じ体勢のまま、片付けをするわたしを見ているだけだった。

「ミエル?」

 蜂蜜色の瞳が、スプーンでぐるぐるとかき混ぜられたように揺れた気がした。とろりと絡みつくそれに、わたしは不安を覚えてミエルの名を呼ぶ。

 ミエルは目をふせ、引き結んだ口を開いた。

「……アナさん。僕、寝れないんです。ここはとても優しいところで、落ち着くんです。でも、目を閉じると胸がどきどきするんです。ゴートン先生の喉みたいに、アナさんが言うように、心臓が胸を突き破りそうなほどどきどきするんです。これはなんでしょうか。先生は何も言わなかったから病気ではないと思いますが、気になって気になって頭が冴えてしまいます」

 僕はおかしい。

 か細い声で、今にも空気に溶けてなくなってしまいそうな声でミエルは呟いた。

「ミエル、大丈夫よ。それは別におかしいことではないわ」

 目だけでなく顔ごとうつむいてしまったミエルの傍に寄り、細い肩に手を置いた。もう片方の手で顔を上げさせるように、彼のまるい頬に手を這わせて持ち上げる。

「大丈夫。年少のカール、いるでしょう? あの子は二週間くらい前に来たばかりでね、家族はお金がなくて彼をここに託したの。カールはひどく不安定で、しゃべることも泣くこともなかった。でもね、ある日粗相をしてね、あなたが起きたときのように朝早くからわたしのところに来たの。それで一緒に裏の森に行って二人だけで布団を洗ったのよ。あまりにも早くに起きたから、もう一度寝かせようと思ってわたしのベッドに招いたわ。蜂蜜入りの温かいミルクを飲ませて、絵本を読んだ。そしたら面白いようにぱったりと寝たの。それからカールはしゃべるようになったし、嫌なことや怒られたら泣くようになったわ。粗相はまだしてしまうけれどね」

 薔薇色に染まった頬を優しく撫でると、ミエルは目を細めてわたしを見る。わたしの顔を目の中に閉じ込めてしまいそうなほど、真剣に。

「今日はミエルのために蜂蜜入りの温かいミルクを作ってあげる。それを飲んだら布団に入って、寝息が聞こえるまで本を読みましょう。でもあなたはカールではないから、絵本は幼稚すぎるかしら」

「ううん。それがいい。絵本にして。僕、絵本を見たことがないかもしれない」

「そうなの? あなたの家は真面目で厳しかったのかしらね。じゃあ、ちょっと待ってて。二人分のミルクを作ってくるから」

 扉を開けながら彼のほうを振り返る。ミエルは薄く微笑んでいた。

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