サンタ見習いと屈折少年。
私が笑っていないと誰かが悲しそうな顔をするのです。
だから、私は今日もにこにこ、にこにこ。
少し辛そうな顔を浮かべたら、優しい誰もの顔が曇ります。
初めはとても嬉しくて、けれど次第に苦しくて。
そんな顔しないでください。大丈夫。
にこにこにこにこ、綺麗に笑う。
そうすれば、もう一度だけ大丈夫?と、不安げな顔。
もう一度私が頷けば、ほっとしたように微笑みが返ります。
よかったな、嬉しいな。
優しい大切な人が笑っている世界がいいな。
――――でも、
どうしてですか。
どうして笑うたび、心は空っぽになるのですか?
ひょいと窓枠を飛び越えて、病室の床に着地する。
この泥棒のような侵入方法にも、もう随分と慣れてしまった。
そもそも、泥棒ならこんな真昼間から堂々と部屋に入らないだろう。
初めのうちの罪悪感なんて、もう彼方遠くに思える。
一人きりでベッドに腰かけて本を読んでいた少年は顔を上げると、露骨に眉を顰めた。
「毎日毎日……あんた、本当によく飽きないね」
「しょうがないでしょ。これが仕事なんだから」
心底呆れたような目を向けられて、むっとする。
「大体、少年が欲しいものを教えないから悪いんでしょ」
「その物言いってあんたが無能ってことに直結するんじゃないの」
「な、」
「なに? また怒鳴る? 普通の人には見えないし聞こえないからって、病人に対しての態度がなってないんじゃない?」
「~~っ!」
馬鹿にしきった様子で肩をすくめられて、何も言い返せず地団太を踏む。
茶色の柔らかそうな髪に、生意気そうなどことなく猫っぽいアーモンド形の瞳。
確か、年は中学生だとか資料に書いてあったように思う。
この少年の名前は、木野宮雪哉。
がりがりでヒョロヒョロのくせに、この少年は口ばかり達者で嫌になる。
そして、それに上手く言い返せない自分にも腹が立つ。
「私は! 君の為にこうして!」
「ふぅん」
「な、なによ」
含みのある笑みを向けられてわずかにたじろぐ。
子ども相手に何をしているのだろうという冷静さがある一方で、彼にはどうにもただの子供と一括りにできない雰囲気があると思う。
「な、なんなのよ。言いたいことがあるなら、言いなさいよ!」
「なら、言わせてもらうけどさ」
にっこりと笑う彼はそれはもう可愛らしい。
可愛らしいのだが、
「恩着せがましい」
「…………は?」
耳を疑うとはこのことか。
鳩が豆鉄砲を食ったような顔、という表現があると思うが、今の私はきっとそんな顔をしているに違いない。
いま、何と言いましたかと窓の外で優雅にさえずっている小鳥にお聞きしたい。
「耳、遠いの? おねーさんって実は100歳超えてるとか?」
「な・わ・け・ないでしょっ! と言うより、最初に名乗ったんだから、わざとらしくおねーさんとか言うのやめてよ!」
「あんたの名前を覚えるなんて、記憶容量の無駄。まぁ、どうでもいいんだけどさ、年齢とか名前とか、あんたの仕事とか、そんなことは」
うら若き乙女に失礼な年の聞き方をしておきながら、まるでゴミ箱に放り込むようなその対応。
ぴきりと青筋が浮かぶのを誰が咎められようか。
ただ、それでも、これ以上、本題から脱線してはいけないと咳払いをして心を落ち着かせる。
断じて、このガキ締めたいなどとは思っていない。
「聞き返すようで悪いけど、」
「正直、お邪魔しますって前置きされるとそれなら入ってくるなって思うよね」
「……」
「あ、どうぞ。続けて続けて」
「……さっき、恩着せがましいって言った?」
「言ったよ」
苛立ちを抑えに抑えてにこやかに聞けば、即答が返った。
今度こそヒステリックに叫びそうになったものの、気づけば彼の視線は本の文面に戻っている。
文章を追うその瞳はひどく大人びて、そして冷たく乾いている。
ぐっと掌を握りしめる。
彼はこうして急に冷めてしまう。
私の苛立ちを増幅させるだけさせて、最後にはするっと話を濁すのだ。
それが、悔しい。
いつもそのペースに飲まれる自分にもいい加減、愛想が尽きる。
だから、今日こそ聞かなくてはいけない。
こんな不毛なやり取りなんて今日を最後に終わらせる。
「どうして、恩着せがましいなんて言うの。私たちは、君たち子どもの願いを叶えるための存在なのに」
こちらを見ない彼に奥歯を噛みしめる。
「君の欲しいものが知りたいの。ひとつくらいあるでしょう?」
宝石のような真っ赤なイチゴ、真っ白なクリームと柔らかなスポンジ。
深い緑を茂らせる背丈を越えたモミの樹と、その頂上に煌めく金の星。
南天の赤い実、柊の葉。
「クリスマスは子どもが笑顔じゃなくちゃダメな日なの。だから、私に君の欲しいものを教えて」
私の声の真剣さ故か、ついと向けられた視線はいつもの生意気なものではなかった。
少年は本を閉じて傍らに置く。
やがて、ゆるゆると開かれた唇から零れ落ちるのは綺麗なボーイソプラノ。
「はじめにあんたは言ったよね」
透明度の高い鳶色の瞳に私が映る。
「自分はサンタクロース見習いで、俺の望むプレゼントを聞きに来たって」
「そう。本来はこんなこと起きないけど、今回はちょっと非常事態なの」
「だから、あんたはクリスマスまでの2週間以内に俺からそれを聞くのが仕事」
「そう。だから、聞かせて、君は何が欲しいの?」
白い病室にベッドはひとつきり。向かい合う私たち以外に人はいない。
だから、どんな望みも願いも私と君だけの秘密、と声を潜める。
少年は少しだけ黙ってから、口を開いた。
「あんた、俺から聞き出せなかったらどうなるって言ってた?」
「え?」
「確か、クビになるんだとか」
「……」
彼に会った初日に私はつい言ってしまったのだ。
この仕事が完遂できなければ、見習いのまま落第する、と。
情に訴えればいいという、そんな泣き落としのつもりだった。
だったのだが。
「なら、クビになればいいんじゃないかな」
少年の言葉に笑顔のまま固まる。
「そもそも、あんたみたいな奴がサンタとか俺、信じてないから」
彼はそう言って、私ににっこりと微笑んだ。
そもそもの発端は先輩の一言だった。
「エル、お前、明日から別の任務も平行に頼むな」
まるで明日は雨だから、くらいの軽い口調だったから、あと少しのところで聞き流してしまうところだった。
「別任務、ってなんですか?」
プレゼントの仕分け作業もまだ終わっていない、クリスマス当日まで残り二週間というこの修羅場の時期に、いったいどんな。
先輩は私が結び損ねたリボンをめんどくさそうに解きながら、ほらと紙を寄越す。
「お前、そのガキのところに行って何が欲しいか聞いてこい。ちなみに完遂できなかったら今年の見習い試験落第な」
「そんな!?」
完全に予想外な宣告に声を上げる。
ここはサンタクロースの暮らす街、スノーエルディン。
この街では誰もがサンタになる資格を有してはいるものの、正式にサンタを名乗るには試験をパスしなければいけない。
かくいう私もサンタを志す者の一人。
出来ることなら、18歳の内に試験をパスしてしまいたいと思っている。
「先輩、それ愛の試練か何かなんですか、前例聞いたことがないですよ!」
「おい、今の話のどこが愛の試練だった」
「え、早く俺の隣に並ぶに相応しいサンタになれってニュアンスを含ませたあたりです」
「そんなところなかっただろうが」
こちらに一瞥もくれず、冷たくあしらわれた。
でも、いつものことなので別段めげない。
先輩は今日もかっこいい。にこにこと見つめていれば、呆れたような目。
「で、早く行けよ」
「え?」
「これ、今から、はい、ゴー。クリスマスまであと二週間だから、それがリミットな」
「えぇ!? ちょ、ちょっと待ってください、これ本当に任務なんですか!」
「さっきからそう言ってんだろ」
「いや、先輩のことだからいつもの悪ふざけかなと」
「……お前、俺のこと好きだかっこいいだ言う割には、俺のこと軽んじてるよな」
「いやですねー先輩のことはいつでも100%好きですよー」
「はいはい」
ひらひらと手を振られて、頬が緩む。
それから、もう一度、受け取った紙に視線を落とした。
「でも、個人名簿録には欲しいものの記載があるはずですよね? どうしてわざわざ?」
首を傾げて見せれば、少し黙ったあとで先輩がしれっと言う。
「あぁ、それな。そいつのだけ紛失した」
「ふん、しつ……」
「まぁ、平たく言えば失くしたともいう」
私は紙から顔を上げて、先輩を見た。
それから、もう一度、紙を見る。
そして、叫んだ。
「一大事じゃないですかぁああああああああっ!!」
その後、先輩にうるせぇよと叩かれたのは理不尽だと思う。
そうして私は先輩の重要機密紛失をなかったことにするために、直接本人に欲しいものを聞きに来た。
正直、名簿録をなくしたと聞いた時はこれからのサンタ人生は終わったと思った。
けれど、よく考えてみれば、本人に聞いてしまえばいい話だ。
もちろん、本来は接触してはいけないことはよくわかっている。
それでも、クビになるよりはましであるし、先輩も全面的にフォローしてくれると言ってくれた。
ようはバレなければいいのである。
しかし、これがまさか、
「クビになればいいんじゃないかな」
こんなに厄介なお子様相手だとは思わなかった。
「そういう、嫌な顔で見つめるの止めてくれない? 健康に悪そう」
考え事をしているうちに、ついつい、少年を見つめてしまっていたらしい。
今日でこの病室に通い続け、少年に欲しいものを聞き続けて4日になる。
あの手この手で聞き出そうとしたものの、未だに少年は口を割らない。
「健康に悪そうってひどい」
「なら、精神衛生的に悪そう」
「それ、もっとひどくない?」
窓枠に腰かけて唇を尖らせれば、肩をすくめられた。
毎日通っているものの、少年はいっこうに私に心を開いてくれない。
小さくため息をついて、私はぐーっとその場で上体を逸らしてみる。
視界に広がるのは、窓の外の澄んだ青空。
「ねぇ、今更だけど、君ってなにかの病気なの?」
ぐるりと真っ白な病室を見渡して、少年に目を戻す。
この病室は所謂個室で、彼のベッドしか置いてない。
少年は読みかけの本から呆れたように顔を上げた。
「あんた、とことん無神経。もし、俺がそれで重病だったらどうするんだよ」
「だって、こうやって毎日顔を合わせるんだから、気を遣いすぎてもお互い疲れるでしょ?」
「……まぁ、それはわからなくもない」
まるでその声が栞だったかのように、ぱたんと本が閉じられた。
閉じられた本の表紙は淡い水彩ので、森の中の湖が描かれていた。
「もしかして、こんな個室にいるし、重病なの?」
少し、不安になってそう問えば、彼はにっこりと笑った。
「いや、ただ端に俺の家が金持ちだから個室にしてもらえただけ」
「あ、そうなの、よかっ……」
「まぁ、いまは誰かさんのせいで快適な個室とは言えないけど」
やっぱり少年は一言多い。
翌日、病室に行ってみれば少年の姿はどこにもなくて、少し慌てた。
「なんで、真冬に汗かいてるの」
ようやく見つけた少年は息を切らした私に冷ややかな目を向けた。
彼がいたのは病院の敷地内にある、奥まった庭園の一角だった。
周囲にほとんど人はおらず、彼はそこで一人ベンチに腰掛けていた。
「逃げたかと、思って焦っ、た、……」
「へーオツカレサマです。クビになったら大変だもんね、おねーさん」
むっとして睨むも、少年は涼しい顔をしている。
当たり前だ。彼には何も痛いことなんてない。
「そもそもなんでこんなとこにいるのよ」
「んー、あれ」
指さされた先を目で追う。
「丸い毛玉?」
「猫だよ、馬鹿だな」
呆れたような少年が、ベンチから立ち上がると猫はのそのそと彼に寄ってきた。
近くで見るとなかなかに可愛い顔をしている。ただし、よく肥えていると思う。
首輪は見られないから、おそらく野良猫なのだろう。
喉の下を撫でられごろごろと気持ちよさそうにすり寄るその姿には、なにやら愛護心をくすぐられる。
「あんたも触る?」
羨ましそうに見ていたのがばれたのだろうか。
見上げてきた彼にこくこくと頷く。
場所を代わってもらい、うきうきと手を伸ばしかければ、ぷいっとそっぽを向かれた。
「……ええと」
実際は、そんなに機敏な動きではないから、むしろすいーと顔を背けられたという方が正しい。
めげずに、さらに手を伸ばしてみてもその繰り返し。
そのやり取りが数十回繰り返され、助けを求めるように少年を見上げれば、彼は口元を押さえてそれこそ顔を背けていた。
「……ちょっと」
「やっぱり、動物にはその人の心の綺麗さとか、わかるんだ、よ、あんた、懐かれなさすぎ……っ」
「人を現在進行形で嘲笑ってる君に言われたくない!」
叫んだ私とは裏腹に、猫は呑気ににゃあと鳴いた。
ようやく、くつくつとした笑いを収めた彼が、再び猫と戯れているのを大人しくベンチに座って見つめる。
冬と言っても、昼間はまだ日があって温かい。
「ねぇ、その子、名前、なんていうの?」
「ねこ」
「野良猫だから名前知らないってこと?」
「こやつは猫である、名前はまだない。そして、これからもつけない」
うりうりと猫を触っている少年は振り返らないまま、そう言った。
「可愛がってるわりに薄情なこと言うのね、少年。名前、付けて呼んであげなよ」
せっかく、君には懐いてるんだから、とむくれれば少年は猫を抱きあげてこちらを振り返る。
何かと思って見ていれば、彼は猫の両手を持って万歳をするように持ち上げてみせた。
「名前を呼ばれると懐くのにゃー」
突然のことに、目を見開く。けれど、猫の向こう側にいる彼の表情は、愛想の欠片もない無表情だった。
彼は猫を下ろしてやると丸くなったその背中を撫でながら、続けた。
「だから、名前は付けない。俺のこと飼い主と勘違いしても困るし」
「な、んで、困るの」
さっきの衝撃が覚めきらないため、呆然と尋ねる。
「猫って死ぬときに飼い主の元からいなくなるっていうから」
「え?」
「だからこいつは最期までいなくならないよ」
もう十分に懐いてるでしょう、と言いかけたのに言えなかった。
静かな目をした彼の猫を撫でる指先が、ひどく優しげだったから、言えなかった。
「長生きのためには、もう少し痩せた方がいいかもね」
代わりに、口にした言葉に彼が鼻を鳴らす。
「猫はメスなのにひどいこと言うな。猫はこのままでじゅーぶん可愛いからいいんだよ」
そう言って、再びうりうりと猫を撫でまわす彼は無邪気に笑う。
それは、今までのにっこりとした含みのある笑顔でも、すました大人のような表情でもなかった。
眩しいようなその笑みに、知らず知らず言葉が零れ落ちる。
「かわいい……」
「やっとわかったわけ?」
やや不服そうに眉根を寄せた少年に、少年のことだよ、とはまさか言えず、私は慌てて口を押さえた。
「なにその顔?」
「あ、えっと、その、何欲しい!?」
誤魔化すため、半ば無理やり口にしたものの、内心はっとする。
つい、自分の仕事を忘れて猫と戯れてしまっていた。いや、正確に言えば戯れられてすらいないのだけれど。
そして、少年と言えば、そう聞いた瞬間にうんざりとしたように口を引き結んだ。
さっきまで、初めて見るような年相応の笑顔を浮かべていただけに、その変化は明白だった。
あ、と思う。
ため息をついて、少年は立ち上げる。
「あんたって、本当に馬鹿みたいにそればっかだね」
「な、だって、それは」
「わかってるよ。聞かないとクビになるからでしょ、先輩ともども。ご苦労なことで」
「そんな言い方……っ」
くしゃりと髪をかき上げて、少年が、それならと私の言葉を遮った。
「猫と仲良くなって」
一瞬なにを言われたのかわからなかった。
「はい?」
「俺より猫と仲良くなったら、欲しいもの、教えてもいいよ」
投げやりに、言われた言葉を理解するのに数秒かかった。
「え、それ、うそで……」
「ほんと。だいたい、サンタが猫くらい手なずけられなくて、どうすんの、トナカイとか」
「いや、トナカイとは良好な関係築けるけど!たぶん!」
「あっそ。正直、その辺りに興味は微塵もないから、説明しなくていいよ。ひとまず決定」
「さ、さっきの惨状見て、それ言うとか鬼畜じゃない!?」
「どうとでも言えば。猫に懐かれるまで、俺にもう付き纏わないで、迷惑だから」
取りつく島もなく、ばっさりと切り捨てられた。呆然とする私の前で少年は微塵のためらいもなく背を向ける。
残されたのは、私と猫だけ。
何が彼をここまで頑なにさせてしまったのか、後悔するももう遅い。
縋りつくように、猫を見遣れば、やっぱり彼女はふいっとそっぽを向いた。
翌日になれば、忘れていないかと思ったけれど、そんなことはやっぱりなかった。
少年は一切、私に反応してくれなくなっていた。
「どうしよう……ねこー困ったよー……」
慰めて―とばかりに猫に癒されようとするものの、例のスルースキルは今日も今日とて健在である。
少年にはあんなに懐いているくせに、私には懐かないのは謎だと思う。
「似たもの同士だから、とか?」
少年の人を食ったような物言いや、表面上はにっこりと愛想がよさそうなところを思い返してため息をつく。
猫のように気まぐれで、少し仲良くなれたかと思えば、全然そんなことはない。
ここ数日通ってみて、言葉はぽんぽんと交わせるようになった。
少年は生意気だけれど、話していて、時々楽しいとも思えるようになった。
でも、そんなのは私だけなのかもしれない。
「そもそも、どうして教えてくれないのかな」
冬の澄んだ空を見上げて、呟いてみれば、それは今更の疑問だった。
なぜ、頑なに少年は欲しいものを教えることを拒むのだろう。
「恥ずかしい、とか? いや、少年に限ってそれはないか」
零した独り言は、冷たい冬の風に攫われて行った。
「飽きないの」
本の文面から顔を上げずに少年がふいに言った。
少年が無視を決め込むつもりなら、こっちだってもう何も気にしないと部屋に居座ることにして今日で3日目。
「え?」
「すぐに来なくなると思った」
相変わらず、こちらを見ないまま、ぱらりとページがめくられる。
戸惑っていれば、ぱたんと本は閉じられて、彼がようやくこちらを向く。
その目があまりにもまっすぐで、居たたまれなくなった。
「仕事! 仕事なの」
来たくて来てるんじゃないから、と、口の中でもごもご呟く。
何をこんなに隠したいのか、自分でもわからない。
ただ、少なからず、仕事に関係なく、少年が何を欲しいかが気になり始めている自分がいる。
「なに、照れたの?」
「違う!!」
「ふうん、いじめられるの好きなのかと思った」
「は」
驚いて固まれば、にこっと意地の悪い笑みが返る。
「図星?」
「こっの!!」
「で、猫とは仲良くなれたの?」
ふいと逸れた話題に、叫び返そうとした私はその声の行き場を失う。
むすっと、腕を組んで少年を真っ向から見据える。
「撫でることは辛うじて許してもらえた」
「へー進歩したね」
棒読みで褒められたところでちっとも嬉しくない。
「すぐに仲良くなるから見てなさいよ」
「うん、期待しないで待ってる。というより、普通なら時間いっぱい猫と一緒にいる方が都合いいと思うんだけど」
珍しく、皮肉なしに尋ねられて苦く笑う。
初日についつい話しすぎたと、少し反省する。
サンタの仕事は原則9時17時だ。夢あるサンタがこちらの世界で叫ばれるブラック企業なんて笑えない。
といっても、それはあくまで表向きでクリスマス付近は家に帰れなくなることもあるし、イブはもちろん夜勤である。
「どうして、無視されるってわかってて俺の方にもわざわざ顔出すの」
「いまは会話してくれてるじゃない」
「まぁ、気まぐれ。また明日からは口きかないかもしれないよ?」
悪気なく告げられたであろうその言葉に、内心呆れつつも、もうどこかで慣れた自分もいる。
窓枠に腰かけて、自分でもどうしてだろうなと少し考えた。
嫌そうに撫でられていた猫のふわふわの毛並みを思い出す。
「たぶん、少年も猫みたいだから」
「……俺は紛れもなく人間だけど」
「なんていうか、会わなかったらまた一からになりそう。君、性格歪んでるし」
また、一言えば十返す少年の言葉が返ってくるかと思ったが、予想に反して少年は首を傾げて私を見ていた。
正直、驚いた。目を瞬く。
「あれ? いつもみたいに言い返さないの?」
「いや、なんか新鮮なんだよね、あんた。そんなこと真っ向から言われたことないし」
「はぁ? 君みたいなスーパー生意気な子どもがこういうこと言われたことない? 一度も?」
「うん、ま、猫かぶってるしね」
大して重要なことでもないと、少年は悪びれもなくにこりと笑う。
「なんで猫かぶるの?」
「あんただって言ったでしょ、生意気でひねくれてるって」
「自覚あったんだ」
ぽつりと呟けば、肩をすくめられた。
「まあね。ただ、それにしても本人目の前にして普通言わないと思うんだけど」
「だって実際、生意気なんだからしょうがないじゃない」
「だから、猫かぶって隠してるわけでしょ? あんた、そんなこともわかんないの?」
当然のようにそう言われて、今度は私が首を傾げる番だった。
「それって猫かぶってまで偽ってまで隠すことなの?」
「…………は?」
初めてぽかんとした子供らしい顔で少年が私を見返した。
私にしてみれば、むしろ少年の物言いの方がわからなかった。
「だって、それが君じゃない。ひねくれてて生意気、それが君。でもそれって隠すほど悪いこと? そんなことなくない? むしろ線引かれてるみたいで淋しいと思うんだけど」
私の言葉に、少年はまじまじと私の顔を見つめたかと思うとぽつりと一言、口にした。
「あんたって……やっぱり変だよね」
「はい? 君の方がよっぽど変でしょ。そもそも生意気じゃない君なんて気味悪い」
虚を突かれたように目を見開いた少年が、次の瞬間、声を上げて笑い出した。
お腹を押さえて笑うその年相応の無邪気さに驚いて、今度は私が目を見開く。
「いっそ、そこまで来るとあんたも十分性悪だよ! 気味が悪いとか、本人に、言わないよ、普通!」
「な、」
「あー。でも、うん、まあ、なんかいい」
口元を押さえて、笑いを噛み殺しながら、少年は晴れやかな顔でそんなことを言った。
「なにがいいの?」
「あんたもそういうとこ、隠さなくていいとこだよ」
「それって褒めてる? というかそもそも君、私の前だと猫かぶる気ゼロじゃない」
「だって、あんたにそれしてメリットある?」
「こっのやろ!」
そう言ってみたところで、笑っている少年を見ていたら、気づけば自分も笑っていた。
窓の外は今日も綺麗な澄んだ青空が広がっている。
クリスマスまであと一週間、私はいつの間にか焦りを忘れていた。
その日、ノルマのプレゼントの仕分け作業を終わらせた後、病室に顔を出すと、珍しく少年がいなかった。
そう言えば、今日のこの時間は検査があると言っていた気がする。
「猫のところに行ってきた方がいいかな……」
そうひとりごちて、病室から出ようとした時、一冊の本が目に入った。
ベッドの脇のテーブルに置かれたそれは、いつも少年が読んでいるものだった。
「いつもその本読んでるよね? まだ読み終わらないの?」
そう指摘したのは、いつも少年が手にしている本が同じ表紙なのが気になっていたからだった。
少年は本を閉じて表紙をなぞると、特に何でもないことのように言う。
「これ、もう終わりまで読んだことあるから、たんに読み返してるだけ」
「よっぽど面白いの?」
「全然。むしろどっちかと言うなら嫌い」
「嫌い? なら、新しい本読めばいいのに」
「まあね。でも、終わりがわかってる方が安心して読めると思わない?」
「安心? 本読むのに安心って必要なの?」
その二つが結びつかずに、思わず眉を顰めた。
確かに、この本に目を落としている時の少年はとても穏やかだ。
でも、本というのは新しい驚きや知らない続きに出会うためにあるのではないのか。
「ま、本を読まなそうなエルにはわからないかもしれないけど」
「本くらい、読むわよ!」
反射的にそう返してから、あれと思う。
出会った初日に名乗った名前を少年が憶えていたことに驚き、それから呼ばれたことに動揺した。
けれど、そんな私の内心も知らずに少年は嘘だろ、なんて笑っていて、それは今更に気づけば前とは違ってどこか柔らかかった。
夕日が差し込む病室の温かい色に染まっていて、その中で少年が明るい表情で私に話しかけている。
いつの間にか少年の言葉は耳まで届かなくて、温かな色の光の中で笑う少年から目が離せなくなっていた。
それは、泡が水面を目指すような、そんな衝動。
「……ゆき、」
「何度も読み返してわかることもあるのが、本の良いところ……っていま何か言いかけた?」
「な、なんでもない!」
はっと我に返って、顔が熱くなった。
余裕で名前を呼びたいのに、こんなに動揺するなんて思わなかった。
しかも、相手は自分よりいくつか下の子どもなのに、と悔しくなる。
少年が本の話をしているのを聞きながら、私は赤くなっているであろう頬を隠していた。
そんな出来事を思い出して、結局まだ名前を呼べていないなと思い出す。
いつも、なんだかんだ彼の言葉に遮られてしまうのだ。
苦笑を零して、何気なく手にした本を開いてみる。
そこに綴られていたのは嘘つきなひとりの少女の物語だった。
その少女は誰の悲しい顔も見たくないがために、いつもにこにこ笑っている。
自分が笑っていないと皆が辛そうだから、少女はピエロのように涙を隠して微笑み続ける。
けれど、やがて少女はそのせいで誰にも苦しみを打ち明けられずに一人きりで死んでいく。
最期、そんな彼女の死に人々は涙する。
辛いことがあったなら、どうして自分たちに分けてはくれなかったのか、と。
「その主人公って馬鹿じゃない?」
はっとして振り返れば、病室の入り口に少年がいつの間にか立っていた。
「本当に誰も悲しませたくないなら、その主人公は一人で姿を消す前に嫌な奴を装って皆を遠ざけるべきだった」
こちらに歩いてきた少年は私の手から、本を攫うとベッドに腰かけた。
最期のページを開いて、少年はそっとそのうちの一節を読み上げる。
「傷つけることを怖がった少女は、結果的に愛した人たちを深く深く傷つけました……馬鹿だよね」
「そんな言い方って」
「庇うの? もしかして心当たりでもある?」
猫のように細められた目から、瞬間的に目を逸らした。
夕暮れの病室は静かで、床に落ちる影は次第に伸びていく。
やがて、少年がため息のように言葉を零した。
「ごめん。あんただって、触れられたくないことのひとつくらいあるよね」
答えられなかったのは、それが少年にも言えることだからだと思ったから。
この病室は異常だ。
通い続ければすぐにわかる。
この病室には、医者や看護師は訪れるものの、他の人がドアを開けることがない。
初めは、てっきり自分のタイミングの問題かと思っていた。
でも、1週間以上休まず通って、他の誰にも一度もタイミングよく会わないなんてことがあるはずない。
「ゆき、」
「今日はもう帰ったら?」
続きを遮られて、はっと知らずに俯いた顔を上げれば、言葉とは裏腹に少年の表情は柔らかかった。
緩められた目元はけれど、だから、どこか淋しげで。
「また、明日」
「……うん」
はじめて、明日の約束を少年から口にしてくれたのに、私はなぜが唇を噛みしめていた。
────だから、遠ざけることにした。
いつしか、疲れ果てていた。
笑うことも偽ることも。
遠ざけるほうが、嫌われるほうがよほど楽だと思った。
でも、どうしてですか。
心はもっと空っぽになった。
それは、気まぐれな思いつきだった。
起きている少年はいつも生意気だけれど、寝ているときくらいはきっと可愛らしいに違いないという、そんな他愛もない思いつき。
起きた少年のぎょっとした時の顔まで想像すると、少し楽しくなって、いつもなら、訪れない朝早くに少年の病室へと足を向けた。
けれど、窓枠に手を掛けようとしたところで、私は動きを止める。
いつもにも増して静かな病室で、ベッドの脇に佇むひとつの人影があった。
少年を見下ろして、そっと寂しげに微笑むその女性は、どこか少年に似ていた。
その口元が微かに動き、震える指先が眠る少年の頬に触れるか触れないかのところで握り締められる。
その表情を見て、私は動けなくなった。
しばらくしてから、ひとつの音さえ、零さずにその女性は病室から出ていった。
私はそっと窓を開けて、部屋へと降り立つ。
少年は目を覚ます素振りも見せない。
何かを言いかけた唇は、けれど何も言えずに吐息だけを静かな病室に落とした。
死んだように眠る少年は、ちっとも可愛らしくなんてなかった。
どうしてだろう、と私はぼんやりと思う。
窓の外はまだ少しだけ暗い。
それでも、また日は巡って空は青く澄み渡るのに。
新しく始まる朝は愛おしいはずなのに。
どうして、彼は泣いているんだろう。
ゆるゆると瞑られた彼の目元から、また一つ音もなく涙が頬を伝い落ちた。
「抜け出すの手伝ってくれない?」
そう少年が切り出したのは、イヴまで残り5日を切った朝のことだった。
猫ともいい関係が築けてきて、少年の口の悪さも変わらないように見えてどこか少し優しくなってきていた。
これは仕事の一環だと思いつつも、この調子なら彼から欲しいものは聞けるだろうと思えてきていた。
それでも、言い出せずにいるのは、一度、その話題を出した時、笑顔が掻き消えたことが頭の片隅に引っかかっているからかもしれない。
今の私は純粋に少年に喜んでほしいと思えるようになっていたから。
「抜け出すって、どこに行くの?」
「今夜、流星群がみたい」
「……普通に抜け出したら?」
窓の外では雪が降っていた。
きっと夜になる頃には積もって、世界は真っ白に染め変えられているのだろう。
概要が掴めずに、思うままに口にすれば、少年はミネラルウォーターの入ったペットボトルに手を伸ばしながら呟く。
「今日、雪の予報が出てるし、夜間は外出禁止。加えて、俺、今日は一日外出許可が出てない」
「……なんて言うんだったかな、そう言う状況。スリーアウトチェンジ?」
「だから、エルに頼んでるのわからない?」
ミネラルウォーターを飲みながら、伺うように見られて、腕を組む。
「そもそも外出許可が出てないのに連れ出していいの?」
「当然、よくない。当たり前だよね」
「なら、頼まないでよ」
「そう。なら、俺は一人でここを抜け出してきっと捕まるんだろうなぁ、そうなると病室に監視がつくようになるかもしれないなぁ」
急に何を言い出すのかと、眉を顰めれば、芝居がかった様子で少年が額を押さえる。
「そうしたら病室に無人の時はなくなるのかもしれないのにいいのかなぁ……メルは病室に入れなくなってクビにな、」
「前置き長い!」
しかし、聞いて少し不安になった。確かに、この病室が個室で、なおかつ人が滅多に来ないからここに通えるのは事実だった。
「まぁ、軽い気持ちで付き合ってくれればいいよ。どうせエルの姿は他の人には見えないんだし」
「そうだけど……少年、体調は大丈夫なの?」
気がかりだったのは、少年の近頃の様子だった。
はじめて会ったころに比べて、少年は少し痩せたような気がする。
それにここ数日は検査と言う名目で、病室を開けることが多くなった。
「ぴんぴんしてるのわからない?」
ほら、と両手を広げて見せた少年の表情は随分と明るい。
「んー、ならいいんだけど」
以前、少年に聞いた話では、彼は簡単な手術をしたその後の経過を見るために入院しているにすぎないのだと言う。
学校を休めるのは嬉しいけれど、12月を病院で過ごすのは味気ないなと、窓の外を見ながら少年はそんな風に呟いていた。
それを思い出して、少し考えてから私は口を開く。
「少しだけなら付き合う。風邪ひかない程度に」
「よし。エルならそう言ってくれる気がしてた」
笑みを浮かべる少年に、小さく笑いながら、そっと思う。
クビになるのも困るけれど、本当は少年の望みを聞きたいという心が主だった。
本当は聞いてみたいことがたくさんあって、話してみたいことがある。
でも、これはあくまで仕事の関係。
だから、今夜、欲しいものを聞いて、それで一度おわりにしよう。
そして、もう一度、君に会いに来たい。
――――だけど、私はこの時、知らなかった。
窓の外の曇天を見つめる少年が、本当はどんな願いを持っていたかなんて、何も知らなかった。
「あ、残業代とかでないから期待しないでね」
「元からしてない」
「あっそ。メルはがめつい方だと思ってた」
ふふっと笑った声は小さく顰められて、夜の空気を揺らす。
深夜になってから、当直の看護師たちの巡回の目を掻い潜り、病院の外に出た。
真っ白に染められた敷地内は、足跡ひとつない。
降り積もった雪に、私と少年の足跡だけが刻まれていく。
ほうと吐いた息が闇夜の中、真っ白に色づいては消えていった。
「猫は今頃どこにいるのかな……」
ぽつりとそんなことを呟きながら、さっきから黙っている少年を振り返る。
少年は微動出せずに、空を見上げて雪の中に佇んでいた。
「ゆき、」
「やっぱり」
名前を呼ぶ前に、彼が夜空を仰いだまま、ぽつりと呟いた。
「曇ってるね」
つられて見上げた夜空は重い雪雲に覆われていた。
星の光も、月の光も飲み込むようなその灰色に、苦笑が零される。
「まぁ、そうかなって思ってたけど」
その声は冷たく空気の中で、静かに溶けていく。
無意識に踏み出した足が、さくりと音を立てても、少年はこちらを見なかった。
遠くを見る瞳は、たぶん流星よりももっと遠いものに想いを馳せている。
そう思ったら、堪らなくなった。
「少年……!」
私の突然の大声に、少年ははっとこちらを見た。
「なに、エル。突然どうし……」
「見て!」
「え……? あ、ちょっと!!」
両手を広げて、後ろ向きに大の字で雪の中に倒れ込む。
冷たい雪が首筋を撫でて、私は身震いした。
私の奇行に驚いて、慌てて少年が傍まで駆け寄ってくる。
「何やってるの、いきなりすぎるでしょ」
「良いから、見て!」
倒れ込んだその姿勢のまま、私は広げた両手両足を上下左右に動かす。
少年は呆気にとられたように、私が雪の上で動いているのを見ていた。
しばらく動いた後、私はがばっと置きあがる。
それから、そそくさと雪を払うこともなく立ち上がって、周りの雪を踏まないようにして少年の隣に立った。
「見て!」
「いや、見てるけど」
「よく見て!」
「よく見てって、これを?」
戸惑ったように、少年は私がさっきまで寝っ転がっていたせいで跡がついたあたりを指さす。
「そう。何かに見えるでしょ?」
「……雪」
「違う、形!」
「えぇ……なにそれ」
もっとよく見てと私が指差せば、少年は首をひねりつつも、もう一度雪の跡と向き合う。
それから、しばらく雪を見つめてから、あ、と小さく声を上げた。
「もしかして、天使?」
「当たりっ!」
手を上下に動かしてところは羽、足を左右に動かしたところはスカート。
これは雪国に伝わる雪上の天使の描き方。久しぶりながら、上手く作れたと満足げにふふんと笑う。
「でも、なんでいきなり天使?」
「う、それは」
「それは?」
「い、いきおいで、なんとなく」
しどろもどろに答えた私に、一瞬少年は、珍しくぽかんと口を開けた。
君の気を紛らわさせたかった、なんて正直に言えるわけもない。
そもそも、なぜ天使なのかと問われてもそれぐらいしか思いつかなかったとしか言えない。
「い、良いでしょ! 流星に願いごとするも、天使に願い事するも同じような感じよ!」
夜風は涼しいはずなのに、変に顔が熱くなっていく。
目を瞬く少年は、何も言わないままで、だからつい余計に言葉を重ねてしまう。
「元気だしなよ! 流星ならまた見られる時、きっとあるから、たぶん! それより私の作った天使の方がもういつ見られるかわからないよ、レアだよ、レア!」
拳をきかせてそう訴えれば、少年が噴き出した。
唖然とする私の前で彼は、隠すこともなく声を上げて笑い出す。
「元気づけるためとか、わかりにく……! 挙句、レア、厚かましくもこれを希少価値!」
「な、そんな笑わなくたっていいよね!」
「だ、って、急に天使、しかもレア、この幼稚園児の落書き、レベルに、ご利益とか!」
「うううううるさいっ」
しかし、そうやって笑っているのもつかの間、知らない声が飛び込んだ。
「おい、そこに誰かいるのか?」
少年の肩が跳ねた。水を掛けられたかのように、私の体も震えて固まった。
建物の影からこちらに足音が近づいてくる。
「もう消灯時間はとうに過ぎたはずだ」
厳しさを感じさせる低い声に、私はどうしようと少年を伺い見れば、
「逃げるよ」
「え?」
答えるより早く、私の手を掴んで少年が駆けだす。
もつれそうになった足を、慌てて動かして、けれど音を立てないように私たちはその場から逃げ出した。
半歩前を走る少年は私より頭一つ小さいのに、その手が私の手を握る強さに驚く。
私はどこをどう走っているのか、まったくわからなかった。
周りを見ていなかったと言ってもいい。
私はたぶん、少年の背中ばかりを見ていた。
どれほど走っただろうか。
気づけば、そこは少年の病室の前だった。
脚を止めた私と少年は乱れた息を整えながら、顔を見合わせて小さく笑い合った。
いつの間にか解けた手は、それでもどこかくすぐったかった。
少年は私に近づくと、小さく顰めた声で囁いた。
「宇宙人と間違われるかもね」
「え?」
「さっきのレア天使。地球を侵略しに来た宇宙人が描いたのかもって」
「な、ひどい!」
あくまで小さな声で非難すれば、少年も声を潜めたままくすくすと笑った。
「明日には、ワイドショーで特集が組まれるかも。病院に宇宙人の残した謎の絵がって」
「天使だってば!」
「絶対、なんかモンスターとか言われそう」
静かにしなければと思うほどに、言葉は溢れて、笑いは零れて、廊下の空気が少しだけ温かくなる。
非難めいた言葉も、いつの間にか笑い声に紛れていた。
そっとドアを開けて、少年と私は部屋に戻る。
安心感からか、さっきまでの緊張のせいか、よくわからないまま私はおさまらない笑いに肩をゆらす。
いまなら、きっと少年は私に欲しいものを打ち明けてくれるような気がした。
「ねぇ、エル」
けれど、そんな私とは裏腹に、窓際まで歩み寄った彼はもう笑っていなかった。
だから、少年が窓を開けた時、何を言ったのか私は理解できなかった。
「もう、俺のところに来なくていいよ」
「え?」
自然と収まりそうだった笑いは、彼の言葉にぷつりと途切れた。
「ありがと、なんか満たされた」
月明かりに照らされた顔はいままで見たこともない優しいもので、私は混乱する。
いつの間にか、夜空の雲は晴れたようだった。
もしかしたら、いまなら窓の外に流星が見えるかもしれない。
それなのに、少年は窓に背を向ける。そのことに心は騒めく。
彼の柔らかい髪がさらさらと冷たい夜風に揺れた。
さっきまで二人で笑っていたはずなのに、まるで境界線を引かれたように彼がいきなり遠くなる。
あまりにも唐突な線引きに、距離の取り方に、表情がこわばった。
「いきなり、どうしたの? それに満たされたってなに……?」
「もう、来なくていいってこと」
目元は優しく緩められたのに、突き放すようなその言葉が理解できない。
今まで、あれほどからかって、私を怒らせて、振り回して、それなのに急にそんなことを言わないでほしい。
そんな風にかき乱された気持ちにはっとして、顔を引き締める。
これはあくまで仕事が遂行できないという、理性的な判断であって、個人的なものではない。
彼とこうして時間を共有しているのは、彼の欲しいものを知るため。
それがいまの私に与えられた仕事。
彼にもういいと言われたところで、私は帰れはしないのだ。
彼から突き放されたとしても、私は仕事だから彼のそばから離れられない。
そんな公的な理由にどこか安心のようなものを感じている自分を見ないふりをして、口を開く。
「あのね、何度も言うけど私は、」
「意味ないから」
「え?」
遮られた言葉に、彼を見る。
仕事だとか、欲しいものが何だとか、頭の中で何度も繰り返していたはずなのに、彼の瞳を見たらすべて消えていった。
さっきまで、あんなに笑っていたのに、あんなにきらきらした目をしていたのに、いまあんなに優しく笑っているのに。
何百年もの孤独な夜で満たしたような真っ黒な色が私を見返す。
「ゆ、き」
「――――ありがとう」
どうして、いつも名前を最後まで呼ばせてくれないのだろう。いつも遮られてばかりで。
そんなことを今更に思う。
『名前を呼ばれると懐くんだ』
『だから、名前はつけないし、呼ばない』
『猫って死ぬときに飼い主の元からいなくなるっていうから』
どうしてこんな時に思い出すんだろう。
『だからこいつは最期までいなくならないよ』
どうして。
どうして、と私はきっと呟いた。彼は、それを聞いても何も言ってくれなかった。そのかわりに、笑った。
「ごめん、俺、死ぬかもしれないだ」
だから、もう、来なくていいんだよ――――冬の帳に溶けたその言葉に、何も言えなかった。
めちゃくちゃだった。
何もかもが、もう自分の中だけでは納まらないくらいにめちゃくちゃだった。
廊下を走り抜けて、半ば体当たりするように扉を開けて部屋に転がり込む。
「先輩……っ」
「よう、エル」
いきなり部屋に飛び込んできた私に驚くことなく、先輩は椅子に座ったまま一瞥を寄越した。
その落ち着いた態度に、ひぅっと捻じれた息を吸い込んで、できる限り冷静でいようとする。
「ゆき……私の、対象者のデータは先輩に渡ってたん、ですよね」
「あぁ、そうだ」
「なら、先輩は」
その先に続ける言葉を、どう紡いでいいかわからなくなる。駆け巡る思考はもうとっくに答えを知っているのに、私はまだ認め切れずにいる。
先輩の、否定を期待している。
黙る私を見て、先輩はため息をついた。
「俺が対象者の病状を知ってたか、聞きたいんだろ」
「……っ!」
私が目を見開くさまを見て、先輩は資料を机に投げ出した。
室内に沈黙が落ちて、自分の中でうるさいくらいに鼓動が激しくなる。
脚を組みなおしたせいで椅子が軋む。先輩が再び口を開いた。
「知ってたよ」
その言葉を聞き終わらないうちに、先輩のすぐ前まで走り寄り、手を振り上げていた。
けれど、まっすぐに頬に打つはずだったその手は先輩に止められる。
思わず、キッと先輩を睨んだ。
「なんでっ! どうしてですか! 教えてもらっていたら……!」
「いたら? あいつに近づかなかったか」
冷めた目で見上げられ、びくりと体が震えた。
畳みかけるように、先輩が言う。
「教えていたらお前はどうしてた? 近づかなかったか? 関わらなかったか? 傷つかなかったか?」
「それ、は」
「お前、いま、自分が何言ってるか分かってんのか? 相手を傷つけたって主張してるつもりかもしれねぇが、それだと自分がこんなに傷つかなくて済んだはずだって言ってんのと同じだよ。知っていたら、相手を傷つけるってことで自分が傷つかなくて済んだのにってな」
「違います! 私は!」
「なんだよ、その続きを言えよ」
「わた、私は……っ!」
「ほら」
「わたし、は……」
「ほら、お前は何も言い返せない」
ぱっと手を解放されても、もう一度振り上げる気にはなれなかった。
そのかわりに震えが止まらなくなった。
先輩の、言うとおりだった。
私は自分が傷ついた、と喚いていただけだ。人の痛みに踏み込んだ自分を、認めたくなかった。
痛みに触れなければ、近づかなければ、そんな傷は負わなかった。
そんな風に思っていた、浅ましい自分を自覚して、じわりと目頭が熱くなった。
誰だって傷つきたくない、人の傷に踏み込みたくない、傷つけたくない、誰かを傷つけたなんて理由で傷つきたくない。
でも、そんな風に考えるのは自分のことばかりで、私は傷ついた彼のことを考えてつもりで全く考えていなかった。
それに気づいたら、涙は止まらなかった。
もっと賢くなれたらと思ったのだ。彼の傷のありかを知っていたら、もっといい方法が、触れ方があったと。
そうすれば、彼を傷つけることもなかったと。
でもそんなのは詭弁だ。彼を傷つけるということで、自分が加害者になることから逃げたかっただけ。
でも、なら、どうすればよかったのだろう。
「でも、なら、先輩は、私にどうしてほしかったんですか……!?」
彼の病気はひどく深刻な脳の病気で、次の手術で命を落とすかもしれなくて、そしてそれはクリスマスイブで。
そんな彼に、ほしいものなど聞いて、どうしたかったのだ。
明日など、未来など、来ないかもしれないのに。
その先をいたずらに提示して、望みを聞いて、もうすでにきっと傷だらけの彼に、その心の一番柔らかいところをさらけ出せ、と強請ることはなんて、なんて残酷だ。
「先輩がわからない、わからないですっ」
もう体を支えていることもできなくて、膝から崩れる。泣きたくなどないのに、涙が零れた。
こんな気持ちになるなんて思わなかった。人を笑顔にする、それを夢見た結果がこれなのか。
誰かを幸せにできたなら、自分の居場所が見つかると思った。居場所を、許されると思った。
一緒に誰かと笑う会う未来を、信じてもいいと思った。
思ったのに、この現実は何だ。
幸せとは、何だ。
「……欲しかったんだろ」
「え……?」
消え入りそうに零された言葉に涙でぐしゃぐしゃの顔を上げる。
まっすぐと私を見下ろす先輩の顔は、酷く静かだった。
「だから、お前を贈った」
「せん、ぱい? 何を、」
「友達」
ぱりんと、心の中で音がした。
淡々とした先輩の言葉は続く。
「あいつが欲しいのは傍にいてくれる新しい誰かじゃないかと思った。だから、お前を贈った」
「そんな」
「でも、お前に出した仕事は嘘じゃない」
先輩は少し、苦しげに目を細める。困ったように、笑うその顔。
それは、いつかに私の頭を撫でてくれた時の微笑みに似ていた。微笑みと言うには、それはなんて苦しそうで、優しいんだろう。
希望を、と先輩は言った。
「残酷でも、エゴでも、身勝手でも、それでも希望を、もって欲しくないか?」
「……っ」
「俺は、俺の判断を誤ったと思ってない」
それはきっと続く日々を、彼に贈りたかったということで、
堪えようと思うのに、次から次へと涙が零れていく。
でも、それはさっきとは違う涙だった。
「はい、はい……っ」
拭っても拭っても溢れる涙を、肯定するように頭にぽんと置かれた手に嗚咽が止まらなくなった。
「行くのか?」
涙をぬぐい、立ち上がった私に、先輩が問う。
「はい」
「そうか」
頷いて踵を返そうとした瞬間に、言葉が落とされた。
「俺、誤ったと思ってないって言ったろ」
「?」
「それな、お前を贈ったことを含めてだよ」
息が止まるかと思った。
胸の奥から溢れた熱を、どうしていいかわからなくて、先輩を呼ぶ。
「先輩……」
「褒めてないからな、俺は俺のことしか褒めない」
こちらを見る先輩はいつもと変わらない。でも、だからこそ、何も言えなくなった。
「ほら、もう行くんだろ。とっとと行け」
「はいっ」
目頭が熱くなって、視界が揺らめいた。
先輩の柔らかく細められた瞳に、もう自分は大丈夫だと手を握りしめる。
泣きすぎだろ、と呆れたような先輩に、いまはいいんです一回緩むと大変なんですから、と軽口をたたいた。
それから踵を返すと、しっかりと前を見据えてドアを開けた。
「エル」
扉が閉まる寸前、背中越しに先輩の声が聞こえた。
「頑張ってこい」
零れ落ちそうになった涙を拭って、一つ頷くと、私は駆け出した。
今思い出せば、遠い昔、暗闇で私はひとり泣いていた。
世界は優しくない。
でも、仲間たちの中で泣きたくはなかった。
私が悲しそうにすれば、優しい皆は心配したように眉を下げるから。
そんな顔をしてほしいわけではなかったから。
一人きりで泣くたびに、涙に溶けていきそうだと思った。
怖くて、このまま自分は何者にもなれずに消えていくような気がした。
でも、そんな私を見つけてくれた人がいたから。
見上げた私に、その人は笑って言ってくれたんだ。
「お前、サンタ向いてると思うぞ」
――――お前はきっと自分と似てる奴を見つけて笑顔にできるから。
病院についた時、日はまた沈んでいた。
初めて少年に会った時もちょうど、こんな時間帯だった。
『……随分、大胆な泥棒だね』
『泥棒じゃなくて、サンタだよ、よろしく少年』
窓から侵入した私に、少年はあまり驚かなかったのを覚えている。
2週間前のやり取りのはずなのに、もう遠いことに思えて1人で苦笑した。
誰にも自分が見えていない廊下を歩いていく。
病院はクリスマスの装飾で溢れ、病院服を着た子どもたちが歌を歌っていた。
初めて階段を昇って、少年の病室の前に立った。
流星の夜はあまり見えなかったけれど、病室のネームプレートにはしっかり少年の名前が記されていた。
ひとつ息を吐いて、ドアを開けて中に入ると、少年は窓の前に立って外を見ていた。
「……ある芸術家がね」
少年は私に背を向けたまま、静かに言葉を零した。
「自分の見てないところで友人に頼んで、箱の中に何かを入れてもらうんだ。そして、それを自分の作品として発表した。振ると音がする箱」
窓の外では雪が降っている。
締め切られた窓はあの夜とは違って少年の髪を揺らすことはない。
「世界でたった一人しか知らないかもしれないもの。そして他の誰が知ってもいいけれど、本人が中身を知った時にその作品はその価値を失う。本人が知らないことが作品で足りえるための条件っておもしろいよね」
そこまで言って、少年は少し黙った。
私は何も言わなかった。
遠くで、子どもたちの歌が聞こえた気がした。
気のせいかもしれないけれど、聞こえた気がした。
「……なんできたの?」
やがて振り返った少年は、穏やかな瞳に私を映した。
「クビのことなら心配しなくてもいいんじゃない? 事情を話せば、同情してもらえると思うよ」
にこりと口元だけで微笑んだ少年に、少しだけ喉が震えた。
「まだ、聞いてないから」
「もう知ってるよね? 俺は……」
「――――雪哉くん」
遮るように名前を呼んだ。
少年は僅かに目を見開いて、それから何かを懐かしむように表情を崩した。
「…………呼ばれないように、気をつけてたのに、な」
「私、雪哉くんのほしいもの、まだ聞いてない」
苦笑した顔はひどく大人びて、そして何かに疲れ切っていた。
「……ずいぶん残酷、だ」
「そうだよ、私はいますごく残酷かもしれない」
震えそうになる声を堪えて、一歩、少年に近づく。
「欲しいものって死ぬとしても?」
ぽつりと少年が私に問う。
私は答えずに一歩ずつ踏み出す。
「それとも生きたいって言えば叶えてくれた?」
近づく度に、少年の顔から少しずつ表情が剥がれ落ちていった。
「人の心を変えること、失う命は救えない」
目の前に立った私を揺れない瞳が見据える。
「それがお伽噺の定石だよね?」
それでも私は、君の未来になりたかった。
死んだって関係ない。
君の今の望みが知りたい。
見つめ返す私の瞳から、少年は目を逸らさなかった。
やがて、窓の外から月明かりが暗い病室に差し込んだ。
夜の病室で君の顔がくしゃりと歪む。
優しく弱々しい光が君の輪郭をそっとなぞる。
「……ほんとにあんた馬鹿」
そっと伸ばされた手が、迷いを孕んだまま頬に触れた。
その手は微かに、そして確かに震えていた。
「そうとう泣いたろ、なのに懲りないの?」
その言葉に、涙が一粒零れて頬を伝った。
でも、それを拭わずに告げる。
「うん、だって私、サンタだもの」
「まだ見習いだろ」
「うん、でもなるよ、サンタになる」
まるで誓いのように、私も少年の手に自分の手を添えた。
月明かりの中、私と少年は向かい合って、手を伸ばして、そしてお互いにくしゃりと笑った。
「そっか、泣き虫なサンタ、まぁ悪くないんじゃない」
触れた少年の手はとても温かかった。
月が病室を見守る中、ベッドに腰かけて2人でいろんな話をした。
時折、心地いい沈黙が落ちて、それでもまたどちらかがぽつりぽつりと話し出す。
それは本当に他愛のない話。
好きな食べ物や、子どもの頃の話。
それから、私は誰にも話したことのない秘密を話した。
先輩に貰った一言が道をくれたこと、そして少年がその道を照らしてくれたこと。
そして自分が捨て子だったこと。
少年は、何も言わずに全て聞いてくれた。
気づけば、2人でもたれかかりながら寝てしまっていた。
目をこする私に、少年が窓の外の朝日を指さす。
「いいの、もうとっくに17時過ぎたよ」
「いい。残業代請求するから」
「出来るの」
「…………先輩にする」
「あっそ」
穏やかな笑みが返って、それから少年は柔らかく目を細めた。
「ねぇ、あの猫、エルが名前つけていいよ」
少なからず驚いて、隣を見れば少年は朝日を見上げていた。
繰り返し読まれた本の少女。
『本当に誰も悲しませたくないなら、その主人公一人になる前に嫌な奴を装って皆を遠ざけるべきだった』
誰も訪れない病室。
出向いては嬉しそうに笑ってじゃれていた猫。
『懐いたら困る』
『こいつは最期までいなくならないよ』
言いかけた言葉を遮るように、少年が笑う。
「大丈夫だよ。俺、センスないからエルに頼みたいだけ。これは本当」
それでも、私の表情が晴れなかったのがわかったようで、なら、会いに行こう、と優しく手を引かれた。
「どうして……」
無意識に零れた声に、自覚を強いられて泣きたくなった。
猫がいなかった。
どこを探してもいなかった。
最近は雪の日続きで寒く、病院施設内に併設された警備員小屋で丸くなっているのが常だった。
けれど、覗いた警備員小屋には寝息を立てる警備員の姿しかなかった。
周囲をいくら探してもどこにもあの、毛玉のような姿は見えない。
ぐっと服の袖口を掴まれて、振り返れば少年が真っ青な顔をしていた。
「大丈夫!?」
「探して……っ」
朝の空気を切り裂いたのは悲鳴のような声だった。
私の服を掴んだまま、少年がずるずるとその場にしゃがみこむ。
「お願い、エル。あの猫、俺と似てるんだ。1人でなんか逝かせないで……!」
「でも!」
今日はイブ。今日の午後に彼は手術を受ける。
傍にいたかった。せめて今日1日だけはずっと一人で耐えてきた彼の傍にいたかった。
「俺は、大丈夫だから」
先回りするような言葉に、声が出ない。
少年は立ち上がると、私の手を両手で掴んで、凛とした顔で笑った。
「言ったよね? 俺、あんたにはいつだって猫かぶらないから」
走った。
走って、猫のいそうな場所をひたすらに探した。
それでも、彼女はどこにもいなくて、零れそうになる涙を何度も拭った。
脚が痛くなっても、息が苦しくても、探し続けた。
このまま、見つからないうちに帰ったら、少年までいなくなってしまいそうだった。
そこに辿り着いたのは夕暮れの頃だった。
動物病院という看板に、嫌な予感がして駆け込んだ。
庭に面した診察室の窓のむこうに、見慣れた柔らかな毛並みがあった。
「猫……!」
そこにいる人は誰も振り返らない。
それでも、猫だけはこちらを向いた。
涙が、零れた。
猫の傍には、小さな小さな子猫が丸くなっていた。
少年を置いて逝ってしまうつもりではなかったのだと。
新しい命を守ろうとしただけなのだと。
温かなその小さな命に、涙が溢れて止まらなくなって、私は声を上げて泣いた。
日が暮れた中を駆けていく。
息が切れても、足が悲鳴を上げても、はやる心が止まることを許さなかった。
駆け込んだ病院で、誰も私を見ない。
私も他の誰の声も耳に入らない。
階段を昇り、角を折れて、手術室が見えて、そこからちょうど出てくる担架が見えて――――、
泣きながら医師に何度も何度も頭を下げてお礼を言う少年の両親がそこにはいた。
綺麗な朝日が病室を照らす。
ベッドに腰かけて、窓の外を見ていれば、雪哉くんはゆるゆると目覚めたようだった。
包帯で何重にも巻かれた自分の頭を、緩慢に触る。
「気分はどう?」
「最低通し越して最高……」
「よかった」
「……よかった、って淡白過ぎない?」
いつもより幾分元気がないものの、いつも通りの調子に笑みが零れた。
「猫ね、赤ちゃん生んでたの。警備員さんが動物病院に連れて行ってくれたみたい」
「そうだったのか」
「だから、様子、見に行こうね。正式に警備員室で飼うことになったみたいだから」
「うん」
振り返れば、ベッドに体を横たえた雪哉くんはひどく安堵した顔で目を瞑っていた。
それが微笑ましくて、あたたかな気持ちで眺めていれば、脇に置いてあったカレンダーが目に入った。
「ああっ!!」
私の大声に驚いて、雪哉くんがぎょっとしたように目を開ける。
「今日、クリスマス!?」
弾かれたように立ち上がった私は、混乱して部屋を出ようとして、違うとまたベッドの傍まで戻ってきたものの、それも違うと部屋の中をぐるぐると落ち着きなく歩き回ってしまう。
「どどどどどうしよ!! ゆ、雪哉くん、何欲しい!?」
いまはクリスマスの朝、窓の外はとっくに日が昇っている。
完全なパニック状態の私は雪哉くんの声は聞こえなくなっていて、
「もう、貰いすぎるくらい貰ってんのに、まだくれんの?」
そうぽつりと零された声もまったく聞こえていなくて。
「ああああああああ、どどどどうしよううううう!」
慌てる私を雪哉くんが手招く。
「え、あ、ほしいもの教えてくれるの!?」
混乱が覚めないままに寝たままの雪哉くんの声を聞くために、口元に耳を寄せる
「……少しは落ち着いたら?」
呆れたような、やや掠れた声が耳朶に触れたと思ったら、ぐいっと引っ張られて微かにバランスを崩す。
「え……?」
頬に一瞬触れた熱。慌てて、手をつけばすぐ真下に雪哉くんの顔があった。
吐息が触れ合うほどのその距離に、息が止まる。
耳から零れ落ちた髪の一房が、さらりと雪哉くんの耳元に落ちていく。
「今ので、いいや」
見上げてくる瞳が柔らかく、そして悪戯っぽく細められる。
「俺の欲しいもの、それでチャラ」
一瞬だけだったはずの頬の熱はたちまち膨れ上がって、顔が熱くなる。
きょとんとした瞳、それから、触れたのと反対側の頬に手が伸ばされた。
「なんだ、エル。ちゃんとそう云う顔もできるんだね」
嬉しそうに屈託のなく微笑まれて、私はくらくらと自分の中で巡る熱に眩暈がした。
と、その時、閉ざされたままだった病室のドアが開いた。
慌てて飛び退く私と、上体を起こした雪哉くんの視線の先に立っていたのは、
「雪哉……」
私が早朝の病室で見た、あの女性だった。
彼女の胸の前で握りしめた指先が震える。一歩ずつベッドに近づく彼女に、雪哉くんも震えていた。
「かあさ、……!」
雪哉くんが目を見開く。
それは名前を呼び終わる前に、ふわりと雪哉くんは彼女に抱きしめられたから。
「……え、母さん……?」
呆けたように、されるがままになっている彼を彼女は何も言わずにもっと強く抱きしめた。
「ちょっと、どうしたの……? ねぇ、痛いってば、」
けれど、彼女はより強く雪哉くんを掻き抱いた。背中に回された手が柔らかな髪を愛おしげに何度も撫でる。
その指先は、震えていた。
「…………ゆきや」
零された名前に、一瞬だけ雪哉くんが目を見開いて、何度も呼ばれる自分の名前を聞いて、くしゃりと顔を歪めた。
ひとつ零れ落ちた涙は、次々に溢れていく。
彷徨っていた彼の腕が、縋りつくように彼女を抱きしめ返したのを見て、私は一人でそっと病室を出た。
病室を出たとき、必死に噛み殺したような嗚咽が聞こえた。
「これ」
「え?」
数日後、病室に顔を出せば、雪哉くんに本を差し出された。
「これ、あげる」
「これっていつも、雪哉くんが読んでた本、だよね?」
「そう」
「もらっていいの?」
受けてとって首を傾げてみせれば、雪哉くんはそっと頷いた。
「俺には、もう必要ないから」
柔らかく微笑んだ顔につられて、私はベッド脇のテーブルを見る。
そこには、花瓶に生けられた可愛らしい花あった。
柔らかくて、優しい花の香りが微かに鼻腔をくすぐる。
私はそっとその本を開く。
それはある少女のお話。
大切な人たちを傷つけたくなくて、1人になろうとした子どものお話。
淋しくて、悲しいお話。
「少し、遅れたけどこれがクリスマスプレゼントってことでどう?」
雪哉くんが悪戯っぽく笑う。
私は最期のページをめくると、雪哉くんに目を戻す。
何も云わずに見つめる私に、雪哉くんが目を瞬いた。
「エル?」
「これ、やっぱり雪哉くんが持っているべきだよ」
「え?」
きょとんとした彼に私はひとつ笑みを零して、その本に最期の一行を書き加えて彼に渡す。
訝しげに本を覗き込んだ彼は、驚いたように私を見て、それから。
――――それから、まるで雪解けの木漏れ日のように泣きそうに微笑んだ。
fin
後日譚:サンタ先輩に会った雪哉少年。
「俺がエルの上司だ、エルが世話になったな」
「……全然、サンタじゃないじゃないか(小太り柔和爺さんかと思ったのに、なんだよこのイケメン、話違う)」
「小さく何ぶつぶつ言ってんだよ、聞こえねぇ」
「あなたが先輩ですか、なるほど。でもあなたはあいつに微塵も興味ないんでしょ」
「勘違いすんな。言っとくが、友人として臨時にやっただけだ。それにない、とはいってない、可愛い後輩であるだけだ、いまは一応な」
「……ソウデスカ(エル、話違う! 何が先輩はいつでも、つれないブレない自分だけ大好き、だよ!)」
「(まぁ、エルのこと今更、妹分以外としては見れねぇけど。なんかこのガキむかつくから、これでいいだろ)」
後日譚:エルと雪哉のその後。
「これからも会いに来なよ」
「……え?」
「あんた、俺に贈られたんでしょ? ……って、は? なに、サンタって一年中、仕事あるの!?」
「え、うん、事前準備とかいろいろあるし、忙しいよ?」
「……やられた。あの先輩、何がせいぜい頑張れだよ、話が違う」
「どうしたの、ぶつぶつ言って? それに仕事、終わったから私、帰らないと」
「え」
「え?」
「エルには猫の世話を見る責任がある!」
「…………って、えぇ!! なにそれ!?」
「名前つけたんだから当たり前! いない間は俺が代理するから、時々は様子を見に来いっ!」
「必死だな、少年(ドアに背を預けて黙って聞いていた先輩がぽつり)」
「うっるさい!」
「(あ、君ってそんな風に叫んだりできるんだ……なんか可愛い)」
ちなみに猫の名前はジョセフィーヌになりました。優雅。