六杯目 希望を呑み込み消え去って
「それじゃあ、行ってきます」
「明後日には戻ってくるから、お兄ちゃんと桜來と一緒にちゃんと待ってるんだよ?」
「……待って!」
父さんと、母さんが居た。玄関から出ていこうとする二人の背中を、幼い少年が呼び止める。
いや……これは昔の俺か。
「どうした幸雪?」
「……行っちゃやだ」
「あのねゆきちゃん、私たち大事なお仕事があって、ちょっと遠くまで行かなくちゃいけないの。お兄ちゃんたちも居るし、お家で大人しくしてて、ね?」
「やだ……やだよ……だって、父さんと母さん、危ない所に行くって兄ちゃんが言ってたもん」
「はぁ……またあいつはべらべらと……」
父さんが頭を抱えた。その隣で、母さんが苦笑いを浮かべている。
昔の記憶、だろうか。走馬灯ってこんなにくっきりと思い出せるものなのか。
「ねえ、何で危ない所行くの? 二人のお仕事ってういるすのけんきゅうじゃなかったの?」
「あのな幸雪、確かに父さんたちは危ない所に行く。本来行くはずだった奴が急に行けなくなっちゃってな。正直、父さんも母さんもそこには行きたくない」
「だったらーー」
「でもな、誰かが行かなきゃいけないんだ。その誰かが、俺たちなんだ」
「でも……でも……!」
行かないでと涙を流し、父さんの裾を掴む。ぐずる俺をどう説得しようか困っているようだ。しきりに母さんに目でサインを送っていた。
……そういえば、昔の俺は泣き虫だったな。
彼女は救援要請を受け取り、お父さんは仕方ないなぁ、と微笑んだ。しゃくりを上げる俺の目線にあわせて、小さくしゃがむ。
「えいっ」
すると突然、俺を胸に抱き寄せた。
「ぎゅ~。ゆきちゃんパワー充電中~」
「えっ……と、母さん?」
「パワー充電完了! シャキーン」
しばらく抱き締めていたかと思うと、今度は両腕に力こぶをつくり、おどけて笑ってみせた。当の俺は、何が起きたのか分からず困惑しているようだ。
首を傾げる俺に、母さんは言う。
「いい、ゆきちゃん? これはおまじないなんだよ」
「おまじない?」
「そ、元気にゆきちゃんの所へ帰ってくるおまじない。私の身体にゆきちゃんパワーがある限り、絶対元気いっぱいのピンピンで帰ってくる、ね。だから心配しなくても大丈夫。必ず戻ってくるから」
今聞いても、理屈の通っていない説得だった。だけど……そんなの関係ないんだ。そこには安心感があったから。絶対に大丈夫という、確かな安心が。
だから俺は、すぐに納得出来たのだろう。
「うん……。分かった、ちゃんと待ってる」
「もちろん! ほら、父さんもおまじないしなさい」
「む……、分かったよ。それで幸雪が安心出来るなら。ほら、幸雪」
「うん……」
今度は父さんが抱き締めてくれた。その温もりは忘れるはずのない、大きな、とても大きなもの。今も、俺の中に残っている。
「私たちがゆきちゃんパワーを貰うのと一緒に、母さんと父さんのパワーもゆきちゃんに注入しといたから、これで離れてても一緒だよ。だから……もう泣いちゃだめ。一番下でも男の子なんだから、桜來を守らないとね。私たちが留守の間の家は、ゆきちゃんが守ってください」
「うん、分かった。頑張るよ」
「よしよーし、それでこそ我が息子! いやーいいこいいこ~」
「エメリア、そろそろ」
腕時計を見た父さんが、俺を撫でる母さんを急かした。名残惜しそうに口を尖らせるが、諦めて立ち上がる。
「……シンデレラ、大丈夫そう?」
「ああ、大分落ち着いたさ。もう外で待たせてある」
「そっか。それじゃあね、ユキちゃん。お家のこと、頼んだよ?」
「なんか土産買ってきてやるから、楽しみに待ってろよ」
「うん! じゃあおれ、お姉ちゃんを起こしてくる!」
大切な家族に任され嬉しくなったのだろう。少年は意気揚々と廊下を駆ける。そして、遠目で眺めていた俺に、吸い込まれるように。
幼い俺と、こうして見ている俺。二人がぶつかった時、全ての空間と時間が止まった。
ああ。
夢が覚めるのだ。この温かい世界から、俺はーー
* * *
轟音が響き、俺はまどろみから引き戻された。
それと同時に、夢を視ていた間の記憶が、湧き水の様に溢れてくる。
目前にまで迫った獣。真っ黒い外観と相反して白く鋭利な牙を光らせ、動く気のない俺を喰い殺そうと飛び掛かってきた怪物。
俺はコイツに殺されるはずだった。それしか俺の未来は存在しないはずだったんだ。
だけど……俺はこうして生きている。
ヤツは何を思ったのか、空中で身体を横に切り、顔面すれすれの所を通り過ぎていった。
きりもみ回転しながら地面に突っ込み、またしても巨大なクレーターを空ける。
余りに予想外な出来事に、こんな殺伐とした環境であるにも関わらず呆気にとられてしまった。
死ぬ覚悟、というのとは少し違うような気もするが、自らの死を受け入れた俺としては今の心境はどうも複雑で、その場から離れるという選択肢が頭に浮かばない。
そういえば、最初に襲い掛かってきたときもヤツは俺の横を通過していった。俺を喰らうつもりなら、直接狙ってきてもおかしくないのに。
「ヒュー……ヒュー……ウゥゥゥゥゥ……!!」
その獣はというと、クレーターの中心でこちらを睨み続けている。
確実に殺気を感じるのに、ヤツは根が生えたように微動だにしない。何故だ? 獲物は目の前にいる。何故コイツは動こうとしない。
次々と湧く疑問に戸惑い、俺の思考キャパシティを超えようとしていた。駄目だ、一回落ち着こう。状況が状況だけど、こんがらがっていたら現状を呑み込むことなんて出来やしない。
しかし、目に入った『それ』のせいで、俺の疑問は更に深まった。
獣の足が、穿たれた穴にめり込んでいた。しかもよく見ると、若干体重が後ろに傾いている。そう、まるで見えない何かに引っ張られるのを耐えてるような……。
と、そこでヤツの足元に黒い染みが出来上がっていることに気がついた。染みは不規則に落ちてくる滴で、次第に膨らみ広がっていく。何だ、アイツの涎でも垂れてるのか?
ヤツの口に目を向ける。鋭い歯を喰いしばり必死に踏ん張っているようだが、その間から液体が漏れ出てることはなかった。それどころか更に上から流れ落ちていて、俺は注目を少し上に上げた。
…………どうなっているんだ、これは。
禍々しい血の色の瞳から流れ落ちる、透明な雫。
ポロポロと、止むことなく流れ続ける濁りのない水滴。
多くの命を奪う大惨事を引き起こした化け物は、泣いていた。
驚き声も出ない。それほどまでの激痛が今のコイツを襲っているのだろうか。
地を踏みしめているヤツの足が更に沈んだ。コイツの苦痛はこれが原因なのか? だとしたら何をここまで耐えているんだ。
……何か違う気がする。なんというか、悲しんでいるような。
人間以外が感情で涙を流すはずはないのに、俺は何故かそう思った。
その時だった。
「グゥゥゥゥゥゥ……ギャンッ!!」
「うわぁ!?」
離れたところから連続した炸裂音が鳴り響く。そのコンマ数秒遅れで獣は突き飛ばされたように倒れこんだ。
いきなりの事に腰を抜かした。自分の意思とは反して情けない声が上がる。
彼の身体から、彼の眼と同じ色の飛沫が上がる。
完全に地面に転がるのと同時に、俺の視界を黒い人影が横切った。
黒いローブを身に纏い、大きめのフードを深々と被っている。身長はかなり小さかった。小、中学生くらいだろうか。顔はフードのせいでよく見えないが、雰囲気からして男……だと思う。
そこまで分析したところで、俺はあることに気が付き息を呑んだ。
その男のローブから足元にかけて伸びている、黒い柱。六本の管が束ねられ、先から細い煙が上がっている。
微かに香る、硝煙の臭い。
回転式自動機銃。
世に言う、ガトリングガン。
呆然、としている俺に構わず、男はつかつかと獣に歩み寄っていく。
鋭い眼光をその眼に宿し、近づいてくる男を睨む獣。身体を上げ体勢を立て直そうとする獣に対し、男は足を後ろに振り上げ、思いっきり蹴り飛ばした。
文字どおり物凄い勢いで宙を飛び、十数メートル先の壁に叩きつけられる。
それを確認した男はこちらに振り返り、静かに足を向けた。
助けてくれた……のだろうか?
歩いてくる男の顔はやはりフードに隠れて見えない。よほど深く被っているみたいだが、前は見えているんだろうか。しかし、自衛隊の救助がこんなにも早いとは。
……いや、自衛隊などどうでもいい。何故俺は生き残ってしまったのだろう。桜來と一緒に逝くつもりだったのに――
……自衛隊? この人が?
冷静に考えてみると、色々とおかしい。
何故一人で行動しているんだ。こういう突発的な事件じゃ単独行動は危ないと思うのに。いや、その前に、俺は何で自衛隊だなんて思った? 通報されるのは警察だ。原因が分からない以上、まずは警察が来るもんじゃないのか? ていうか、地域内に害獣が出現するということ自体異例の出来事だ。こんなに早く救助が来るなんて不自然すぎる。
極めつけに、どこか宗教的なデザインのローブ。国家公務員の服装とは思えない奇抜さだった。
害獣を倒したとは言っても、自衛隊とは別の組織なのだろうか。そんなの聞いたことないが……。
男は目の前まで来ると、尻餅を着いた俺に合わせてしゃがみこんだ。
改めて近くで見ると、本当に小さかった。しゃがむ姿は、まるで田んぼの中を泳ぐおたまじゃくしを見ている子どものような。……異様に大きい袖から伸びてる銃身が無ければだが。
瞬間、脳に何かが刺さったようなチクリとした違和感がよぎったが、未だ頭がボーッとするため大して気に止めなかった。
とは言え、助けてもらったことには変わりはない。一言でもいいからお礼を言わなくては。助かって本当に……良かったのか、俺。
黙りこくっている俺に、彼は無言で火器の持っていない方の手を伸ばしてきた。小さい手に、革製の黒い手袋をはめている。
「ああ、ありが――」
差し出された手を取るのと同時に、彼からただならぬ威圧感と底知れぬ恐怖を感じた。
思わず手を引っ込める。何事かと首を傾げる男は、俺と自分の手を交互に見ている。
だがその不吉なオーラが彼から出ていたのではないことを、俺はその後すぐに知ることになった。
「――――!? 後ろ!!」
「!?」
彼の肩越しに目に飛び込んできたのは、よろよろと立ち上がる、動かなくなったはずの獣。
俺の叫びに状況を理解した男は、左袖から突出した銃身を構え、銃口を害獣へと向けた。
管が回り始め、三秒後、六本の穴が立て続けにオレンジ色の炎を吹く。映画でしか聞いたことのない衝撃に耳を塞いだが、乱射している本人は半身のまま慣れた様子でコンクリートに風穴を空けていた。
…………ん?
何でこの人は片手でガトリングを?
ていうか、そもそもガトリングって生身の人間が扱えるものだったか? いや、ミニガンだったら使えるのは使えるけど、それだって両手を使わなければ安定した射撃は出来ないはず。しかもあれ……ミニガンよりも二回り近くデカい。
麻痺していた思考が、少しずつ回復してくる。
思えば最初からおかしなことだらけだった。三十年前のあの事件で、各国の軍隊総動員で撃退を試みても半数近くを失ったというのに、ローブに身を包んだ男は一人で化け物と互角に戦っている。むしろ優勢と言えるだろう。
そもそも袖にバカでかい銃器を通している意味が分からない。男の腕は見えないが、あの袖の中はどうなっているんだろう。
そして、獣を壁に叩きつけたあの蹴り。ただの人間が『蹴り飛ばす』なんて行動を言葉通りに行えるものなのか? まして相手は害獣だ。あの小さな身体から繰り出される脚力とは思えない。
本当に彼は……人間なのか?
空中にばらまかれる無数の弾丸を、復活した獣は反復横飛びするように左右に跳びながら避けていた。間髪入れずに撃ち出されているはずだが何一つとして当たっていない。最初に撃ち込んだ鉛弾も、大したダメージは与えられなかったらしい。それどころか傷はもうほとんど塞がってしまっている。
敵は弾を避けつつ、地面を蹴り一気に距離を詰めてきた。ジグザグに走る獣に合わせて男は照準を修正しているが、それでも直撃することはなく精々かする程度。そうこうしている間に、もう五メートル先にまで接近していた。
男は銃撃を止め、何処から取り出したのか、いつの間にか右手に握っていたハンドガンを前に突きだし、飛び掛かってきた獣目掛けて引き金を引いた。
零距離で放たれる銃弾。ドパンッ、という破裂音と共に獣の頭を突き抜け、黒い身体が宙で静止する。
男は跳び上がり、獣が地に触れる前に再度蹴りをぶち込んだ。
一度目とは比べ物にならない速さで滑空し、瓦礫を巻き込んで吹っ飛んでいく。
派手に突っ込んでいった獣は、壁に激突して停止する。奴を中心に、放射状にヒビが走った。
今度こそやったか……!?
頭を撃ち抜かれ、普通の人間じゃ骨が粉々になるほどの勢いで叩きつけられたんだ。無事であるはずがない。
だが男の考えは、俺とは違うようだった。
黒い身体がめり込むのと同時に、三度機銃を構え直した。
容赦のない、鉛弾の雨。漆黒から吹きあがる、噴水の如き鮮血。
怯むことのないその姿に、少々薄ら寒いものを感じた。
「わんっ! わんわん!!」
「え?」
耳をつんざく爆音の嵐に交ざり、聞き覚えのある声が響く。
そこにいたのは。
「ぽんず!? お前どうしてここに?」
先の白い尻尾を揺らし瓦礫を飛び越え駆け寄ってくる、愛犬の姿がそこにはあった。
「グゥルルルルルルルル……!!」
ぽんずは俺の隣まで来ると、こちらを一瞥し、化け物の方へ視線を向けた。血飛沫を撒き散らしている獣を睨みつけ、低い唸り声を上げている。
いやちょっと待て、何でぽんずがここにいるんだ。天谷さんは?
ぐるぐると回る疑問に翻弄される俺とは反対に、男はこちらに気にすることなく風穴を空け続けている。
そのとき、獣の尾がゆらりと持ち上がった。男もそれに気づいたようで、心なしか化け物の尻尾に照準を合わせたような気がする。
集中砲火を受ける中、ゆらゆら揺れている尾の先端、扇形になっている部分が淡い灰色に発光し始めた。
……何か来る!?
「危ない!」
叫んだ時には、もう遅かった。
長い尾が振りきられる。
瞬間、空間が切り裂かれた。
ヒュンッという音が聞こえたのと同時に、男は銃身を立て、顔の前に持ってくる。
見えない迫り来る何かを防ぐための、とっさの判断だったのだろう。
しかし、もう手遅れだった。
男のフードが、ズタズタにされて吹き飛ばされた。
俺は声にならない悲鳴を上げた。
心臓を鷲掴みにされたような感覚が、全身を駆け巡る。
ガタガタと、意識もしていないのに震え出す。心拍数が一気に跳ね上がり、毛穴という毛穴から汗が大量に吹き出てきた。脳が、心臓が、胃が、全ての臓器が、きつく締め付けられる。
恐怖だ。
俺はようやく、この化け物に恐怖を覚えた。
……あれ?
飛ばされたフードをよく見る。それだけだった。ボロ雑巾のような黒い布しか、そこにはなかったのだ。
男の方に視線を戻す。
首を跳ばされたはずの男を見て、俺は別の意味で息を呑んだ。
風に揺られてなびく、肩まで伸びた透き通るような銀髪。いや、銀というより鮮やかな白色。
そして頭部に生えた、同じく白い、ふわふわとした猫耳。
初雪みたいな肌と、薄桃色の唇。
ズタズタとなってしまったローブを脱ぎ捨てる彼。その下から出てきたのは、胸元にホイップクリームを思わせるリボンが付いた、太陽の光をたっぷり浴びている砂浜のようなワンピース。
それと、ワンピースの裾から覗く、ミルク色の尻尾。
どうやら俺は、とんだ勘違いをしてしまっていたらしい。
ローブの男の正体は、全てが白い、なにもかもが真っ白い、幼気な、
少女。