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昔からよく拾い物をする子だった。虫に食われたどんぐり、蜘蛛の巣に絡まってしまった蝶、巣から落ちたロビンの雛鳥に鼻を寄せた子犬……。
ベッドに横たわって目を閉じている男の子を見ながら、院長先生は昔のわたしの話をした。
わたしはそれを聞いて、そんなこともあったなと幼い日の自分を思い出す。物心つく前からボードレール孤児院で暮らしていたわたしは、ある意味でとても純粋な子どもだったのかもしれない。
奇妙な拾い物をする小さなわたしを変な子と嫌悪するでもなく孤児院の兄姉は、かわいそうに思ったのね、心優しい妹のアナ、と受け入れてくれた。
食われたどんぐりは四角い箱に詰めて。かわいそうな蝶は蜘蛛の糸をきれいに取り除いてから土に埋めて。腹を空かした一人ぼっちの子犬にはミルクと肉の切れ端を与えて。兄姉はわたしが実行しようとしたそれらを傍らで見守って、ときどきお手伝いをしてくれた。
「まさか、十五歳になったアナが人間の男の子を拾ってくるなんて」
わたしの部屋のベッドの上にいる少年を見た。額に張りついた前髪を横に流してやって、かたく絞った冷たい布巾をあらわになったそこに載せる。髪の色と同じ、ミルクをたっぷり混ぜた紅茶色のまつげがふるりと揺れた。
わたしはこの少年を拾った。
拾い物は兄姉が孤児院を出ていってからしなくなり、新しく入ってきた弟妹が似たようなことをしたときにお手伝いをする役に代わった。
少年を拾ったのは、裏にある森へ遊びに行った今日の昼過ぎだった。どんぐりや色が抜けた落ち葉を集める弟妹たちを見守っていたそのとき、肌を刺す冬の風に吹かれて、丸裸になった木の根元で彼を見つけた。
灰色に染まりかけた風景にぽつんと現れた彼の髪はまろやかな秋色だったので、見落とすはずがなかった。
弟妹たちは冷たい空気に触れて頬を真っ赤にしているのに、少年は素直に空気を取り込んで青ざめていた。弟妹やわたしより質の良さそうな重たい召し物は泥や煤で黒ずんでいた。何より少しだけ開いた口のすきまから漏れるか細い息遣いが、今にも消えてなくなりそうだった。
気がついたら少年をおぶっていた。幼い頃のわたしだったのか、今のわたしだったのかは分からない。けれどこの少年を、確かにわたしが拾った。
「仕立てのいい衣装だったから、貴族のご子息なのかしら」
あまりにも手触りのいいシャツやジャケット、コート、ズボン。それらをわたしたちの手で洗っていいものか悩んだ末、結局洗わずにわたしの部屋の机に置いてあるまま。履いていた靴もわたしたちのものとは違って形もよく滑らかだったが、随分歩き続けたのかかかとは擦り切れ、跳ねた土や泥が乾いてこびりついていた。
「このあたりでは見かけない顔だとは思うけれどね……どちらにしても、ひとまずここで休ませてあげましょう。明日ゴートン先生に来て頂いて診てもらうことにするので連絡を取っておきます」
院長先生はふうと息を落とし、ベッド際に寄せて座っていた椅子から立ち上がった。
「わたし、ここから離れないほうがいいですよね。起きたとき、知らない場所で一人きりだったら怖いもの」
「そうですね。アナは夕食の手伝いはしなくていいから、しばらくここで様子を看てあげて」
「はい」
柔らかく微笑んだ院長先生は、さきほどまで座っていた椅子にわたしを誘導させた。おとなしくそこに腰を下ろすと、先生の大きな手がわたしの肩に触れた。
「彼が起きたら教えてください」
「はい」
「一応ミルク粥を作っておくので、持っていきます」
「はい」
机に置いてある少年の汚れた服を持って部屋を出ていく先生の後ろ姿を見送ってから、わたしはこの部屋に一つだけはめ込まれた窓を見た。カーテンを両脇に束ね、小豆色の木枠に囲われたガラスの奥で、寒そうな背の高い木々と工場が立ち並ぶ中心街が絵画のように切り取られていた。
夕暮れは細い地平線から藍色に染まりつつあった。綺麗ではあるが、一日中曇り、濃霧と工場の煙や煤が舞っているので空の色も膜を張ったようにかすんでいる。
ベッドのヘッドボード側にあるその窓はすきまから風が吹き込んでくることが多く、カーテンの裾が震えていた。
わたしは窓に近寄り、自分のコートやタオルで両開きの窓のすきまを埋めるようにそれらを塞いだ。カーテンも閉めようと思ったが、少年が起きたとき外を気にすることを考えて開けておくことにした。
窓から差し込む淡いオレンジ色が少年の顔をうっすら染めている。長いこと外にいたのか、彼の身体は不調であることを訴えるように熱く、幼さの残るまろやかな曲線の頬も赤く熟していた。
それはそれで不安にもなるが、拾ったときのように青ざめているよりはよっぽどましに思えた。
それからしばらく、身じろぐことなくおとなしく眠りにつく彼の額に載せた布巾を、濡らしてまた置くということを何度か繰り返した。
夕食ができても彼は目を覚まさず、じっと横たわっていた。
その日に起きることはなく、気づけばわたしは椅子に座ったまま夜を明かした。
彼が目を覚ましたのは翌日、早朝だった。
いつの間にか寝ていたわたしは自分の頭ががくんと下に落ちた衝撃で飛び起きた。首の筋が一気に引き伸ばされるような痛みや、凝り固まった腰の油を切らした機械のような軋む音よりもまず、肩に引っ掛けるようにして身体の正面を覆った自分のコートがあることに気がついた。
窓はカーテンが開いたままで、すきまを埋めたはずのコートがそこからなくなっていた。他の服やタオルは押し固めたようにとどまっていて、コートの分だけくり抜かれたそこは未完成のパズルのようになっていた。
朝日も顔を出していない外の景色は濃霧に覆われて灰色だった。
自分のコートに手をかけて、ベッドの彼を見る。彼は横になった体勢のまま、枕に片頬を押し付けてわたしを静かに見つめていた。まろやかな秋色をしたまつげに縁どられた瞳は、瓶に詰めた黄金色の蜂蜜のようだった。
「……おはよう。気分のほうはどう?」
看病していたはずのわたしが眠りこけていたところを観察されていたのかと思うと恥ずかしくて、彼が緊張しないよう笑おうとした顔が引きつった。
彼は静かなその瞳でわたしを捉えつつ、上体を起こそうと腕を敷布団についた。ぐ、と力を込めたと思われるが身体の重さに耐えきれなかったのかふらつき、わたしは慌てて手を貸した。
「無理に起き上がらなくていいわ」
彼の肩を掬い上げるように支える。孤児院を出た兄のものだった寝間着は彼には少し大きかったらしく、肩の生地は余り、襟元も大きく乱れていた。
「大丈夫です。あの、座って話がしたいです」
彼の声が耳元のすぐ傍で聞こえた。思いのほか近くまで寄ってしまっていて、一瞬息を呑んだ。胸を撫でるようなむず痒さを残しながら、わたしは彼の言うとおりにした。
「すみません」
肩を支え、ヘッドボードに凭れさせた。彼の腰に負担がかからないよう枕を挟み込んでから、わたしは椅子に戻ろうとした。けれど、彼の体調が気になった。
「気にしなくていいわ。あの、少し額を触ってもいい?」
彼がうなづいたのを見届けて、手をそっと額に当てた。手の甲をくすぐる彼の髪を見つめながら、触れた額の熱さを考える。昨日よりはやわらいでいるがまだちょっと熱い。
彼も彼で身体が冷たいものを欲しがっていたのか、わたしの手のひらの感触を覚えるように目を閉じていた。
「だいぶ良くなったみたいで安心ね」
その姿が弟妹と同じで、いつの間にかわたしの中にあった緊張感は消えていた。
弟妹を相手にするときの顔が自然と浮かんだ。
「はい……あの、ありがとうございます」
手のひらを放すと同時に目を開いた彼は、その目を細くして微笑んだ。
「いいのよ。無事で何よりだもの」
「昨日のこと、僕、少しだけ覚えています。あなたが背中に背負ってくれた感覚も、残ってる」
彼は気を失う隅でわたしを見たと言った。
「イチョウの葉っぱみたいな髪と鮮やかな緑の目が、灰色の世界でとても色づいていて。目を奪われてしまいました」
視線がわたしの髪に向けられて、思わず自分の髪に手を伸ばす。
「寝起きだからぼさぼさだったわ」
優しげに微笑む彼の視線を受けながらわたしは髪を手櫛で整えて、いつもと同じようにうなじあたりでまるく一つにまとめた。
「昨日の残り物になるけれどミルク粥は食べられる? 昨日から何も食べていないから、きっとおなかが空いているわ。温めてくるから、ちょっとここで待っててくれるかしら」
ミルク粥を完食した彼を院長先生と見届けてから、三人で話をした。
先生の質問に対し、彼は困ったように眉を歪めた。すべての質問を彼は、分からない、とだけ返した。
どうしてあそこにいたのか。家はどこか。家族はいるのか。名前も年齢も、すべて忘れてしまったと。
院長先生とわたしは顔を見合わせた。ひどく悲しげな表情を浮かべる彼が嘘をついているとも思えなかった。
「とりあえず、しばらくはこの孤児院にいてくれるかしら。今日はあなたを診てもらうためにお医者様も呼んであるから。今日一日、アナの部屋でいいかしら」
「わたしはそれで大丈夫です。空き部屋の掃除をして、そこで寝起きします」
「それがいいわね」
わたしは食器の片づけをしようと空になった器やコップ、スプーンが載ったおぼんを持った。
先生も彼と二人で話したいだろうと思ったから、わたしは弟妹たちのところへ行くことにした。事前に現状の説明をして彼と弟妹たちの間に生じる狼狽えや緊張などを防いでおこう。
ところが扉を開く寸前で、後ろから彼に呼び止められたのだ。
「アナさん。僕に名前を頂けませんか」
振り向いて彼を見つめる。蜂蜜色の瞳が、まっすぐ、じっとわたしに定められていた。
「……ミエル。蜂蜜色の瞳だから、ミエル」
彼――ミエルは、嬉しそうに笑った。