小さな決意
「え、『ヴィントミューレ侯爵』じゃないんですか!?」
食事も終わり、ゆったりとデザートとお茶を楽しんでいるときに、ふとそんな話題が出て、計都は思わずすっとんきょうな声を上げてしまった。
ちなみに、計都のお茶には子供用にとたっぷりのミルクが入っている。この地方では「お茶」といえば紅茶のようで、緑茶は少なくともこの地方には無いようだった。最初に出されたとき、「お茶といえば緑茶」と思い込んだ計都は、緑茶にミルクを入れられるのかと戦々恐々としたのだが、無事にミルクティーが出てきてほっとしたということがある。
それはさておき。
「そうか、セイリオスにはきちんと話したことがなかったのだね」
思わずとはいえ、大きな声を上げた計都を咎めだてることなく、マルフィクは柔らかく笑った。
計都は「侯爵」としか知らなかったが、正確には「キタルファ侯爵」というらしい。当主であるマルフィクは、公式には『キタルファ侯爵マルフィク・ヴィントミューレ』となる。ざっくり解説すると、キタルファ領を治める侯爵、マルフィク・ヴィントミューレというわけだ。
「姓と爵位がくっつくんじゃないんですね……」
「はは。そうだったらわかり易いんだけどね。治める領地の名が爵位の前につくのだよ」
「では、父上が武勲を立てられて、褒章を受けた場合はどうなるんですか? お隣さんが削られて、こっちが増えるとかそんな感じになるんでしょうか?」
「いい質問だね」
素直な疑問を零した計都に、笑みを浮かべたマルフィクが手の中のカップを、静かにソーサーへと戻した。些細な仕草のひとつひとつが、嫌味なぐらいに絵になる男だ。これが貴族のあるべき姿なのだとしたら、計都も最終的にはここを目指すことになる。
……正直、たどり着ける気がしない。
「たとえば、私はキタルファ侯爵領とは別に『スラファト子爵領』も賜っている。帝国の南西のほうの土地でね、風光明媚なところなので一度連れていってあげたいのだが……ともあれ、他人から『スラファト子爵』と呼ばれることは、基本的に無いといってもいい。一応、貴族録にはきちんと記載されているけれどね」
「……先に頂いた爵位で呼ばれるということでしょうか?」
「いや、位が高い方……領地が広大なほうが優先される形かな。他にもいろいろと細かい事柄が多いから、そのあたりは今後、きちんと勉強しなければならないね」
「そうですわね。そろそろセイリオスも、貴族としての勉強を始めないと……。地図と貴族録をにらめっこするのは大変ですけれども、頑張ってくださいね」
「……はい」
シュケディのふんわりとした笑顔に、計都は神妙な表情で頷いた。
貴族の付き合いには、顔と名前と領地名と爵位を憶えるのが必須らしい。しかも、その領地が帝国のどのあたりにあるかわからないと、世間話に入る段階ですっ転んでしまうことになりかねないそうだ。海に面した領地を持ってない人に、漁獲高の話をしたところで通じるかというと難しいわけで、言われてみれば確かに納得できる。
(顔と名前と会社名と役職と会社の業種を憶えるようなものと思えば何とか……)
貴族というのもなかなかに大変そうだ。
「それにしても……」
おっとりと息子を見やったシュケディの、美しい薄紫の双眸が眩しげに細められる。
「年頃の子の成長は、早いものですわね。急に大人になったようで、親としては少し寂しいですけれど誇らしいですわ」
「……あ、りがとうございます」
褒められているはずなのに素直に受け取れないのは、『計都』が『セイリオス』ではないから、だろう。中の人格が6歳児から25歳になったのだから、大人びてみえても当然だ。
(……あ、そうか)
唐突に気づいて、計都は小さく唇をかんだ。
(この人たちはもう、『セイリオス』には会えないのか)
この十日というもの、計都は自分のことだけでいっぱいいっぱいだったから気づかなかったが……マルフィクたちにしてみれば、息子が違う人間になってしまったようなものだ。もちろん、『セイリオス』の感情や知識の一部は今の計都に溶け込んでいて、まるきり消え失せてしまったわけではない。けれども、だからといってかつてのセイリオスとイコールなわけではなく、あくまで主軸の『計都』にエッセンスとして加わっているようなものなのだ。
(こんなに、いい人たちなのに)
「……どうかしたのかい、セイリオス。急に無口になったが……」
「もしかして、また熱が……? どうしましょう、お医者様をお呼びしたほうが良いかしら」
「いえ……」
かけられた声音には、真心からの愛情が滲み出ているとわかる。緩くかぶりを振って、計都はぎこちなく微笑んで見せた。
「いえ、大丈夫です」
(これが夢なのだとしても、そうじゃないとしても。きっと、これはチャンスだ)
計都と、計都の両親の間柄は、べたべたに仲が良いというほどではなかったと思う。悪くもなかったが、それなりの反抗期のあと進学のために一人暮らしを始めてからは、めっきり疎遠になっていた。初めての一人暮らしと大学生活が楽しすぎて、電話をかけることすら稀だった。最後に会話を交わした内容を、今はもう思い出すこともできない。
きっと、高を括っていたのだ。いつだって、自分がその気になれば会えると。家族なんだから、と。疑いもしないどころか、意識の端にすらのぼらなかった。
――突然、居なくなったその日まで。
「ただ……ちょっとはしゃぎすぎちゃったみたいなので。部屋で休んできてもいいですか?」
「もちろんですよ。ごめんなさいね、気づいてあげられなくて」
「春も終わりとはいえ、夜中は冷えるから。きちんと毛布をかけて、寒くないようにね」
「はい。……あの」
向けられる愛情は、『セイリオス』に対してであって、『計都』に向けられているわけではない。他人事だと、自分には関係ないと目を背けることだって、出来る。
それでも――応えたい、と。助けになりたいと、素直に思う。
それが、もう受け取れないものだからなのか、セイリオスの感情に引きずられてなのかはわからないけれども。
「父上と母上も。あまり、無理をなさらず……お仕事、がんばってください」
お家騒動がどうこうとか、ゲームのイベントを阻止するような、軽い他人事めいたものではなく。
自分が、自分の家族の為に。
(それなら、今ここにいる意味を見いだせる)
そう、思った。