第10話『托生の救った者』
──ソータはそれに、鼻をすする。
「っ…そんなっ!」
目の前の彼女の瞳からは、ほろほろと涙が溢れていた。
人の苦しみを理解できるのは、優しさを持つ者だけなのだろうか。いや、それは少しだけ違う。
優しさは、悲しみと苦しみによって育まれると言っていい。だが、ソータの優しさは、悲しみと苦しみの強い嵐の中で、消えることのなかった火のようなもの。
奇跡的──ソータの優しさが残ったのは、この言葉でしか言い表せない。
彼女もまた、不安をぬぐい去るのに必死だったのだろう。
優しさは、同時に悲しさを強く感じるきっかけにもなる。
今の彼女の心中は、容易に想像できた。
──同時に托生は、自分が壊れた理由に納得していた。
ソータに抱き締められ、体が互いに温かみを溶かしあう。
「その後、俺は16歳で孤児院を出た。トラウマは克服して、8歳の心花を非正規な仕事で養ったが、世間様からは後ろ指さされまくった…それを続けて1年だ。お前の12年間ほどじゃないけど」
「いいえ、托生さん。托生さんは本当に頑張りましたよ?とても辛かったと思います。それを誰にも打ち明けずに、信じることに怯えてきたんでしょう?」
「…うん」
「…妹さんは、あなたのことを、どう感じていてくれたでしょうかね?便りがいのある兄として認めてくれたんじゃないですか?その世界での托生さんは、いくら後ろ指を差されても、めげずに妹のために頑張っていたんでしょう?」
ソータの一言に、托生の暗い記憶の中に、明るい光が灯される。
自分が救ってきたもの──その人は托生のそばに、誰よりも近くにいてくれた。
記憶の復帰とともに、彼の記憶が蘇る。
※一年前
心花との二人暮らしを始めた16歳の彼は、父母の遺産で心花を養いながら、ニート生活を送っていた。
何の不便もなく心花を小学校に通わせていた托生は、父母が自分を養ってくれていた時を思い出す。
金はいつか尽きる。今のままじゃダメだと思い始めた。
そうして托生は、近くのコンビニでアルバイトを始めた。
その仕事は、体が弱い托生にはかなり辛い労働だったが、バイトリーダーが優しい理想のアルバイトだったのが幸運だった。
そこで出会う人と関係を築いていって、托生は正真正銘のコミュ症にならずに済んだのだろう。
心花は元気に学校に行き、友達もできた──これだけでも、頑張った成果があったというものである。
だがその生活を続けて6ヶ月が経ったとき、彼に倦怠感が襲ってきた。
このまま続けて何になる──ついにそんな考えが現れ始めた。
だが彼は、怠惰の末にあるものがどれだけ恐ろしいものか知っているからこそ、続けていた。
その頃、托生に嬉しいことがおこったのだ。それはある日突然に訪れた。
その日はやけに疲れがひどく、バイト先で倒れた托生は、バイトリーダーにすぐさま家に送迎された。
自己嫌悪に陥る彼は、心花に会わせる顔がないと思っていたが、勇気を出してドアノブを引いた。
「兄さん、おかえり!」
心花はいつものように、笑顔で托生を出迎えてくれていた。
彼はほっとしたが、心花のウキウキした様子に釈然としなかった。
嘲笑うつもりかもしれない──と覚悟を決めたその時。心花は彼に、ある箱を渡した。
「実はね!今日、図工の時間で、家族に手紙のプレゼントをするのをやったの!」
「これを…俺に?」
「うん!」
にこやかな心花に免じて、受け取らない訳にいかず、ありがとうとだけ伝えてそれを受け取った。
「恥ずかしいから、自分の部屋で読んで!」
無理矢理部屋に押し込まれ、椅子に座って箱を開けると、そこには桜色のハンカチが入っていた。
そのハンカチには、丁寧に『いつもありがとう』と刺繍されていた。
「へっ…何だよ…これ」
托生は思わず笑った。シンプルな言葉なのに、気づけば瞼の奥が熱くなって、涙が溢れていた。
そのハンカチは思い出すまで忘れていたが、その時の感動は脳裏のどこかに残っていたのだろう。
心花がいたから、頑張れた。
「俺は心花の兄として、カッコ悪くないやつだったのか…」
「ええ、絶対に…!」
ソータは抱き締める力をよりこめはじめた。
「ソータ、まだ…泣いていいか?」
「はい。いいですよ。思う存分、全てを吐き出して…」
また彼は、まるで子供のように泣き出し、ソータはそれを優しく受け止めてくれた。