八杯目 数多の救いを振り撒けど
六階分のフロアを抜け、屋上へと躍り出た。
小さい裂け目の入ったコンクリートに着地する。空は先程見たときよりも黒ずんでおり、ぱらぱらと小雨が降り注いでいた。冷えた空気と相まって、自分の体温が奪われていくのを感じる。
彼女は再び地を蹴り、かなり大きめの貯水タンクへと飛び乗った。
直後、大穴から黒い影が飛び出してくる。
黒い影――もとい害獣は、身を放り出した直後、尾を灰色に発光させながら空中で前転する。
少女がその場から飛び下りる。ヒュンッという音が聞こえた後に、さっきまで乗っていた貯水タンクが真っ二つに切り裂かれた。
そこから流れ出た水は、雨で濡れていた屋上を、その上から更にコーティングしていく。
獣は前転した流れのまま、勢いを殺さず突っ込んでくる。
それを見た少女は踵を返し、端にある柵に手をかけた。
え? 何、飛び下りる気? ここ実質七階――。
抗議する暇も与えられず、少女は臆することもなく、場違いなほど綺麗に整備されている柵を飛び越えた。
突如として襲いかかる浮遊感。下から上がってくる空気に顔を殴られ目も開けていられない。辛うじて開いた時には、すぐそこまで固そうなコンクリの板が迫っていた。
ちょ、死ぬ――
衝撃に身を備え、ぎゅっと固く目を瞑る。
だがいつまでたっても、想定していた衝撃は襲って来なかった。
恐る恐る目を開けると、そこには左右交互に見える彼女の脚と、流れていく地面が映った。
いやいや、あの高さから着地したってのか!? しかも俺にまで負担が掛からないほど軽く……。
って、ああ、猫。
彼女のネコ耳を思い出し納得。そういや、猫って高いところから落ちても上手く着地出来るんだっけ。ん? でも流石にこの高さだと……。まあいいや、気にしたら負けだ。
どうやら会館の裏に出たらしい。何処か遠くからパトカーのサイレンが聞こえる。付近の住人は避難したようで、鳴り響く甲高い音を除けば、しんと静まりかえっていた。
少女は次に迫る柵をまたしても飛び越え、階下の駐車場に降り立った。体操選手ばりの着地を魅せると、すぐさまバックステップ。
直後、先程降り立った地点が深く抉られる。その三メートル先に、滑る様に獣が着地した。
そして一瞬の隙を突き、少女は素早く柱の陰に飛び込んだ。
そこで抱えていた俺を降ろし、
「絶対にここから動かないで!」
そう言って再び彼女は獣の前に躍り出た。
凄い。
素直にそう思った。
敵を誘き寄せ、保護対象をある程度安全な場所に避難させ、そして周りを気にせず自身の力が存分に発揮できる場所に誘導する。あの短い時間で全てを計算し、いかに被害が少なくなるかを考えたのだ。
この娘……もしかしてかなりの修羅場を潜り抜けているのではないだろうか。こんなお幼い少女なのに。
そっと、柱から顔を出す。動くな、とは言われたけど、流石に陰でビクビク縮こまっている訳にもいくまい。何より、俺はこの人と獣の対決を、最後まで見届けたいと思った。
対峙する一人と一匹は、お互いじっと睨み合っている。
小動物ならこれだけで命を落としそうな、重く殺気だった空気に辺りが支配されていく。
最初に動いたのは害獣だった。鋭い犬歯をギラつかせ、弾丸の如き速度で突っ込んでくる。
少女は一歩右にずれ、急な進路変更が出来ず走り抜けようとする獣に、避けた際に踏み込んだ右足を軸に回転し、回し蹴りを決めた。
獣は突っ込んできた時とは逆の方向に飛ばされる。
彼女はそのままもう一回転し、広がったワンピースから覗く軸脚の太ももに装着されたホルスターから、拳銃を引き抜いて獣にぶっ放した。
だが、ジャイロ回転して飛来した銃弾を、獣は身体を捻り回避する。
空中で後転し、尾を発光させる。
獣が受け身をとった直後、まるで重さを感じさせない速度で少女が機銃を振り上げた。
バシュッと、雨を巻き込み見えない刃が霧散する。少し強くなってきた雨粒に濡れる彼女の頬に、細く赤い線が刻まれる。
拳銃を持つ手で垂れる血を拭い、黒い機銃を作動させた。
獣に向け、発砲。地面に打ち付ける雨音が五月蝿いほど響くにも関わらず、放物線を描いて落ちる空薬莢の乾いた音は、俺の耳に薄れることなくはっきり届いた。
銃口から射出された細槍は、黒き獣を貫かんと、一直線に襲いかかる。
しかし獣は、待ってましたとばかりに斜め前方に突進した。銃弾すれすれを走り、少女との距離を詰めようとする。
少女は照準を修正するが、その度に獣は彼女に向かうレールを乗り換え、ミットに吸い込まれるカーブボールの様に弧を描く。
丁度少女が四十五度回った所で、獣は全身の体毛を逆立たせ、背を丸め球状となった。
鉄針に被われた巨大な球体と化した獣は、彼女の小さい身体に向かって転がる。
銃弾は直撃するも全て弾かれてしまい、まるでダメージを与えられない。
少女は銃撃を止め、跳躍し殺傷兵器の塊をやり過ごす。
急には止まれず、少女の背後にあった軽自動車に突き刺さり身動きが取れなくなった獣を、彼女は自由落下に身を任せ機銃で叩きつけた。
火花が散り、獣の毛針が数本、粉々に砕け散る。
だが、その時見せた僅かな隙を、獣は見逃しはしなかった。
叩きつけられたことで体毛が車から外れ、即座に球形態を解除し後ろ足で少女を跳ね上げる。害獣は振り向きざまに、少女に向かって尻尾をなぎはらった。
逆立てた毛が少女の腹に深々と呑み込まれる。そのまま振り抜き、彼女は鮮血を撒きながら駐車中のワゴン車に突っ込んだ。車体にめり込み、幼さの残る顔に苦悶の表情を浮かべる。
俺は、咄嗟に飛び出していた。
「来ちゃだめ!!」
少女の叫びに一瞬脚がすくむ。その直後、彼女の周りに異変が生じた。少女の周りをグルグルと、木の葉が円を描いて回っているのだ。しだいに砂や雨水も巻き上げられ、少女を囲む低い柵の様になっていた。
いち早く気づいた少女が、奇怪な現象の渦を抜け出した。
そして、その直後。
「なっ……!?」
円の内側のアスファルトが、ワゴン車もろとも四メートルほど上空に向かって爆散した。巻き上げられたワゴン車は窓ガラスが飛散し、四方八方から無理矢理引っ張られたような歪なフォルムチェンジが行われている。
なんだあれ!? あいつ、あんな能力まで隠し持っていたのか?
て、そんなことより。
「ちょ、大丈夫か!?」
腹を押さえてうずくまる少女に駆け寄る。腹部からは絶えず血が流れ落ち、無地のワンピースを紅く染め上げていた。
「き、来ちゃだめって言ったのに……なんで出てくるのよ、バカッ!」
「で、でもお前その傷……」
「……問題ない。このくらいなら、十分もすれば回復する」
「……は?」
「それより、追撃がくる。走って」
俺が何か言う前に、彼女は俺の手を引いて走り出した。
今のこの娘は"冬葉"、かな。
なんてこと考えていたのも束の間、周りに出現した先程より大きい渦を見つけ、そんな余裕をこいている暇はなくなった。
必死に走るが、いつまで経っても抜け出せない。まるで一秒一秒が何十倍にも引き延ばされているような、走っても走っても渦の端にたどり着けず焦りだけが心に降り積もる。
呼吸を荒く繰り返し、次第に重くなっていく足を持ち上げる。酸素不足で足が止まらないよう、肺いっぱいに空気を吸い込んで――
なん、だ……これ……。息が……息が吐き出せない……?
それどころか、必要以上の空気が肺に流れ込んでくる。吐き出そうと口を開けようものなら、自分の意思に関係なく、見えない力によって喉の奥にねじ込まれる。とはいえ閉じたところで、鼻の穴から流し込まれるだけなのでなすすべもない。
苦しい……。いや、それよりも……胸のあたりが、張り裂けるように痛い……。
膝が笑い、思うように脚が動かない。少しでも気を抜いたら膝から崩れ落ちそうだ。
その時、見かねた少女が身体のそばに俺を引き寄せ、またもや軽々と担ぎ上げた。
彼女は俺の身体をしっかりと固定したのを確認すると、地面すれすれを飛行する鳥のように円の外側に向けて跳ね上がった。
円を抜け出し着地するのとほぼ同時、渦の中は不気味な音を立てて爆発した。
円の外に出た途端、肺の奥の奥まで詰め込まれた空気が、一気に外へ流れ出す。
「がハッ、ゴホっごほっ! はぁ……はぁ……」
爆発……? やっぱり文化会館を襲ったのって……。
「結構……しんどい……」
「よ、夜風! あいつなんか再生スピード速すぎない!?」
「…………ホワイト、慌てちゃだめ、落ち着いて。私より年上なのに、私より落ち着きがない」
「ひ、一言多い。冬葉は落ち着きすぎなのよ」
「…………そんなことない。心臓バクバク」
「まったく、万年無表情のくせによく言うわね」
一人漫才を繰り広げる少女を尻目に、俺は少し頭を整理して考察してみることにした。
ヤツは真空の刃の他に、指定した範囲の地面を爆破する能力も持っていた。しかも、あのワゴン車を見る限り、その中に存在する物体もただではすまなそうだった。
ここまでの二度の攻撃で、仮説ではあるが一つ分かったことがあった。
あの円が広ければ広いほど、多分爆発までの時間は長くなるのだろう。何故爆発するのかは解らないが、それだけでも解れば僅かに希望が見える。
しかし……爆発する原理は一体なんだ? 考えられる可能性としたら、多分俺の身に起きた現象と何か関係が……。
「…………ここで待ってて」
「え?」
「今度こそ動いちゃだめだからね!」
考え事に没頭している内に、いつの間にか最初に降ろされた柱の陰に降ろされ、二人は言うだけ言ってすぐに飛び出していってしまった。
……なんだろう、このやるせない気持ちは。
いや、まあ、一緒にいたところで足手まといになるのは百も承知なんだけども……。
そういえば、彼女のお腹の傷は大丈夫なんだろうか?
様子を伺うため、柱から顔を出す。彼女は獣と交戦中のようで、右へ左へ激しく走り回っていた。……大丈夫なようだ。
俺は大きくため息を吐いてその場に座り込んだ。非現実的なことが立て続けに起きたせいか、取り乱すどころか逆に落ち着いてしまっていた。
なんか、いろいろマヒしてるな……。
変に落ち着いてしまったことで気づいたこともあった。文化会館崩落から結構時間が経ったはずなんだが、未だに警察が駆けつける気配はない。パトカーのサイレンは相変わらず遠くから聞こえるが、近づいてはきていない。鳴り止まぬ轟音のせいで突入に躊躇しているのだろうか。
……いや、これは多分、見捨てられたと考える方が現実的だな。得体の知れない爆発現象。これ以上被害を拡大させないためにも、周辺の避難誘導に全力を尽くしているのか。まあ、妥当だな。
だとすると、本当にこの少女は一体何故ここに……。
「しまった……! 危ない!」
「へ? うおあ!?」
目の前に現れた、黒い物体。濁った赤黒い瞳を細め滑り込んでくる悪魔。
一瞬で懐に潜り込んできた獣は、俺の胴に喰らいついた。
「がッ……!?」
その時頭によぎったのは、上下の臼歯に肉が喰いちぎられ、骨を噛み砕かれ、上半身と下半身が永遠に離れ離れになる映像。断面から噴水が噴き上げ、ゴミのように地べたに転がり、雨とは別の水たまりを広げていく……。
が、俺の未来予測の精度はそこまで正確ではなかった。
獣は俺をくわえたまま、少女に身体を向け距離をとる。
少女は機銃を構え……はっとしてゆっくり下げる。
銃口と害獣を結ぶライン上には、俺がいた。
――――!? コイツ……俺を盾にするつもりか!?
こ、こんなときはどうすればいい? 『俺に構わず撃て』? いやいやいやいや無茶無理無謀!! だ、だけど、だとしたらどうやってコイツを倒す? 今この場の戦力は冬葉&ホワイトのみ。俺だっていつ噛みちぎられるか分からないし……。
ここは……男を魅せるしかない、のか……。
こんな俺の葛藤など関係なく、別世界の出来事かと思えるほど容赦ない攻防が続く。銃を向けられない彼女に、次々と襲いかかる真空刃。純白の羽衣は切り刻まれ、粉雪色の柔肌が露出する。そこに上書きされる、朱の直線。受け流している内に、次第に壁に追い込まれていく。
誰から見ても明らかな劣勢。
……ああもうッ!!
「構わないから、俺ごと撃てちくしょぉぉ――――――――!!」
一瞬、彼女の動きが止まる。そして.……少し口元がつり上がった。
「なるほど……そういうことね。わかったわ」
あ、あれ!? やけにあっさり!?
吹っ切れたのかなんなのか、迷いもなにも見せなかった。俺が撃てとは言ったけども!
しかし、彼女は撃つ素振りを見せず、壁にもたれかかるようにしゃがみ込んだ。
少女の奇行に興味がないのか、獣はお構い無しに『渦』を展開する。やはり彼女を囲むように、半円状に空気の柵が走る。
だが彼女は慌てることもなく、逃げようともせず、目を瞑り息を吐く。
まさか……気づいてないのか?
「ば、バカッ、早く逃げろ!」
少女は動かない。ここからなら十分俺の声は届くはず、何故逃げようとしないんだ?
すると少女は突然、自分の鼻をつまんだ。
そしてピッチリと唇を結んでいる。おいおい、あんなんじゃ呼吸が出来ないじゃないか。
…………呼吸?
頭にチクリと刺さった、微かな疑問。その疑問に答えるように、おもむろに少女は立ち上がる。
鼻をつまんだまま、飛び上がって背後の壁を踏み締めた。
「あんたを信じるわ、夜風!!」
もう、いったい何度目になるか分からない爆音。地面と壁が爆発し、そして――少女が消えた。
直後、獣が苦しそうな呻き声を上げ、その拍子で俺の身体は水たまりに放り出された。
水の中に突っ込む前に見たのは、視界の端を通り抜けていく、拳銃を構えた少女。
状況を確認しようと顔を上げた時には既に、少女は水飛沫を撒いて数十メートル先をスライディングしていた。
爆発を……利用した……?
胴体を撃ち抜かれた獣は咳き込み、たたらを踏む。血反吐を吐き、濁りに濁った瞳で這いつくばった俺を見下ろした。
…………? 様子が……なにか……。
威嚇するような表情は消え、どこか不安げな、顔色を伺うように俺と少女を交互に見ている。
「あ……」
獣の口から漏れた、消え入りそうな細い声。
獣の口から漏れた、やけに生々しい声。
獣の口から漏れたとは思えない、人間の、幼い男の子みたいな声。
「……え、今……」
ふらっと害獣に近づこうとする俺を遮るように、獣の背後に現れた少女が首根っこを掴み、黒い物体を固い地面に叩き伏せた。
そして、機銃の銃口を頭に当てる。
「はぁ……はぁ……つ、捕まえたっ」
息も切れ切れで、どれだけ必死だったのかが伝わってくる。
ようやく、終わった……?
後はあのガトリングを動かせば、この悲劇にピリオドがうたれる。完全にヤツは終わり。チェックメイトだ。
どっと疲れが押し寄せてくる。安堵のためか涙が込み上げてきた。目じりに浮かんだ水滴を拭い、顔に打ちつける雨も忘れ、ゆっくりと上を向いて深呼吸。
やっと……やっと……終わった……。
「…………め……なさ………………」
心臓が締め付けられた。
早鐘のように、破裂してしまうのではないかと思うほど、うるさいくらい、頭にガンガン響く、心臓の音。
「……ご……め…………な……さい…………ごめ……ん…………さ……い…………ごめ……ん……なさい……ごめん…………な……さ……い……………………」
ぼろぼろ、ぼろぼろ。
獣の、濁りきっていたはずの瞳からこぼれ落ちる、透明な雫。
俺は今、はっきりと聞いた。
俺でも、冬葉でも、ホワイトでもない、少年の声を。
いるはずの……いるわけのない……少年の声を。
少女は、無表情だった。でも今じゃ、冬葉なのかホワイトなのか分からない。不安になるくらい、冷めきった顔。
少女の口が静かに動く。そして、ゆっくりと銃身が回り始めた。
数秒後、連続的な炸裂音。
短く響いた銃声が止んだ頃には、もうあの呪文は聞こえなくなっていた。
俺には、あの声がなんだったのかわからない。
少女があの時なんて言ったのか、俺には聞こえていない。
でも、もし俺の視界から入った情報に誤りがなかったら、なかったとしたら、
あの時彼女は、『ごめんなさい』と言っていたような気がした。