七杯目 鎖に繋がれた救世主は
某掲示板のまとめサイトで、ある気になる記事を見つけたことがあった。
《人間の狂獣病発症者について》
ホラ話だ、都市伝説だとスレッドを立てた主は叩かれていたが、やけに具体的に書かれていたため印象に残ったことを覚えている。
要約するとこうだ。
人外哺乳類寄生ウイルスは人間にも感染し、発症パターンは二種類ある。
一つが、通常の害獣と同じく異形と化し、人一人など簡単に消し飛ばせるほどの破壊力を持つ化け物になるというもの。これはどの特徴を抜き出しても害獣と変わらない。この時点で信憑性は限りなく零に近かった。害獣だって精密な検査をしないと元がどんな動物かなんて解らなかったため、確認のしようがないからだ。それ以前に、化け物がうろうろしているこの時代、九割以上の人間が害獣が出現しない無感染地域で生活している。もし人間が感染するというのなら、確実に無感染地域内に害獣が出現するはずだ。無論、その頃はそんな情報聞いたことないし、情報がどうこう以前にパニックは避けられないだろう。
問題なのは二つ目だ。
もう一つの症状は、そのスレ主曰く、見た目は普通の人間と殆ど変わらないらしい。だが身体能力は著しく上昇し、それは害獣にも引けは取らないとのこと。自我も保っており、一般人に紛れて生活をしているという。だがただの人間と最も異なる点、目に見えて分かる変化がある。それは……獣耳と尻尾が生えていること。
このことが書かれた直後、掲示板は非難の嵐だった。作り話だと思ったのだろう。俺だってタチの悪い妄想としか思えなかった。仮に獣耳と尻尾が本当に生えているとして、隠し通して生活するなんて難しいなんてもんじゃない。作り話だと断定するには良い判断材料だった。
彼女を見るまでは。
佇む少女を見上げ、開いた口が塞がらなかった。
彼女は、その特徴に驚くほど当てはまっているのだ。常人では考えられない身体能力、そして猫耳と尻尾。一瞬作り物とも考えたが、それはなさそうだ。尻尾はゆっくりと振られ、耳はピクピクと動いている。紛れもない生物だ。髪の色については解らないが、顔のつくりから察するに恐らく日本人だろう。
この少女は狂獣病発症者なのだろうか。あの掲示板の情報が確かなら、感染はしていても害獣とは別物ということになる。
新たな疑問が生まれてしまったが、俺はもう一つ気になる所があった。
彼女が扱っていたガトリングガン。どのように持っているのか気になっていたが、驚愕の事実が判明した。
彼女の色とは不釣り合いな黒い機銃は、細い腕と同化していた。二の腕辺りを境に、柔らかそうな肌から硬い金属に変わっている。その境界付近からは、血管が浮き出ていて見ていて痛々しかった。
少女が俺に振り返る。整った顔立ちだ。将来美人さんになるであろうが、無表情のため若干取っつきにくく感じた。
「ジャック」
こちらを見据え、静かにそう言い放つ。あどけなさの残る声だったが、どこか大人びた雰囲気を醸し出していた。
……でも"ジャック"ってなんだ?
それだけ言うと、彼女は地に沈んでいる獣に目を向け、身体の一部と化してる機銃を構え直した。その目も銃口もそして意識も、寸分の狂いもなく害獣に向けられている。周りなど見えておらず、ただただ獣の息の根を止めることだけに集中している。
化け物は動かない。先の一撃は、奴の最後の足掻きだったのだろうか。
「良かった、間に合った!」
ぽんずが走ってきた方向から、またしても声が響いた。振り返るのと同時に、誰かが脇に滑り込んでくる。
「天谷さん!? なんでこんな所にいるんですか!?」
俺の質問には答えず、つなぎ姿の男性は息を切らして俺の横にしゃがむ。そして俺の腕を掴み、近くの瓦礫の陰に連れて行かれてしまった。
「なんで来たんですか! ぽんずまで連れてきて……」
「幸雪くんが勝手に一人で行っちゃうからでしょ!!」
普段の彼からは考えられない、危機迫った表情にたじろいでしまう。彼がここまで声を荒げるのは今まで見たことがなかった。
「で、でも、天谷さんも来たところで何も……」
「幸雪くん、ちょっとだけ黙ってて! とにかくすぐにでも君をこの場から離れさせないと。君が今の今まで生きてられたのは奇跡と言ってもいいんだよ? ここは彼女に任せて、すぐにこの建物から出るんだ。いいね?」
俺の肩に手を置き、諭すように語りかけてくる。
ちょっと待って、天谷さんの口振り、どうもおかしくないか? まるでここまでの一連の出来事を知っているような、そんな言い方だった。しかもあのガトリング少女を見ても気にしてる素振りすら見せない。むしろ彼は『任せよう』と言っていた。
「ほら、ぐずぐずしないで! 奴が床に沈んでいる間に、さあ!」
俺の腕を引っ張り、ここから連れだそうとする。
「ひとまず、ハウスに逃げ込もう。現時点ではそこが一番安全……っ!?」
立ち上がったと思ったら、彼は言葉を詰まらせてすぐに立ち止まってしまった。彼の視線を目で追うと、その先には紅い塗料で彩られた真っ白い人形が、瓦礫の下で横たわっていた。
「桜來ちゃん……!?」
目を見開き、声を震わせて口元を押さえる。言葉が出ない、といったように、天谷さんは無機物となった少女を見つめていた。
そんな彼の手を、乱暴に振り払う。
「幸雪くん……?」
「天谷さん、しっかりと見ましたよね。俺にはもう……何もないんです」
彼に向かず、じっと桜來見ている姿に何かを悟ったのか、天谷さんは慌てて俺に掴みかかる。
「馬鹿なこと考えるのはよすんだ! 君にはまだお兄さんがいるじゃないか!! 今ここで君がいなくなったら、お兄さんは君と桜來ちゃんを失った悲しみを背負いながら生きていくことになるんだぞ!」
「天谷さん。もう無理なんです。姉にも母親にもなってくれた桜來を失って、俺はこの先……どう生きていけって言うんですか」
「僕は桜來ちゃんが君のことを本当に大切に思っていたのを知っている! 彼女が僕の店に買い物に来たときも、ほとんど君とお兄さんの話しかしないほどにだ! そんな彼女が……君を大事にしていた桜來ちゃんが、君の死を望むはずがあるか!!」
「お願いです……、桜來の所に……行かせてっ……!」
「話を聞いてくれ、幸雪くん!!」
「わんっ、わおーん!」
桜來の死という事実が、重く、重く、この身体を潰す。
耐えきれなかった。涙が溢れ、視界が滲む。
天谷さんの説得も、ぽんずの吠える声も聞こえた。聞こえていた。だけどそれに答える気力が……俺には残されていなかった。
何も聞きたくない。何も……何も……。
「くっ……本当は君にはこの場から去って欲しかったんだけど、多分もう余裕が……!」
天谷さんはそう言うと、桜來の元へ駆け寄った。起き上がることのない桜來に合わせて、自らも地面に這いつくばる。その身が広がった血で汚れることなど、まるで気にせず。
彼はそのまま、桜來の口元へとゆっくり耳を近づけた。
そして、
「やっぱりだ……彼女はまだ……」
何を言ってるのか聞き取れなかったが、天谷さんは呟いた後、俺に向かって大声で叫んだ。
「聞いてくれ幸雪くん! 桜來ちゃんはまだ生きている! 微かに息があるんだ!」
天谷さんのその一言に、俺の中に、全ての音が戻ってきた。
「……ほ、本当ですか?」
「うん。僕が応急措置をしておく。だから君は、先にハウスに行って待っててほしい。終わったらすぐに連れて帰るから」
「応急措置……。天谷さん、これが応急措置でどうにかなると思っているんですか? 息があったところで、この状態じゃ手遅れじゃないですか」
舞い込んできた希望が、再び絶望に変わってしまった。これだけ血を流しておいて、応急措置でどうにかなるとは思えない。仮に今すぐ病院に運び込んだとしても、もう助かるのは難しいだろう。
「大丈夫だ、彼女は助かる。僕を信じて、今は逃げてくれ! 頼む!!」
「……もう……もう助かる訳がないだろ!! ただの八百屋が、一体何が出来るってんだ!! 道具も何も無いのに……どうやってやるってんだよぉ!!」
「君はそれでいいのか!? 桜來ちゃんが死んで、本当にそれで!! 死んで欲しくないのなら僕を信じろ!! 早くこの場から去るんだ!!」
怒鳴り散らす俺を、押さえつけるように強い口調で返す天谷さん。そんな怒声の応酬を続ける俺らの頭上を、空気を切る音が通りすぎていった。
咄嗟に音が発生した方向に向く。白ワンピの少女の先で、尻尾を立てた獣がのろのろと起き上がっていた。
「もう起き上がって……!? 仕方がないか……。ホワイト!」
「なによ、珠音!」
束ねられた銃身を回し始めるのと同時に天谷さんに声をかけられ、回転を止め不機嫌そうに返事をする白い少女。どうやら彼女はホワイトと呼ばれているらしかった。外観から考えて納得の呼称である。
というか、知り合いだったのか……?
それも気になることではあるが、彼女の雰囲気の急変っぷりに目を疑った。最初はクールで何処かミステリアスな印象を受けたが、声をかけられた途端、瞳にエネルギーに満ちた光を宿し、冷たい顔面に表情が生まれた。話し方も、活発な少女のそれである。
「悪いが、幸雪くんを連れてここから離脱してくれ。その時、なるべくそっちに奴の注意を引き付けてほしい。僕は桜來ちゃんの処置に集中するから、どうしても僕らじゃ幸雪くんまで守ることが出来ないんだ。頼めるかい?」
「構わないけど、流れ玉がそっちにいかないかなんて保障出来ないよ?」
「大丈夫、ここは比較的瓦礫の陰になっている場所だからね」
「あ、そ。てか、アンタちゃんとグレーテル連れて来たんでしょうね?」
「もちろん。じゃなきゃこんな提案しないよ」
二人の会話に理解が追い付かない。目の前の女の子が俺を連れて逃げるのは分かったけど……。
そんな危険なことを、何故彼女は悩みもせず即答出来たのだろう。何か策でもあるのか?
「それよりも珠音、確認するのはワタシだけじゃないでしょ?」
「うん、判ってる。冬葉ちゃんも、いいかい?」
「…………問題ない」
冬葉って誰だ? そう考えようとしたところで、ホワイトと呼ばれていた少女が返事をした。
快活な表情が、すっと静かに消えた。口角が下がり、輝きに満ちくりくりとしていた瞳は瞼が少し落ちている。口調も、エネルギッシュな少女とは正反対の、そよ風に揺られる葉のように落ち着いた話し方であった。
二重人格……?
これが俺の素直な感想だった。
だってそうだろう? ホワイトと呼ばれた少女と冬葉と呼ばれた少女は、端から見ても完全に別人だったのだから。
一人の身体に、二人分入っているような。
「幸雪くん、桜來ちゃんの血液型は分かるかい?」
天谷さんが突然、意味の分からないことを訊いてきた。こんなときに何を言ってるんだ。ふざけるのも大概にしてほしい。
「どっちなの? 分かるの? 分からないの?」
いつになく真剣な表情で問うので、俺は無意識の内にポロっと言葉を漏らしていた。
「え、AB型です」
「Rhは? プラス? マイナス?」
「え? え、ええと……」
「本人から何も聞かされてないってことは多分プラスだね。ありがとう。二人とも、後は頼んだ!」
それだけ訊くと、天谷さんは桜來に向き直ってしまう。
血液型なんて訊いてどうするつもりなんだろう。まさか輸血する、なんて言わないよな。周りを見てもそれらしき器具も血液パックもない。病院まで取ってくるにしても、往復している間に桜來の命の灯火は風に吹かれるまでもなく消えるだろう。
それに今から血を流し入れたとしても、助かる見込みなんて、もう……。
ガシッ
…………へ?
いつの間にか隣に来ていた冬葉という少女が、俺の腹に腕を回し担ぎ上げた。
右腕だけで、一八〇センチメートルを超える男をである。
「…………行くよ」
「え、ちょまっ!?」
彼女は俺の制止を聞かず、人を担いでいるとは思えない足取りで駆け出した。
「ちょ、離せって! 桜來がっ、ぽんずと天谷さんも!」
「…………珠音がいるから、大丈夫」
変わらず無表情のまま、息も切らさずに走り続ける。
天谷さんがいるからって……一般人じゃどうしようも出来ないだろ、あんな化け物!
「…………それにいざとなったら……」
チラッと少々は後ろを見た。
「……いざとなったら、なんだよ」
俺の質問に答える変わりに、彼女は小さく首を振った。
……仕方がないか。俺が足掻いたところでどうこうなる問題じゃない。どこまで出来るか分からないけど、ここは天谷さんに桜來を任せよう。だけど……希望は持たない。これ以上、傷つきたくない。
急激に彼女は加速した。
常人ではあり得ない速度で駆けていく。真っ白い髪が後ろに流れ、滑らかそうな毛並みの尻尾を激しく揺らしている。顔を上げようとして白髪の毛先が鼻に触れ、むず痒さを覚えるのと同時に独特の良い匂いが鼻腔を支配する。
そのまま彼女はぴょんぴょんと瓦礫を飛び越え、最初に害獣が降り立った山の頂上に駆け上がった。
「…………こちら、『毒りんご』。生存者を二名確認」
突如冬葉と呼ばれた少女が、眼下でプルプルしている獣を見つめながら誰かに話しかけた。
「…………一名……重傷、一名……無傷。対象と交戦中に、天谷珠音と合流。対象は……重傷負ってはいるけど……多分、復活する。……ごめん、復活しそう。そっちに、映像を送る。……現状を確認してほしい。ええと……」
「ああもう! じれったいわね!」
小声でぶつぶつ言っていると、今度はいらいらしながらいきなり大音量で叫んだ。何事かと思ったが、恐らく叫んだのはホワイトと呼ばれた少女の方だろう。眉間にシワを刻み、俺を担いだ方の手で器用に頭を抱えている。
……一人漫才をしているようにしか見えないんだが。
「もしもし夜風!? ん、そうそうワタシよワタシ! うっ……わ、分かったわよ。落ち着くからその爆弾口の中にしまい直してくれる?」
焦ったように落ち着きを取り戻す。
それにしても……二重人格か……。
いくら二重人格といえど、好き勝手に人格をコロコロと入れ替えるなんて可能なのだろうか。いや、この少女たちはいとも簡単にこなしているみたいだが。
しかも表に出ている人格ではなく、裏で見ていた人格の意思によって。
「うん、そう。映像を見てもらって分かる通り、建物内は酷い有り様。対象は重傷を負ってるけど、決定打にはならなかったの。完全に回復するのも時間の問題ね。さっき冬葉が言った通り、生存者二名の内一名は生死をさまよう程の重傷よ。珠音に任せておいたから大丈夫だけど、念のため救護班も回してくれる? ああ、もう一人はワタシが担いでるわ。うん、これから生存者一名を安全な場所に避難させつつ、珠音たちから遠ざけて対象の撃破に当たる。任せて! ワタシたちなら、絶対負けたりしないんだから!」
端から見ると独り言にしか見えないのだが、内容からして誰かに報告しているのだろう。ここにはいない誰かに。確かに、獣耳にはイヤホンらしき機器が付けられているが、マイクは何処にも見当たらない。会話をしている以上何らかの形で音を拾っているのだろうが。
そういえば、映像がどうとか言ってたな。カメラも何処かにあるのだろうが、それらしきものは何処にも……。
……あった。
彼女が着けている、真っ白いチョーカー。ちょっと太めで、革製の高そうな奴だ。その首裏と横とその間に、小さいレンズのようなものがくっついていた。この体勢じゃこれぐらいしか見えないが、この配置から考えると、全部で八つのレンズがチョーカーに埋め込まれていることになる。あれがカメラなのだとすると、あのチョーカーひとつで八方向の映像が映し出されるということか。ある程度の周囲の状況は把握出来るのだろう。
「対象は尻尾から真空の刃を放ってくる。避けられない訳じゃないけど。え、威力? ……直撃したらスプラッターになるのは確実ね。防ぐことは出来たんだけど、流石にあのローブは耐えきれなかったみたいだし……。ねえ夜風、この建物周辺に一般人は? ……ん、りょーかい。そんじゃ、引き続きお願いね。我らがオペレーターさんっ」
そう言うと、彼女は俺に向けて、
「これからあなたをハウスまで送り届けるため、障害となる害獣との戦闘行動に移ります。比較的被害を最小限に留めるのと、あなたの身の安全を護るために連れ回す形になってしまいますが、落ち着いてワタシの指示に従ってください」
横目でチラリと俺を見てくる。俺が無言で頷くと、彼女は銃口を害獣に固定した。
ゆっくりと回り始める銃身。少し遅れて、筒から鉛玉が射出される。
数発だけ打ち出し、直ぐに動きを止める。射出された銃弾は全発獣の胴体をかすめ、真横のコンクリートに痛々しい銃痕を穿つ。
恐らく、意図的に外したのだろう。意図は分からないが、強いて言うなら宣戦布告のようなものだろうか。
獣の注目がこちらに向いた。
「あの獣をこの建物の外に誘きだします。しっかり捕まっていてください!」
何をするつもりだろう? いやでも、彼女の言ってることから推測するに恐らく激しい動きをするに違いない。ならば彼女の指示通りしっかり掴まって……しっかり……。
……どこに掴まれと?
肩に担ぎ上げられている状態で掴まれる場所というと……。えっと、彼女の細いお腹に手を回す……って、それじゃセクハラだ。
仕方なく彼女のワンピースちょびっとつまむ。滑らかな肌触りで少しひんやりとしていた。結構上質な布のようで、さぞ着心地が良さそうだった。
そんなことが頭をよぎるのとほぼ同時に、彼女は天井に空いた大穴へ跳躍した。