五杯目 ほんの一握りの絶望も
正面玄関へと続く広い階段を駆け上がり、突き刺さった鉄骨と崩落した屋根の奥にある、作動しない自動ドアの前で膝に手を置き息を整える。自動ドア、とは言っているが、ガラスはほとんど砕け床一面に光る粉が散らばっていて、もはや『ドア』と呼んでいいのか解らない長方形の枠組みがはまっているだけだった。
枠にまだ少し残っている破片で露出した皮膚を切らないよう気を付けながら、慎重に建物内へ入る。一歩一歩踏みしめる度にジャリッ、ジャリッと瑠璃の粉が擦れる音がコンクリートに反響する。
砕片が転がってるエントランスホールに足を踏み入れた途端ヒヤリとした空気が肌を撫でる。コンクリートに熱を奪われたせいだろう。これだけ穴だらけになってしまえば空調設備なんて露ほども意味がない。いや、そもそも空調設備自体が止まってしまっているのか。外からだと軽傷に見えた右側も入ってみると酷い有り様だ。天井には何かに貫かれた大穴が一直線に並び、あるはずのない吹き抜けが出来上がっている。
「おーい桜來ー!」
静寂が空間を完全に支配している。人の気配が感じられず、声を張り上げて呼び掛けても返ってくるのは俺の声のみ。不安になる俺の心を写すかのように、割れた窓から覗く空はいつの間にか分厚い雲に覆われた曇天となっていた。
ひどく、寒い。震えている身体を抱いて押さえつける。こんなにも死を身近に感じたのは何年ぶりだろう。あの時の思い出したくない感覚がフラッシュバックし、蓋の開いた心が蝕まれる。自然と呼吸が荒くなっていくのが嫌でも解った。
胸の奥がどうしようも出来ない何かに侵食されるのを感じながら、俺は再度握りしめた携帯を開いた。
タッチパネルをスライドさせ、ゲームアプリの中に埋もれている受話器のアイコンに触れる。発着信履歴から見飽きた電話番号を呼び出し、僅かな希望と微かな願いを込めて発信ボタンを押し込んだ。
一回、二回、三回。コールを繰り返す度、自分の額に気持ち悪い汗が流れるのを感じる。落ち着こうにもそんな余裕は当然俺の中に存在する筈がなく、結局無駄な努力に終わってしまう。
だが六回目のコールが終わった直後、不意に連続的な電子音がピタッと鳴り止んだ。
――!? 繋がった!?
「おい!! お前今どこに――」
『只今、電話に出ることが出来ません。ピーッという発信音の後にメッセージを――』
腕の力が抜ける。何期待してんだ俺。ここまで引っ張ったら繋がる訳ないじゃないか。
「……ってなんで諦めてんだよ! なんで……」
嫌な考えを吹き飛ばす様に声を張り上げても、空いた大穴から見える空に呑まれて消えていく。
俺はなんてこと考えてるんだ。あいつが死ぬ? 冗談じゃない。死んでなんかいない。俺は何があっても生きているあいつを捜し続ける。そう心に決めた筈なのに……なんで俺はこんなにも後ろ向きなんだ!!
暗い感情を拭うため、半ばやけくそに床に転がっている蔵書を蹴飛ばした。
と、そこで俺はあることに気がついた。何で今まで気がつかなかったのか解らないほど簡単なことを。
あいつは図書館に行ったんだ。あそこじゃマナーモードか電源を切らなきゃいけないのがルール。これじゃいくら鳴らしても気がつかない訳だ。ましてやこの混乱の中、ケータイを見ている暇なんて無いだろう。一応留守電に繋がったんだからマナーモードだろうか。多分バイブレーションも切ってるんだと思う。
やれやれ、一体何を焦っていたんだ俺は。一人で取り乱して恥ずかしい。確かにあいつは所々抜けているがなかなか運の良いヤツだ。うん、そんな簡単に死ぬはずがない。
迷子の桜來を探すため、改めて建物内を観察する。入ってきた玄関はもちろんのこと、どこを見渡しても元の形を保ってる物体は無い。割れ、ひしゃげ、崩れ、潰された物ばかりだ。それは物だけに言える事じゃない。よく見ると、大きめの瓦礫の下に白い何かが浮いている赤黒い池が出来上がっていた。それが何なのか理解出来ないほど俺も馬鹿ではない。またしても込み上げてくる吐き気をゆっくり息を吐いて落ち着かせ、別の場所に目を向ける。
正面向かって左、灰色の山......いや、むしろ壁と言った方がいいのかも知れない。隙間から書物や割れたCDがはみ出しているだけで、図書館だった頃の姿は見る影も無い。そりゃ六階分に上から押し潰されたんじゃ当たり前か。
…………。
何を見てるんだ俺は。ここにはいないだろ。
こんなところ調べてても意味がない。まだまだ調べなくてはならない場所は山ほどある。害獣がうろついてるかもしれないこの廃墟に長居するのは得策ではない。可能性の高いところからしらみつぶしに捜していかないと、害獣なんかと遭遇したら桜來を捜す事が困難になってしまう。いや、それ以前に逃げ延びれるかどうかも怪しい。
そもそも一体何処から害獣は出現したのだろうか。まだ推測の域から出ないが、害獣の襲撃と結論付けてほぼ間違いないはずだ。じゃないと説明出来ない事が多すぎる。
俺が商店街で聞いたあの爆音。最初は爆発物によるものかと思っていたが、文化会館の変わり果てた姿を目の当たりにして、どうしても拭えない違和感が頭にこびりついていた。だがようやく、その違和感の正体を理解した。
文化会館の左……図書館側と、右側のエントランスホールの天井が破壊されていた。しかも、エントランスホールから六階にかけて、綺麗な円の大穴を空けて。これほど規模を爆破させる場合、少なくとも十数、いや数十個もの爆弾が必要になる。初心者の俺だってそれくらい分かる。
なのにあの轟音は『一度しか』聞こえてこなかった。
全て同じタイミングで爆破させた、なんて言われたら何も言い返せないが、そんなことが本当に可能なのか? 爆発音が一つに聞こえるように、丁度重なるように。仮に出来たのだとしても、それを実行する必要があるか? メリットが見当たらない。そんな面倒臭くて手間のかかる工作している暇があったらもっと別のことに労力を注ぎ込んだ方が圧倒的に良い。
そしてもう一つ、不自然な点が存在していた。
硝煙の臭いがしない……というか、『爆発した痕跡が見当たらない』。
これほどの被害だ。爆弾を使っているなら火薬はかなりの量のはず。だけど火の手が上がるどころか焦げ目一つ見つからない。焼け焦げた臭いがするわけでもなく、代わりに乾いた土煙のせいで少し土臭いだけ。
この二つの不自然は、どうも現実離れしていて人間技とは到底思えなかった。だが、害獣ならどうだろう。奴らは発症後、脅威的な身体能力を手に入れるのと平行して個々に特殊な能力に覚醒すると聞く。常に俺らの想像の斜め上を行く存在だということを忘れてはならない。今起きてるあり得ない惨状も、奴らにとっては『あり得る』かも知れないのだ。
でも仮に奴ら害獣の仕業……というかそれ以外に考えられないのだが、奴らが何処から現れたのかがどうしても解らない。地域外から害獣が侵入してきたのならハウスが気が付かないはずがない。無感染地域と地域外の境目周辺は、二十四時間態勢でハウスが監視、管理を行っている。万が一にも境界に近づこうものなら備え付けられている対感染獣専用固定砲台によって足止めを喰らっているはず。倒すまでには至らなくても、自衛隊が到着するまでの時間稼ぎにはなる。でも、なら何で街の中心地に、しかも誰にも気付かれることなく侵入出来たんだろう。
もしかして……ウイルス自体が入り込んできた……とか?
……そんな恐ろしいことがあってたまるか。
とりあえず、その可能性は一旦置いておこう。あと考えられることと言えば……。
……誰かが地域内に害獣を放した?
それならいくらか説明がつく。それでも不可解な部分が出てくるが……。例えば、ここまでどうやって運んできたのか、とか無感染地域に害獣を放つメリットは、とか……ん?
あちこち見回している最中、ふとトイレ付近の瓦礫の山の脇に、薄い蛍光ピンクの何かが落ちているのが目に入った。
別にそこら中に転がっている破損物の一部に過ぎないが……何故だかなんとも言えない胸騒ぎがする。ここからじゃよく見えないのに、この胸のざわめきは一体なんだ?
一度気になってしまうとどうやっても思考の片隅に追いやることが出来ない。仕方なく捜索を中断して近づいてみることにした。
ゆっくりと拾い上げる。謎の物体の正体は、うす桃色のシリコンカバーで覆われたタッチパネル式の携帯端末だった。それだけならいい、ただのガラクタとして片付けられた。左右に揺れているストラップが無ければ。
見覚えがあるなんてもんじゃない。これはどう見たって……。
「桜來の……」
竹松堂のマスコットキャラである芋ようかんを抱えたタヌキのストラップ。
いつも桜來が大切にしていた物だ。タヌキの背中には、ご丁寧に油性ペンで小さく桜の花びらのマークが描かれていた。
「なんであいつのがこんな所に……」
ひび割れた画面を指でなぞり、顔を上げたところで、
息が止まった。
「……………………は?」
口から漏れた気の抜けた音が、目の前の岩山に吸い込まれていく。
そして代わりに、数倍にも膨れ上がった『現実』が吐き出されて、呆然としている俺を押し潰す。
灰色の小ぶりな山と、その下に敷かれた紅い絨毯。
二つの間から伸びる、フランス人形の様な真っ白い手。
二つの間に見える、日本人形の様に真っ白い顔。
二つの間で動かない、血の通っていない人形の様に真っ白い真っ白い真っ白い真っ白い真っ白い真っ白い真っ白い真っ白い真っ白い真っ白い真っ白い真っ白い真っ白い真っ白い真っ白い真っ白い真っ白い真っ白い真っ白い真っ白い真っ白い真っ白い真っ白い真っ白い真っ白い真っ白い真っ白い真っ白い真っ白い真っ白い真っ白い真っ白い真っ白い真っ白い真っ白い真っ白い真っ白い真っ白い真っ白い真っ白い真っ白い真っ白い真っ白い真っ白い真っ白い真っ白い真っ白い真っ白い真っ白い真っ白い真っ白い真っ白い真っ白い真っ白い真っ白い真っ白い真っ白い真っ白い真っ白い真っ白い真っ白い真っ白い真っ白い真っ白い真っ白い真っ白い真っ白い真っ白い真っ白い真っ白い真っ白い真っ白い真っ白い真っ白い真っ白い真っ白い真っ白い真っ白い真っ白い真っ白い真っ白い真っ白い真っ白い真っ白い
真っ白い桜「うわあああああああああああああああああああああああ!!!!」
紅い塗料の海に沈んだ、真っ白い人形の顔面に貼り付いているのは、いつも能天気で少し後ろ向きな幼馴染みの――、
「違う……違う……違う違う違う!! 違うんだ、俺はちゃんとおまじないを……っ!!」
いつもの笑顔も、そこにはなかった。まぶたが閉じられ、深い眠りに堕ちてしまった白雪姫を連想させるほど、その顔は吐き気がするほど安らかで。欲しくもない残酷な事実を突きつけてくる。
「そうだ……まだ、死んで……ない。早く、早く出さないと……!」
一番上の塊に手を掛け、持てる限りの力を使って退かそうと試みる。
だが、びくともしない。
「なんでだよ……いいから動けよ……さっさと退いてくれよ!! 動け……うごけぇええええええええ!!」
トッ、と背後から何かが聞こえた。
まるで猫が高いところから着地するような、そんな音が。
「あ……」
山の隙間に手を入れたまま、音の方向に振り返る。
天井に空いた大穴の真下、山積みにされた瓦礫の頂上に、それは静かに佇んでいた。
尻尾が異様に長い、黒い毛並みの犬。いや、正確には、犬らしき何か。
一本一本が後ろに向けてピンッと伸びている体毛は、艶があるを通り越して不気味な漆黒の光を放ち続けていた。尾の先は薄い扇状に広がり、左右に振る度に空を切る音が風に乗って響いてくる。こちらも、吸い込まれそうな黒光りで。
そして、血の塊をはめ込んだが如き、赤黒い眼。
「害獣……」
その一言を合図に、黒い獣は、視界から消えた。
同時に俺の横を風が通り抜け、頬を撫でる。
……風?
何が起こったのか理解する前に、真横の瓦礫が吹き飛んだ。
地響きと共に床を抉られ、衝撃により土ぼこりが宙を舞う。何かが突っ込んで来たのは分かるが、あまりにも大量の土煙が立ち込めているせいでその姿を捉えられない。
だがそれも束の間、もうもう広がる黄土色の団塊は、いきなり発生した突風により弾けて霧散した。
内側から圧力をかけられ膨張し、周りの空間に溶けて消えていった土煙。その中から現れたのは、先程山の頂上に下り立ったばかりの、犬もどきだった。
もしかして……いや、もしかしなくても、突っ込んで来たのはコイツ自身……?
しかし、何か様子がおかしい。全身の毛という毛を逆立て、まるで喘息のような、ヒューヒューと荒い呼吸を繰り返している。ギラリと鋭い被毛を立てた外観は、例えるなら脚の長いハリネズミ。
思えば俺はこの時、殺意という明確な感情を、生まれて初めて向けられたのかも知れない。
脳天から足の先まで、冷たい何かが貫き走った。
だけど、なんでだろう。
逃げる気が……起きないや。
再び地面を蹴った犬もどき。だが今回は視界から消えることなく、再生ボタンと一時停止ボタンを交互に押すように、ゆっくりと飛び掛かってくる。
空中を滑る獣を眺めていると、頭の……脳の中で懐かしい映像が、出来損ないのパラパラ漫画を思わせるぎこちなさで次々移り変わり、急速に通り抜けていく。
ああ、そうか。
これが走馬灯って奴か。
……そうだな。一緒に行こうか、桜來。
「……ははっ。ほんっとどうしようもないな、俺」
薄ら笑いを浮かべた俺の顔目掛けて、大口を開けた獣が迫ってきていた。