第38話 気付き(後編)
足立が紡いだ言葉は、大原の、そして山田でさえも予想できなかったものだった。
「まぁ、陽子は、だけれど……私、別に感情を操ってみたい、なんて思わないから。」
「―――――」
風が、吹いた。
お互いの間にあった湯気は吹き飛ばされ、お互いの瞳がはっきりと見える。大原と山田は、彼女のその無垢な瞳に、吸い込まれそうになった。
「おも、わない……」
大原と山田の表情に、足立は慌てて首を横に振った。
「あわわわわ!ごめん!変なこと言った!!」
「い、いや別に――」
「ううん!典子ちゃんが頑張っているって知っているはずなのに、すごく無神経なこといった!ごめん!そして忘れて!!」
足立は勢いよく湯船から体を起こす。
「わ、わわ、わたし、先に上がっているから!!」
「あ、陽子!」
山田の制止も聞かず、足立は濡れた床に脚を取られそうになりながら、露天風呂を後にした。
「……」
「……別にそんなこと、思ってなんかいないのに……」
大原は小さくつぶやき、彼女が消えていった扉を見つめる。
「なんとなく気付いていたのね、陽子さん。私が、うまく能力を使えていないのだって。」
「……」
山田は、大原が何を言うのか見守った。彼女が抱えているものは、自分のものよりも大きいと、そう思っていた。大原が見せる瞳は、いつも夕日のように哀愁に満ちていると。
けれど今の大原の瞳には、それがなかった。それが、山田に妙な不安を抱かせた。
「でも、今の言葉はとても衝撃的だったわ。」
「……」
「どうりで、使えないはずね。」
大原は自嘲し、口元を歪ませる。
「私は、感情を操りたいなんて、思ってなんかいなかったのね。」
「……」
「私には能力を使うイメージも、感情を操るイメージもない。『ネツァク』という能力が何かを知って、私はそれに合わせようとしていただけの、空っぽな人間だったのだから。
……ほんと、私は、何もできない人間ね……」
「典子……」
山田は目を泳がせた。別にそんなことはない、そう言おうとして、口にするのが嫌になった。その言葉を言おうとした相手が、大原ではないと分かったからだ。
「わたし、先に上がるわ。」
「典子?」
「優華。私ね、どれだけ努力してもその努力が報われないこの能力が、嫌いなの。」
「……」
「自分がいかに何もできない人間なのかって、思い知らされるから……」
「そんなこと――」
「けれど、私は努力することしかできないわ。何をすればいいのか、暗闇の中に手を伸ばして、我武者羅に取り組む……それしか、知らない人間だから。」
「典子……」
「そして、今、私は今までの努力の仕方が間違っていたって、気付いた。
だから、今度はそれを直すわ。」
「直すって、どういう?」
視線をそらす山田をまっすぐ見つめて、彼女は言う。
「やり方を変えてみよう、と、思うの。」
「……?」
「そうしたら、きっと――あなたの役に立てると、思うから。」
「の――」
山田の返事を待たずに、大原は出ていった。最後に大原が見せた笑みは、見ていてほしいと、そう言わんばかりのものだった。
それが山田の胸を、小さく刺した。
「思わないから――か……」
彼女は湯船の中で膝を抱え、脚の先に映ったものを見つめて唇を噛む。
「あたし……は……」
朧な星空が、霞にのまれようとしていた。
◇
「能力はイメージが無ければ発動しない。私は、感情を操りたいなんて思ったことがない。“感情を操るイメージ”が存在していなかった。
なのに、私は『ネツァク』を発動させた。つまりそれは、『ネツァク』には私の知らない全く別の能力効果が存在しているということだわ。」
大原典子は、その意見を確信たらしめるだけの、根拠があった。
(世界10大能力に指定されている能力は、指定されるだけの理由がある。
……『ネツァク』の正体は、感情を支配し、人の行動原理を煽動し操作する“対集団・人類種能力”。
この能力の“脅威”的なところは、衝動的に人間を突き動かさせるということよりも、相手に能力が使われたことを認識させないで、操ることができるという点。
『ネツァク』は能力発動後、能力を行使していなくても、一度生み出した感情による行動意志は残り続けるという特徴がある。だから、感情を付与された後の行動は、全て付与された人間の自己意識によって決定されている。
恐ろしい話だけれど、例えば私が優華や陽子に対する憎悪を植え付けられたとして、その後もし私が彼女たちを殺す計画を立てたとしたら、その計画を立てて実行しようという意志は、能力ではなく全て私個人の自己意識によるものになる。行動そのものは本人の意識から下された決定事項だから、その行動そのものに能力による影響はなく、証拠も残さない。
そして、これを軍人や国の重鎮に施せば、『ネツァク』は国家を操れる能力に変貌する……)
大原は震える吐息を漏らした
「煽動支配能力ーー『ネツァク』。
国家操作を目的とした洗脳能力。これが『ネツァク』が世界10大能力と言われる理由。
……そう、おばあさまは言った。
けど――本当にそうなの?」
大原は、部屋の隅に置かれたホログラムを見やる。
(姉――『ツクヨミ』の能力、世界10大能力の一つ『ティファレト』。これは光に関する能力と言われているけれど、その本質は“オドとマナの任意相互変換能力”。これと同じことが、『ネツァク』にも言えるのではないかしら?
『ネツァク』は“感情を操る力”と言われているけれど、その仕組みについては暈されている。
“感情を操る能力”その原理、その本質は、一体、何?
そんなあやふやな能力なのに、感情を操れるというだけで、“国家操作を目的としている”という考えは、飛躍しすぎではないの?
感情を操る能力だから10大能力になったんじゃない。10大能力『ネツァク』が、感情を操れる能力も持っている、というだけなのでは?
だとしたら――)
あふれ出した疑念はとどまることを知らず、雪崩のように彼女の思考回路を走らせる。
「私は、感情を操りたいなんて思ったことがない。なのに、私は『ネツァク』を発動させた。
イメージのない能力は決して発動しない。ということは、私が能力を使ったときのイメージは、全然違うものだったということ。それはつまり――」
(私が持っている能力は、感情を操る以外にもできることがある、いいえ、むしろそちらの方が本命ということだわ。それなのに――)
あなたの能力は、感情を操る能力、『ネツァク』よ。
「私に、私の能力は“感情を操る力”だと言ったのは、あの人。それは嘘じゃないにしても、正確じゃない。そして、『ネツァク』の目的についても教えてくれたのも、あの人だった。だから――」
彼女は震える手でボタンを押した。
「もしもし、お母さん?……ええ。私は元気よ。……ええ。それで、一つ、聴きたいのだけれど……」
おばあさま――『アマテラス』は、いらっしゃいますか?