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作者: フジイもぐみ

 目の前には、豪華な祭壇。そこには昨日まで隣で漫才をしていたレオの遺影が飾られている。レオは祭壇の下で今にも起きてきそうだ。

 ユリは何度か、棺の中のレオの顔を覗いては、式場の一番前にあるパイプ椅子に座る。それを繰り返していた。

 お経が終わって二時間経つ。大抵の人は焼香後、親族やユリに挨拶を済ますと、惜しみながら会館をあとにする。そのため、式場内は閑散としている。人があまりいないため、エアコンはついているが肌寒い。急なことだったので、ユリはジーンズにヒートテックの長袖シャツだ。室内のため、ジャケットだけは脱いで、首にはマフラーを巻いていた。

 通夜に間に合わなかった人が弔問にやってくる。客足はぽつぽつとだが、途絶えはしない。そのほとんどが、自分も知っている人だから、ユリは余計にレオといた時間が長かったということを痛感する。ただ、涙は出ずにため息ばかり出てくる。それを人気のないところで何度もついている。 

「ユリちゃん」

 声をかけてきたのは、レオの母親だ。喪服がタンスの中に入っていたためか、防虫剤の香りがユリを包む。いつもは綺麗に化粧をしているがそれは崩れ、目の周辺が黒くなっている。涙が止まらないのか、ユリが会場へ着いてから、ハンカチを手放せない様子だ。そのため、これ以上腫れることはないであろうぐらい、目が腫れている。

「むこうにご飯用意してるから……夕飯食べてないでしょ?」

 こんな時にも、食事の心配をしてくるレオの母親との親近感を抱かずにはいられない。

「ありがとう。でも、まだこっちにおるわ」

 軽く微笑むと、レオの母親はそれ以上何も言わず、さらに目に涙を浮かべる。

「母さん」

 後ろからこっそり、声をかける。肩に手を置いて優しく摩る。レオの兄は涙を流す母に、それ以上何も言わず、その場から誘導した。

 レオの母と兄の後ろ姿が見えなくなって、ユリはまた静かな棺の中のレオを見に行く。今にも起きだしそうな表情をしている。

「昨日のライブが、最後の漫才になってしもたんか……」

 昨日、ライブの打ち上げの後「お疲れ」といつもと同じように、間抜けな顔で帰っていったのを見送った。普段と変わらないが、ユリは結構酔っていたため、うっすらとしか覚えていない。レオは酒が飲めないくせに、その日は調子に乗ってビールを一気に飲んでしまったから、目がずっと据わっていた。「あほやな」と笑ったのは覚えているが、ユリも呑み過ぎてあまり覚えてはいなかった。

 ユリはレオの顔を眺めながら、明後日のことは一瞬だけ飛んでいき、感傷に浸る。弔問客の足がちょうど止まり、静かにぽつんと二人だけが取り残された。

「ユリ!」

 小声で叫ぶ声が聞こえる。突然呼ばれたため体がびくっとなる。ユリの耳に十分すぎるほど聞こえたため振り返ると、マネージャーの酒井だった。感傷に浸っていたのに、それを遮られ、酒井に対する嫌悪感が一気に増した。怪訝な顔をしつつ、ゆっくりめに酒井に近づく。

「来るん遅かったやん」

 嫌味に聞こえるように言い放つ。ただ、酒井はそれを聞こえてないかのように返答はしない。酒井が式場の外へ足を進めるため、渋々ユリも後ろをついていく。会館の外へ出て、車の駐車スペースで足が止まる。街灯の下で酒井は内ポケットに入れていた手帳を大きく開いた。

「明日のスケジュール、全部キャンセルしてるから」

 何の相談もなく勝手に言い放つ。何か言いたいが、言う気になれない。酒井は手帳をユリに見せるために開いたのではなく、キャンセルできたかの確認のため、その仕事を指でなぞって「OK」と頷いた。

「じゃ、俺は今からタイフーンとこ行って、また戻ってくるわ。お前、どうせここにおるやろ?」

 どうせという言葉に悪意を感じる。返事をせずに軽く頷くというのが、ユリに出来る反抗だった。

「じゃあ、また戻ってから詳しい話するわ」

 眼を見ずに、こちらに気遣う言葉を一切出さず、酒井はユリを残して立ち去った。

 式場に戻るのが億劫でその場にしゃがみこむ。冷たい空気が心地いい。だが寒い。首に巻いたマフラーを二重にし、寒さを何とかしのごうとする。ただ、駐車スペースは出入りがあるため、そこから会館の裏口に回り、裏口の石段に腰を下ろす。ポケットに入れていた携帯を取り出した。日ごろの癖で、ネットにつなぐとそこにはレオが死んだことがトップニュースで出ていた。

「お!」

 いいニュースじゃないが、そこにはユリの名前も書いている。半月ほど前に行われた漫才キングの決勝進出記者会見の写真がでかでかと載っていた。

 漫才キングは年末の日曜、夜の七時から二時間生の全国放送。そこで優勝をすれば知名度も上がり、テレビ出演依頼もわんさか舞い込んでくる。無名の芸人が最も欲しいと思われる称号だ。ユリもそれに手が届きそうで、決勝進出が決まってから毎日思い出すたびにどきどきしていた。しかし、漫才をする相方はもういない。

 今は漫才キングのことを考えると、なぜか吐き気をもよおす。頭を軽く横に振り、ユリはネットを消して、ゲームを立ち上げる。アップテンポのゲームは余計なことを考えなくていい。ゲームを集中してやっていると、急に携帯に登録している番号がゲームを遮った。通話と拒否の表示が出ているが、ゲーム最中であったため、通話を押してしまう。それを押した瞬間に冷静になり、かなりの後悔で深くため息がでる。

「もしもし?」

 携帯を耳に押し付けなくても声が聞こえる。軽く再度ため息をつき、耳に当てる。もちろん音量は最小限に抑える。

「はい。なに?」

「何ってあんた、喪服持ってきてってそっけないメールだけよこして……」

「しゃーないやん、突然やってんから」

「ほんなら、そっちいこか?」

「余計なことせんとって!」

 あまりの自分本意な母の言動に苛立つ。それでなくとも、声がでかい、態度もでかい。そんな繊細さもない母に対していい思いは何もなかった。

「そやかて、大会あさってやろ? どないすんの?」

 一番考えたくない話題をずかずか話してくる。デリカシーのない母だ。ただ、亡くなったレオよりも大会のことを気にしている。親子の血のつながりを、そんなとこで考えてしまう。

「今はそれどころじゃないねん。あしたは葬式やし……もう、ほっといてや!」

 いちいち苛立たせる母に念を押すように放つ。

「あんた、そんなんでええの? あれやったら、お母さんでたろか?」

「いちいち、うるさいな」

 冗談なのか、本気なのか分からないテンションで告げる母に、悪意はなさそうだが今のユリには嫌悪しかない。

「うるさいって、えらそうに!」

「別に心配して要らんわ」

「ちょっ」

 あまりにもしつこい母の言動に、ユリは堪え切れず、携帯の電源を必要以上に強く押した。また、大きくため息をつく。酒井の態度と、母の言動でユリは握ったこぶしが少しだけ震えていた。ため息をつくことで冷静さを取り戻そうとするが、何度も何度もしないと、中々落ち着かない。ゆっくりと空を見上げると、月がきれいに出ているが、星達は大阪の明るい町には負けてか、あまり見えない。雲がうっすらかかっており、雨をも予感させると思うと、ユリはまた憂鬱になった。

「漫才キング……か」

 つい、言葉が漏れる。頭の中にはレオとの漫才を完璧に覚えているし、いつでもそれは出来る。頭の中で一旦レオを蘇らせる。目を瞑って、マイクの前に立つ。

「完璧やわ」

 四分間のシミュレーションを終えると、自然に笑みが出てくる。しかし、すぐに母親の言葉が思い浮かぶ。やはり、ため息が止まらない。母との言い争いを忘れ、冷静さを取り戻すと少し寒くなる。

「ユリちゃん?」

 一人でいたいと思って、いないフリをしようと思ったが、意外と近くまで来ていたため「はい」と軽く返事をした。

「こんなとこに居ったんや」

 レオの兄が軽く微笑んだ。 

 レオとは中学からの付き合いで、何度も家に行っているため、兄とも顔見知りだ。コンビを組んでからは、ネタを見てもらったことも、一度や二度ではなかった。

「ユリちゃん、大丈夫?」

「え?」

 胸ポケットに入れていた煙草を取り出して、慣れた手つきで火をつける。

「決勝、あさってやろ? そんな時にこんなことになるなんてな」

 煙草の煙を大きく吸って吐き出す。白い煙がうっすらと上のほうへ消えていった。煙草だけでなく普通の息だけでも白い息が出、どちらかわからない。ユリは何も答えない。

「あいつもホンマ、タイミング悪いな」

 苦笑する。レオの兄の表情は何故か痛々しくて、見ているほうがつらくなる。寒いから体をぎゅっと丸めて地面を眺める。暗くてよく見えないが、触ると土で手が汚れる。ユリはじっと地面をいじる。ユリが何も返答しないためか、レオの兄の息を吐く音だけが耳に入る。風も吹いていないため、煙草の煙とにおいが、その辺りに充満する。

「さむっ!」

 何人かが焼香を終えて、煙草を吸いにきたのだろうか、ユリたちに近づいてくる足音と声が聞こえる。レオの兄は、煙草の二本目を吸い始めて、それは気にしていない様子だった。

 ただ、その足音はユリ達がいる角を曲がった裏口ではなく、手前で止まる。そのため状況は見えないが、ライターの火のつく音が聞こえるほど、音は筒抜けだった。

 ユリは自分のテリトリーに、そいつらが入っていないことに安心して、小さく息を吐いた。

 煙草を大きく吸い、吐く音が聞こえる。

「まさか、レオがな……」

 聞いたことがあるような声がする。ユリは顔をしかめて、声の主の記憶をたどる。

「せやな。しかも、あさってやろ?」

「やばいタイミングやな」

 平坦なトーン。声の持ち主はすぐに特定できた。漫才キング決勝に進出する二年先輩、檜山と田畑だ。二人とも声が両極端で、檜山は高く、田畑は異様に低い。違うコンビだが、気が合うのか、自分の相方よりも普段はつるんでいる事が多い。

「まぁ、俺は関係ないけどな」

 坂東だ。漫才キング、準決勝で敗退したコンビの一人である。三人が一緒にいることは多いのですぐに特定できる。

「あーあさってか、ってか、あいつどうすんやろな?」

 坂東の言葉をスルーし、檜山が言い放つ。

「ユリ?」

「ちゃう、藤岡本や。あいつら、決勝で葬式ネタするはずやったらしいで」

「マジで?」

「そりゃ、あかんな」

「やろ? さすがに、レオ死んですぐに葬式ネタなんかしたら、笑えるもんも笑えんやろ」

「たしかにな」

 確かに鼻で笑う。ユリは下唇をぎゅっとかみ締める。土をいじっていた手に力が入り、爪にまで土が入るが、気にならない。それ以後、何か話をしている様子だったが、ほとんどユリの耳には入ってこず、隣のレオの兄の不快な煙草が鼻についた。

 ぼそぼそと話す、不協和音が消える。ユリは今の苛立ちをぶつけたかったが、土を握り締めることで耐え忍んだ。ここから一刻も早く立ち去りたかったが、式場にジャケットと鞄を忘れたため、兄に何も告げず立ち上がる。

「ユリちゃん……」

 消え入りそうな声で放つが、レオの兄の声の弱さにユリは何も答えたくなかった。兄の顔を振り返ってみる気にもなれず、そのまま会館の入口へ向かった。

 正面入口に向かうと、何人かがたむろしている。落ち込んでいるように顔を下向きにし、しているかしていないか、わからないぐらいの軽い会釈をしながら通り過ぎる。ユリは手の平に爪の型が、当分残りそうなぐらい強く握り締めていた。

 ホールに入ると、小さな音だがかすかに普通の喋るスピードではない言葉の兼ね合いが耳に入る。安置されている式場の横には階段があり、そこは反響する。ユリは鞄のことも忘れて声のする方へ向かい、足音をさせずに階段を上る。

「いや、それは尻や。ひざはこっちや!」

 どっかで聞いたことのある、平凡なおもしろくないつっこみ。階段とは反対側で、壁を向きながら、二人が適度に体を動かす。小声でしているが、今、ユリの五感は研ぎ澄まされているためか、全てがはっきりと聞こえる。 少しの間、ユリは腕を組んで階段の手すりに体を預けるように、二人の後姿を睨んでいた。しかし、集中しているのか一向に気づく気配はない。大きく鼻で息を吸い、口で吐くと同時に声を発する。

「ちょっと、ここでなにやってんの?」

 ユリの声ですぐに二人の声が止まる。その声に驚き、ゆっくりと体全部で振り返る。

「あっ、ユリさん」

 先輩に対する挨拶もない。同じ決勝に進出する、三つ後輩のコンビだった。小声でばれないようにしていたつもりだったのか、肩が萎縮して、瞬きの回数が多い。

「どういうつもりなん?」

 ユリは怒鳴りつけたがったが、冷静にと自分に言い聞かせる。

「あっ、すいません、すいません……」

 必死にただ謝るだけ。この二人はコンビを組んで間がない。しかし、不細工と男前というビジュアルだけで、露出度が増えている状況を考えると、練習が出来ていないことは容易に想像ができた。しかし、言わずにはいられない。爪の中に入った砂を親指で、中指の中に入った土を穿り返す。

「常識考えたら分かるやろ! 先輩の、しかも通夜でそんなことよう平気で出来るわ! あんたらなんか、完全にすべるわ!」

 ユリは怒りをぶつける。だが、すっきりはしなかった。言葉が出ないようで、後輩二人は頭を下げるしか出来ないようだった。 

 踵を返して、階段を下りていく。レオが眠る式場に置いていた鞄をとって、一瞬だけレオの遺影を睨む。そして、颯爽と会館をあとにした。


 会館の裏口から出たためか、人はいない。駆け足だったが途中で何かに逃げているわけではないのにと、冷静になり足を止める。軽くあがった息を落ち着かせるため、胸に手を置く。身体は熱いが心は冷たく苦しい。レオの死を知らされて、とっさに履いたヒールの音は心地いい。どんどん前に進みたくなる。だが、明後日のことが急に思い出されて、その音が消えるわけではないのに、歩行ペースが緩む。

――ちょっと、言い過ぎた?

 後輩に対する後ろめたさが出る。ため息は止まらない。昨日の今頃はまだ、レオは生きていた。何もなければ、漫才キングに出られた。何度も過去を振り返る。

「ほんま、なんでやねん!」

 大声で言葉を吐くと、若干すっきりする。軽く息も吐く。頭はもやっとしており、二度横に振る。両手で顔を叩いて、再度会館に戻るため後ろを振り返る。そして、立ち止まったまま、いつもの癖で携帯をポケットから取り出す。ボタンを軽く押すが、液晶画面が消えており、自分で電源を消したことを思い出す。携帯会社の名前がでかでかと表示され、その光がまぶしい。その後すぐにメール五件、電話十件と表示される。誰からかを見ると、親とマネージャー半々だ。用件はおおよそ検討がつくため、全部履歴を見ると削除する。ただ一件、「レオの女」と書いてある。用件がユリには検討のつかないため、そのまま発信のボタンを押した。携帯を耳に当てると、ワンコール目でコール音が消える。

「もしもし?」

 不安げに声を放つ。

「どこ?」

 数回会ったことがある、レオの彼女だ。

「今、ちょっと外に出て……」

 何か言い訳を言おうとするが、とっさに出てこない。レオの女はわざとため息をつく。

「ありえんわ……」

 聞こえる声で呟くと電話が切られる。すぐに耳から離し、携帯を睨む。再度、外部からの通信を阻止するため、電源を必要以上に強く押した。今度は大きく鼻で息を吸う。不愉快な香りを深く吸い込みむせる。

「おごほっ、おごほっ」

 近くに人がいると感じられる。数メートル先に人が立っており、近づいてきた。

「坂東さん?」

「よ!」

煙草を吸いながら、軽快な挨拶をしてくる。

レオの死を突然知らされたからなのか、坂東の装いはユリと同じでジーンズだった。

「どうしたん?」

 煙草を口から離す。口から煙が出ているのが滑稽だ。

「いや、気晴らしに……」

「そうかー」

 何かの建物か、工場があるためか背の高い壁が長く続いている。ユリは自然にその壁にもたれる。

「ってか、さっきのん丸聞こえ。こっちも、顔引きつったわ……」

 坂東の言葉にふっと、さっきの投げ捨てた言葉が思い浮かぶ。それが聞こえていたということがわかり、恥ずかしくなる。しかし、坂東たちの会話も思い出される。

「そおっすか」

 無愛想に言葉を投げかける。腕を組んで、坂東の顔は見ないようにするユリはマフラー先を指に絡めて遊ぶ。坂東も自然にユリの横に並んで、壁にもたれた。

「まぁ、お前も災難やな。よりによってな」

 苦笑をする。ユリは言い返したいが、全てを飲み込むように自分に命じる。さっきのような失態がないように、のどを鳴らす。坂東と同じ目線がいやで、ずるずるとしゃがむ。

「で、どうすんの?」

「わかんないっす」

声がいつもより弱い。基本強気のユリだが、今回ばかりはそうはなれない。

「そりゃそうやな」

 坂東もまっすぐで、ユリを見てはいない。

「私は、どうしたらいいんですかね?」

「さぁな」

 坂東は無責任に言い放つ。言っても仕方がないとわかっていつつも、言いたくなる。

「ですよね」

 無風の中、煙草の煙が滞る。

「決勝は、何のネタするはずやったん?」

「警察ネタです」

「あーあれな。準決勝でやってめっちゃウケてたもんな」

 煙草の腹を二本の指で軽く触れて、灰を落とす。

「お前らのネタ、なんか勢いあっておもろいもんな。そりゃ、決勝進めるわ」

 今度はユリのほうを見て苦笑する。ユリは目線を合わせず、ただその視線を感じる。

 坂東達の漫才は、ユリ達の早く切れのいい漫才とは違い、坂東の相方、夢前ゆめさきのゆっくりと喋る天然ボケ風だ。漫才キングは結成十年未満という規定があるため、来年結成十年を迎える坂東達は、今年が最後だった。

「今年は俺たちもいけると思ったんやけどな。お前たちのほうが、スピード感あるし、やっぱ笑いの量も多く感じるよな。しかも、俺が大事なとこで噛んだし」

 ユリは坂東を見上げる。こっちはみていないが、悔しさを隠しきれていない。その言葉をストレートに受け取ることはできなかった。

「坂東さんって、ずっと夢さんとでしたっけ?」

 ユリはわざと話題を変える。

「そうや。お前たちもやんな?」

「はい。高校から一緒です」

「俺らもや。最初は、お前たちみたいな漫才に憧れとってんけどな。相方があれやったらむりやろ?」

「夢さん、普段もあんな感じですもんね」

「せやな」

 笑いが自然に出る。坂東も笑ってはいるが、煙草の吸い方が深くなっている。

「昨日、家まで送って行ったらよかった」

 坂東は何も返答しない。

「部屋で、そのまま寝かせて、風呂なんかいれんかったのに……」

 うっすらとしか思い浮かばない昨日を思い出しながら後悔する。ただ、言葉を発して自分がそんなに後悔していないことに気づく。坂東の反応が気になり、そっと見上げるが、無表情に煙草をふかしているだけ。

 一本目を吸い終わると、二本目の煙草を箱から取ろうとする。その瞬間にポケットの携帯から静寂を遮る音が流れる。煙草を箱に戻して、ポケットから携帯を取り出し、すぐに電話に出る。

「あっ、もしもし。ちょっと、外出てます。え? あー戻りますよ。え? あっ、ここにいます。一緒なんで、連れて行きます」

 坂東は適当に相槌をうって電話を切る。

「酒井が探してるって。戻るけど、どうする?」

 壁から背中を離して、しっかりとユリを見る。

「私はもう少ししてからいきます」

「そっか。じゃあ、先いくわ」

 坂東はそのままユリに背を向けた。その背中に何かを告げようと思うが、何故か言葉が出てこず、しゃがんで地面を見続ける。無駄に履きなれていない靴のつま先をいじる。少し靴が汚れているので、綺麗に掃おうとするが、指に土が少し残っていて、中々綺麗にはならない。丁寧にやっているが、一向にとれないため苛立ち、最後は強くほじくって伏せる。じっとしゃがんでいても、何も変わらない。


 坂東の背中と煙草のにおいが完全に消えてから、だらだらと会館への道を戻る。人はまばらだったため、数人の集まりが目立ったためその方へ足を向ける。

「ユリ!」

 ユリに気づき、集まりの中の一人の酒井が周囲のことを気にせずに叫ぶ。

「お前、こんなときにどこいってんねん!」

 隣にはタイフーンの二人もいた。

「おつかれ」

「あっ、おつかれ」

 タイフーンの大東は、いつものように挨拶する。ボケの金巻は携帯ゲームに夢中な様子で、こっちは向かずに「よっ」とだけ挨拶する。

「レオには?」

「会ってきた。綺麗な顔だったから、ちょっと安心した」

 大東は柔らかい顔で背中を摩ってくる。あまりにも馴れ馴れしいさまに、ユリは肩を上げて拒否し、そっと大東から離れて酒井に近づいた。

「漫才キングやねんけどお前らが出られんから、急遽準決勝者から敗者復活を……」

 酒井の言葉は途中から耳に入らなくなった。

「私は出たらあかんの?」

 声に出したつもりはないのに、出ていた様子で酒井が眉間にしわを寄せて、鼻だけでため息をついた。

「お前、レオは死んでんで? わかってるか?」

 こちらが気が狂っているかのように、冷静に説き伏せる。

「わかってるって……」

「あさっては、とりあえず漫才キングの会場に行ってみるか? むこうの計らいで、席は用意してくれるって」

 ユリはあからさまにふて腐れながら、一切返事をしなかった。酒井はあからさまに深くため息をつく。

「席、用意してもらっとくな」

 酒井は勝手にそう告げてどこかに電話する。

「ユリちゃん、俺たちが優勝してやるからさ」

 肩に腕をおいてやはり馴れ馴れしく放つ。

「あんた、ホンマにアホやな」

 女の声がユリの後ろからする。誰の声かはすぐに分かる。耳障りな甲高い声。ユリはこの女に出会った時から、レオの女の趣味に愕然とした。

「ほんま、最悪な女やわ」

 化粧を完璧に施し、黒のワンピースで腕を組みながら、鋭い目つきでユリを睨む。

「何が?」

 レオの女、沙織に言い放つ。

「レオ君が亡くなって涙一つも見せずにおるから最低やって言ってんねん」

 つばが飛ぶほどの距離。ユリはそっと後ずさりして距離を保ち、それを避ける。

「レオ君が酒飲まれんの知ってんのに飲ませて、一人で帰らして……あんたが、レオ君殺したんや!」

 ユリはそっと目を閉じた。沙織が何の反応もしないユリに苛立っているのは、眼を見なくてもわかった。

「あんた、聞いてんの?」

 沙織がユリをつかもうとした時に、酒井が電話を終えたのかやっと仲裁に入る。

「気持ちはわかるけど、人見てるから」

 沙織のほうに加担しているのが、この言葉を聞いて分かった。

「もう、ええわ……」

「お前」

 酒井が息を呑んだ。ユリの言葉でさらに沙織の怒りに火をつけてしまい、再度つかもうとするがそれを酒井が止める。タイフーンの二人は顔が引きつりながら、それを見ていた。金巻のゲーム音がむなしく鳴り響いた。


ユリはとぼとぼと歩いて帰る。最初は勢いよく走っていたが、日頃の運動不足もたたってかすぐに歩く羽目になる。だが、あっという間に家に着いた。ユリの部屋に電気がついている。二階への階段を上がり、ドアの前で鍵も出さずにノブを回した。

「やっと帰ってきた」

 玄関のすぐ横の台所で母は立っていた。ユリは軽く息をついてマフラーとジャケットを脱いだ。

「カレー作ったけど食べる? おなかすいてへん? あんたの好きな牛すじ煮込んでから作ってんで。めっちゃ時間かかったわ」

 ドアを開ける前から匂いでわかった。母は鍋をお玉でかき回しながら言う。

「いまはいらん」

 ジャケットを寝室兼居間の床に脱ぎ捨てた。

「あんたはもう!」

 台所から飛んで来、服を拾う。朝、脱ぎ捨てていったはずのスウェットが綺麗にベッドの上においてあるのを見つけ、少しぞんざいに着た。

「カレーだけじゃなくてハンバーグも作ってんで。上にのっけたらおいしいと思って」

 脱ぎ捨てた衣類を畳みながら母が薦める。

「いらん言ってんねん」

 歩いて帰ってきたため身体は熱いのに、部屋は冷え性の母が暖房をガンガンにつけていた。必要以上に強く押してエアコンを切った。リモコンを押すと、なぜか喪服が二着かかっているのに目が入った。

「何で二着あるん?」

 床で正座をしながら、母の太ももの上で脱ぎ捨てた服が綺麗になる。

「お母さんの」

「はぁ?」

「だって、あんたすごいお世話になったし……」

「余計なことせんといてって言ったやん!」

 ユリはかかっていた喪服を母に向かって投げた。

「あんた何すんの!」

「もう、ええから帰ってえや」

 母を寝間から追い出す。台所とは一枚の引き戸で仕切られているだけで、外からぶつぶつと声が聞こえる。

「もう本間に……ほな、お母さん帰るで!」

 ユリは何も返事しない。

「あんた、返事ぐらいし!」

「うっさい! もう来るな!」

 そう叫ぶと、母はぶつぶつも言わずにドアだけが閉まる音がした。ユリは布団の中にもぐりこんだが、すぐ息が苦しくなり布団から顔を出す。煌々と光る蛍光灯が、ユリの視力を奪う。さっきまで騒がしかった部屋も、自分の荒い呼吸しか聞こえない。右腕で目を覆う。


  こんばんは。最近、物騒になってきましたね。

  そうやな、俺、こないだ大変やってんで。

  何、どないしたん?

  ひったくりにあってな。

  お前みたいなどぎつい顔の奴に、はむかっていく奴もおるねんな。

  やかましいわ。俺はこう見えても、犯罪犯したことはないけど、犯されたことやったら何度もあるねん  ぞ。

  犯罪巻き込まれ顔やもんな。

  そうそう、俺の顔は犬をも泣くほどいかつい、なんでやねん。それより、引ったくりの話や。

  いや、お前はほんまつっこみ下手やな。感心するわ。

  うるさい!それより話をさせろ!

  はいはい。

  こないだ、普通に帰りよったらな後ろから自転車乗ってきた奴がおってん。そんで、よけようと思った  ら、鞄、ガッて持ってかれて、こけてもてな。ばーって逃げていってん。

  へー、で?

  追いかけたわ。けど、見失ってもてな。警察そのまま言ったら、へんな目でみられたんや。

  ほらな、やっぱ顔がいかついからやな。



 一気に頭の中で回るネタを言い終えたあと、さっきと同じ様に、大きく呼吸する。そのあとも、続けるがいつの間にか声にならない声がゆっくりと消えていった。


 陽が明ける前に目覚める。異様なまでの喉の渇きを感じて、ベッドを降りて冷蔵庫へ向かう。口の周りだけでなく、口腔内も乾いており、口をあけて寝ていたことが分かった。それだけじゃなく、エアコンを一切消したから部屋の空気は冷え切っているが乾燥している。冷蔵庫から、二リットルのペットボトルのお茶をそのまま口飲みする。机の上には律儀に母が作ったおにぎりが二つ並んでいる。この飲み方を見ると、昨日のようにまたうるさく言うのだろうと想像しながら鼻で笑う。おにぎりを見てか、空腹も感じたため、皿の上のおにぎりを一口で食べようと口に入れるが、入りきらずに、口でくわえたまま半分にする。口を動かしながら、テーブルの上に置いていた携帯の電源を入れると、数十件ものメールが来ている。開封しなくても、一行は表示される。ほとんどは激励メール。酒井のメールは表示される前にスルーする。

 時計は朝の五時過ぎだった。三時間ほどしか眠っていないのに、睡魔は一切なく、驚くほどに頭が覚醒している。半分ほど残っていた水を飲み干して、空になったボトルはほとんど使用していないシンクの中に投げ込む。それと同時に携帯音が鳴り響く。

「はい」

「ユリ?」

「誰?」

「俺や、坂東」

「あっ、坂東さん。お疲れです」

「お前、どこおんねん?」

「え? あっ家ですよ」

「マジでか?」

「さっき、起きました。色々あって疲れてたんで」

「お前さ、レオ死んで大変やろうけど、酒井も結構参ってるからさ、多少は大目にみてやれよ?」

「……そんなん、知りませんよ。酒井はタイフーンの方がいいんでしょうし」

 坂東はユリの言葉を鼻で笑う。

「なんですん?」

 少し怒り交じりに話すユリに、坂東は明らかに笑い始める。「やきもちか」と言い捨てた。

「そんなんちゃいます。本当のことを言ってるだけです」

 否定している自分が嫌になる。

「けどな、酒井お前らの決勝自分のことのように喜んでてんで。落ちた俺らの前で。めっちゃうざかったわ」

 ユリはそれを一瞬想像するが、あまりにも無理があってできなかった。

「私は知りません」

 無愛想に言い捨てる。

「はいはい」

 坂東は子供をあしらうように言い放った。

「まぁ、いいわ。ってか、酒井から漫才キング、敗者復活するって聞いたか?」

「はい」

 不服そうに返事をする。坂東達もその候補の中に入ってるかと思うと、すぐに電話を切りたくなった。

「で、なんですか?」

「ってか、お前がすんなり受け入れたんが意外やったから……」

「相方死んでどうやって漫才するんですか」

「そんなかりかりすんなや」

「かりかりもしますよ。決勝の前々日ですよ? 普通、相方死にます? ありえんでしょ?」

 興奮しつつ、ユリは息を切らす。坂東に言っても仕方がないとわかってはいるが、出てしまう。坂東の適当な相槌も癪に障る。

「まぁ、そうは言ってもしゃーないやろ」

「自分たちは敗者復活できるからって……」

 坂東が聞こえないようにつぶやく。

「準決だけで四十二組おんねんで……無理やろ?」

 坂東は自傷気味に失笑した。

「そうですね」と言いそうになるがそれはこらえる。坂東のぶつぶつ言うのを聞き流し、

ユリはただ黙っていた。

「坂東さん、今家ですか?」

 ぶつぶつを遮るようにユリは放つ。

「いや、今買出し中。沙織ちゃんに頼まれて……」

 失笑する。今度はユリが鼻で笑う。

「私も戻りますわ。居心地悪いけど……」

「お前がおらんかったらおかしいもんな」

 食い気味に言う坂東が気持ち悪い。ユリは電話を切る。

母が丁寧に掛けた喪服を、やはり雑に着る。鞄もセットで母が持ってきてくれていたが、グレーのダッフルコートを着た後に、愛着のあるリュックを背負う。普段、履かないのでスカートとストッキングがスースーして、余計に寒さを感じさせる。玄関から折りたたみの自転車を軽く担いで階段を下り、スカートを気にせずにサドルにまたがった。少しだけ雨がぱらつき始めた。

 

二十分ほどでレオのいる式場に到着する。ユリは会館近くで自転車を降り、駐車する。入口付近には数人の人だかりが出来ており、会場内を覗き見ている様子だが、入ろうとはしなかった。雨足が早まってきたので、入口を遮っている人だかりに「すいません」と小さく声をかけると、数人がこちらを向く。

「ユリさんですよね?」

 その中の一人が声をかける。ユリは怪訝な顔で振り返る。

「え?」

「デイスポーツです」

 有名スポーツ紙の記者が名刺をユリに差し出す。

「急にこんなことになって、さぞ落胆なさっていると思うのですが……」

「はぁ」

「少し、お話よろしいですか?」

「何ですか?」

 こういうことが初めてのユリは、顔が少しほころぶ。

「相方のレオさんが亡くなってどういうお気持ちですか?」

「え?」

 ユリは返答に困った。言葉に詰まる。

「今後、漫才はどうされるんですか?」

 答えていないのに、また次の質問が来る。左手で口を手で塞ぐ。その瞬間、光がユリの顔を照らして、反射的にぎゅっと目を瞑る。数人の中に、カメラマンがおり、こっちにカメラを向ける。それを皮切りに何度もフラッシュがたかれ、質問を一切考えることができなくなる。デイスポーツの記者だけでなく、他社の記者も混じっている様子で、次々と質問してくる。ユリは眉間にしわを寄せて、まぶしさを防ごうとする。

「どこの記者?」

 入口前にタクシーが止まる。様子を伺っていたためか、表情も声のトーンも曇りながら、酒井が降りてきた。

「ナイスタイミングやん」

 思ったことが口に出てしまい、ユリの表情が緩む。

「マネージャーさんですか? 私っ……」

 名刺を渡した記者が、名刺ケースから取り出そうとする。

「いや、別にいらないから。取材の許可とってないでしょ?」

 酒井はいつもながら強気だ。記者は若干だが萎縮している様子だ。

「少しでいいので」

「ダメだ」

 記者の顔を見ずに、酒井はユリの体を会場に向かせる。

「何も言わんでいいから……」

 いつもより優しく言う。酒井の言葉にドキッとする。ふと、坂東の言っていたことを思い出し、酒井が少しでも自分のことを考えてくれてたと思うと、安心できそうだ。酒井はユリを前進させようと背中をそっと押す。

「レオ死んで、これ以上厄介ごと増えると参るわ」

 ぼそっと酒井がこぼした。ユリは進めていた足を急に止める。 

「ユリさん、亡くなったレオさんに何か一言!」

 記者がそれだけを叫ぶ。酒井はその言葉に何も反応しない。ユリは二十センチ以上高い酒井の顔を見上げる。そして、背中を押す手を払いのける。

「一人でも出たるわ!」

 酒井が後ろにいるのを感じながら立ち尽くす。


「お前、決勝出るつもりなんか?」

 さっきの優しさは一切見られない。スーツ姿でネクタイを緩める。こんな寒い冬なのに、体温が高いのか常に額に汗が滲んでいる。常備している、ハンカチタオルで汗を拭いながらため息をつく。あからさまな態度に、ユリは酒井を睨んだ。

「だから?」

「一人でどうやって、漫才するねん?」

「そんなんなんとでもなるやろ」

「今も色んな人に迷惑かかっとんねんぞ! これ以上迷惑かけるなや!」

 ユリは言葉を放つのをやめ、その場から立ち去ろうとする。

「お前な!」

 肩を勢いよくつかまれ、ユリは肩に触れる手を払いのけて再度酒井を見る。

「うるさいな」

 片眉を上げて言葉を投げ捨てる。

「お前、わかっとんのか?」

「あんたは何もわかってないやん!」

 ユリは吐き捨てると、式場に小走りで戻る。人の気配がない、ホールの階段をのぼる。昨日、後輩たちが不謹慎にも、練習をしていた場所だ。ユリは壁にもたれかかると、自然に足の力が抜けてしまう。ゆっくりとしゃがみこんで、必死に下唇を噛み、目にも力を入れる。目にたまる水分を乾かすように、見開いた。酒井は追いかけてこない。ふっと目の力が緩んで、一滴が頬を伝う。鼻水が鼻の奥にたまっており、一度だけすする。携帯を取り出して、咳をする。着信履歴から、再度コールする。コール音がなり続けるが、一向に出る気配がない。むなしくなり、電源を消す。鼻をすすって、ため息をつく。

「ここか」

 急に聞こえた声に、びくっとしながら振り返ると、電話の相手坂東がそこにいた。

「坂東さん……」

「お前、なんちゅう顔しとんや?」

 気の抜けた笑い顔が、張り詰めていた気持ちの枷を取る。安心はするが、目の力は抜かないように努力するも、ゆっくりだが雫は出てくる。

「なんや、えらい酒井に楯突いてたな」

「見てました?」

「まぁな」

 ユリの隣に来て、同じ視線まで下りてくる。

「やるんか?」

「……」

「やるって、一人でか?」

「……」

「そんなんしても、受けへんで」

「わかってますよ! いちいちうるさいな!」

「……」

 ユリは坂東の顔を見上げる。

「すいません……」

「ええよ」

 坂東はそれ以上何も発さない。ユリはこらえきれなくなりそうで、太ももに顔を押し付ける。誰にも見られない安心感か、自然に両太ももが、濡れていく。

 走ってきたためか、坂東は呼吸を整えている。自然に坂東の呼吸が耳に入る。それが自分も同じように息するスピードが上がり苦しい。

「大丈夫か?」

 自分の呼吸は安定したのか、坂東はユリの異変に気づき背中をさする。

「あー!」

 坂東はユリの声に驚き、背中から手を離す。

「坂東さん……」

「何や?」

 恐る恐る聞く。

「助けてください……」

 呼吸を荒げながら言い放つ。すると、それを言葉にして楽になったのか、大きく息をする。そして、呼吸はゆっくりになっていく。

「助けるって……?」

「……」

 階段下から小さく声が聞こえるだけで他は声が無い。坂東の反応がとても怖く、ユリは顔を伏せていた。ただ、あまりにもじっと黙っているので、片目だけ上げて坂東の様子を伺う。坂東もしゃがんで口を鼻につけて、手持無沙汰に携帯をもてあそびながら考えている様子だ。

「坂東さん?」

「ん?」

「一緒にやりません?」

 一瞬、間が空く。息をのみ込む。

「ええで」

「え?」

 ユリはあまりの即答に驚く。

「なんか、お前とやった方がおもろそうやもんな」

 へらっと笑う。坂東の気の抜けた笑顔がユリの緊張感をなくす。

「お前、そんな辛気臭い顔したらあかんで」

 また、気の抜けた顔で笑う。ユリは同じようにへらっと笑う。

「何してんの?」

 二人以外の声が反響する。へらっと笑顔が消える。

「夢……」

「夢さん……」

 坂東の相方、夢前ゆめさきが階段を途中までのぼり、二人を見上げているが、見下していた。

「全部聞いてたけど」

 坂東は口角を右だけあげて「はは」と心無く笑う。

「何? 俺ら解散すんの?」

 一歩ずつ夢前が階段を上がってくる。

「いや、そういうわけじゃないって」

「じゃあ何?」

「いや、だってさ……」

「だって何?」

 夢前は苛立っているのか、語気が強くなる。いつもの天然さが一切消えている。

「お前、マジになりすぎ。もうちょっとさ……」

「もうちょっとなんやねん? 決勝出れるかもしれんねんで?」

「いや……」

 今度は坂東は大きく息を吐いて笑う。

「は?」

「俺ら無理やろ?」

「何が?」

「決勝行けると思ってんの?」

「わからんやろ?」

「俺らが?」

「……」

 坂東は何も答えない夢前を見て呆れて笑う。

「わかるって、ほんならユリちゃんと俺がやったほうがおもろいやん」

「……」

 夢前は下を向き、下唇を噛みしめて何も言わない。坂東は鼻で息を吐き、頭を掻く。

「夢さん……」

 ユリが言葉を発する。

「何?」

 ユリの声に鋭く反応し、鋭く睨む。ユリは臆することなく続ける。

「一日だけでいいんです」

「だめ」

 夢前はユリを睨んで逸らした。坂東がそれを見て大きくため息をつく。

「お前、頑固すぎ。そういう所がやりづらいねん」

「はぁ?」

「融通利かんやつや」

 夢前は勢いよく坂東の胸倉をつかんだ。

「そんなんと十年やってきたんやろ!」

 坂東はその言葉に返答はしない。

「夢さんは私よりおもんないです」

「は?」

 坂東よりユリが先に口を出した。

「そうや、お前のネタはおもんないねん!」

 坂東は夢前を見ずに続ける。

「俺が噛まんでも落ちとったわ」

「は? お前、そんなん思ってたん? あほらし……」

 嘲笑う。坂東はそれを見て、夢前の胸を突き押した。その衝撃に驚いた後、ひどく睨む。

「ってか、そんなこいつのネタおもろいか?」

 夢前は鼻で笑う。

「夢さんよりはおもろいです」

 ユリは平然と返す。

「お前はそんなんやからセンスがないんやろ」

 坂東が夢前を勢いよく突き落とす。階段を踏み外し、踊り場で格好悪く尻もちをついた。

ユリはそれを階段から見下ろした。

「はい、傷害罪。俺が訴えたらお前犯罪者」

 夢前は両手を払いながら、憎憎しく言い放つ。

「お前、冗談は顔だけにしろや!」

「冗談ちゃうわ!」

 夢前が立ち上がり、坂東とつかみ合いになる。

「おい、待て!」

 酒井が聞きつけて、駆け上がってくる。息を荒らしながら二人の仲裁に入った。

「邪魔すんなや!」

 坂東は苛立つ。夢前は何も言わない。

「チッ」

 ユリは無言で階段をおり、酒井を突き飛ばした。酒井はバランスをくずし、冷たいコンクリートにぶつかった。ユリはそれを見ずに夢前のほうに目をやる。

「ゆ……」

「何言ってもあかん」

 頑なに頭を立てには振らない。

「じゃあ、勝手に出ますわ。別に夢さんの承諾なんかいらん」

ユリはいつの間にか、頬をはたかれているのに気づいた。夢前は叩いた右手を、まだ動きそうなのか左手で取り押さえている。ユリは叩かれた左頬を押さえて、左手で夢前の手首を掴んで自分の方へ引き、階段を転げるように下りる。

「ちょ……」

 声を出そうとするが、何を言っていいかわからない坂東は、二人の後ろをついていく。ユリはレオの棺のある会場へ夢前を引っ張っていった。棺は顔の部分だけ開けられていて、相変わらず寝ているみたいだ。ユリは棺の蓋を払いのけた。そっとレオの顔に触れると、温もりはなく冷たい。

「こんな相方と、どうやって漫才できるんですか!」

 ユリの声は響いて、パイプ椅子で寝ていたレオの兄も隣の部屋にいる沙織も驚いて声のするほうに顔を向ける。

「……」

 夢前は何も言わずに冷たい目でユリを見る。

「相方冷たいんです。しゃべって欲しいのに……」

 腹の底から声を張り上げる。夢前の手を引き、レオを触らせようとしたが夢前は力ずくで手を引っ込めた。

「坂東は僕の相方や」

 頑なに夢前は表情も変えない。ユリはレオの首に手をやり起こそうとする。思っていたよりも重い。しかも生きている人間のように腰も曲がらない。

「ユリ……」

 坂東も顔が引きつっている。

「ユリちゃん……」

 レオの兄がいつの間にかそばまで来ていた。ユリの肩を二回軽く叩く。ユリはそれに軽く二回、返事するように頷いた。

「何してんねん!」

 控え室にいたのか、沙織がずかずか割り込む。その勢いに、レオの兄がその場からはじき出される。沙織はそれも気にしない。

「あんた、いかれてんの?」

「……」

 ユリは沙織のほうは一切見ず、レオを凝視している。

「なんか言いや!」

 ユリは何も言い返さず、そっとレオを棺に戻した。棺に再びレオが戻る。レオの首が乱れた。

ユリはただ一瞬、沙織と目を合わせてふっと笑う。それを見て沙織は怯んだ。棺に再びレオが戻る。

「あんた……」

 冷たく、蔑む目でユリを見る。ユリはただ立ち尽くしていた。

「俺たちはまだ漫才できるな……」

 坂東がレオを見てぼそっと言った言葉は、そこにいる人の耳に届いた。ユリの耳にも、もちろん届く。     

レオと漫才スタンドの前に二人で立つことはもう二度とない。

 夢前は大きくため息をつく。坂東はそのため息に苦笑する。

ユリは目の前が真っ暗になった。そして、棺の中にいるレオをもう見もせずに、その場から立ち去った。

 坂東と夢前だけでなく、誰もがユリに声をかけなかった。

 

 ユリは一人ふらっと式場を出た。入口にはまだ記者がおり、前よりも増えている。結局、裏口を出るが雨が本降りになっており、外に出ることは出来ず庇の下でしゃがんだ。そこには煙草のおいが立ち込めていた。レオの兄がさっきまでいたことがわかり、遭遇しなくてよかったと安心する。

ユリは前かがみになる。レオの冷たさはわかっているつもりだった。わかっていなかった。しかし、何故なのか、涙が出ない。だれにも会いたくなくて、これからのことも考えられない。ぎゅっと前傾で自分を抱え込むことでほんの少しだけ安心する。泣ければ楽になる気がするのに、目からは一向に出る気配がない。

「ごめん、泣けんで」

 レオか、レオの母か兄に言ってるかはわからないがぼそっとつぶやいた。ただ、雨は強く自分の耳にもあまり聞こえない。

スカートのポケットが浅いためか携帯が地面に滑り落ちた。気にしないつもりだったが、雨で水滴がつくため、袖で拭ってから電源を入れる。着信が十件。ただ、母からはなかった。少し苛立ち、用事もないのに母に電話をする。コール音が頭の中にも反響し、一向に途絶えない。あの母が出ない。ユリはあきらめ、電話を切って雨の水滴も気にせず地面に置き、膝に顔をうずめた。

 しゃがんでいると、足の感覚がなくなる気がした。足の冷たさがどうでもよく感じるほどだ。

誰かわからないが、電話が反応音を出した。すぐに見ると迷惑メールだった。必要以上の深いため息をついていると、またメールの着信音が鳴る。

「電話どうしたん? たべたいもんあるん?」

 少しだけ目頭が熱くなる。雨足が若干弱くなった気がした。



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