表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
獣と幻想のお茶会を  作者: カズノコ
1人目の来客者 獣に捧げた少女
5/55

四杯目 こんなにも醜く成り果てて

「おーいぽんずー。出かけるぞー」


 玄関のドアを開きつつ、庭にいるであろう愛犬に声をかけた。が、反応が無い上に姿も見えない。仕方なく玄関の脇に掛けてあるリードを掴み、ここからでは死角となっている犬小屋へと向かう。

 縁側付近に建っている犬小屋を覗き込むと、奥に押し込まれる様に丸まった黒い塊が、一定のリズムを刻むかの如く上下していた。


「おい、今日は検診の日だぞー。早く起きろー」


 再び声をかけるがまったくもって反応が無い。まるでただの屍のよ……いや、なんでもない。


「はーやーくーおーきーろー、間に合わなくなるぞー」


 仕方なく実力行使に出ることにした俺は、ぽんずの身体をゆっさゆっさと大きく揺さぶった。そこでようやく、丸まった中心から頭を上げ眠たそうに大あくびをかまし、我が駄け……愛犬は小屋から這い出てきた。


「ゥゥゥゥゥグルルルルルルル」


 無理矢理起こされたことがよっぽど不満なのか、出てきて俺を見るなりに喉の奥を鳴らし唸ってくる。


「いつまでも寝てんじゃねえよ、もうすぐ十一時だぞ。時間ないから行くよ、ほら」


 リードを首輪に掛け、歩き出して出発を促す。だが二、三歩歩いたところで進行方向とは真逆に力がかかった。

 原因はわかってる。俺は黒の毛並みの雑種犬に目を向けた。

 ぽんずは四肢を地面に着け、完全に伏せってしまっていた。軽く引っ張ってみたがてこでも動こうとしない。そんなに惰眠(だみん)を貪りたいのかお前は。

 いくら眠かろうがそんなことお構い無しだ。時間は待ってくれない、遅れたら文句を言われるのはこっちなんだ。勘弁してくれ。


「い、い、か、げ、ん、に、し、ろ~!」


 重心を落とし、足の裏で地を掴んで力いっぱい引っ張った。ズリズリと引きずられようやく観念したのか、渋々起き上がり不満そうに一声吠える。


「文句は後で聞いてやる。いいから行くぞ」

「くぅ~……ん」


 俺の言葉に返事するように情けない声を漏らしている。いちいち気にしてられん、このペースだと遅刻する可能性大だ。


 庭経由で門に行く。玄関の鍵を閉め、あからさまにテンションの低いぽんずを連れて歩き出した。

 最近肌寒くなってきたことに重ね今日は風が強いせいか、道行く人たちは皆それぞれコートなどの厚着が目立ってきている。俺はそこそこ薄着だが、もともと暑がりなこともあってかそこまで寒くは感じない。

 歩道に並ぶイチョウの木もすっかり黄色く染まり、葉が風に揺られて雪が舞う様に散っている。俺はその間から覗く、街の中心にそびえ立つ天を貫く巨大なビルを見上げた。


 人外哺乳類寄生ウイルス研究機関ハウス関東支部。

 これから俺たちが向かう場所だ。

 三十年前のあの総理の発表後まもなくして、世界各国の無感染地域に狂獣病の研究機関を設置するという発表が下された。ほとんどの国民、いや、世界中の人間がこの政策に協力的であったが、中には建設する場所を巡っていざこざがあった地域もあったのだとか。ここ東京に建設された関東支部は元々細菌の研究施設だった場所を建て替えたため大したトラブルは起きなかったそうだが、関西支部が建てられた大阪市では地元を愛する市民により猛抗議が起きたとかなんとか。詳しくは知らないけど。政府の必死の説得により譲歩されたものの、建設に取り掛かれたのは他の地域より二年も遅れてのスタートだった。


 ハウスの主な活動内容は、ウイルスの研究、汚染地域のウイルス除去、無感染地域の拡張、自衛隊による害獣駆除のサポートとなっている。他にも町興(まちおこ)しや各地に点々と散らばっている小規模無感染地域への支援、新たに拡張された地域の復興などにも一役買っており、今では地元民には無くてはならないシンボルになっていた。

 俺とぽんずはその活動の中の一つである定期検診を行うため、こうして貴重な休日を割いて長い距離を歩いている。正直憂鬱だ。え? いや二キロくらいしかないけど。

 バックレられるもんならとっくにやってるが、いかんせんペットの飼い主は月一の定期検診に通う義務があるせいで中々そうもいかないのが現状だ。そして遅刻も厳禁。一回二回は厳重注意ですむが、三回目からは罰金をとられるらしい。三万円ほど。俺の貯金が全て吹っ飛ぶ金額。


 因みに……既にリーチが掛かってる。


 今回ばかりは絶対に遅刻するわけにはいかなかった。


「っとと、あっちゃ……道間違えた」


 考え事をしていたせいか、曲がるはずだった角を通りすぎ、多くの買い物客や自動車がごった返す大通りに抜けてしまった。ハウスに向かう本来の道順としては間違ってはいないのだが、ここを通ると信号や人混みに阻まれ時間内にたどり着くことはまず難しい。通るつもりだった道からは既に数十メートル過ぎてしまい、小走りで引き返す。

 電柱を四つ戻った角を曲がり細い路地に入る。明らかに人通りの少ないこの路地は地元の人間しか知らないハウスへの近道だ。ここを通るだけで十数分は短縮出来る。ただ歩きか自転車しか通れないというデメリット付きだが。

 所々カラスが食い散らかしたゴミが散らばりスプレーで描かれた落書きが壁の大半を占める、妙に危なそうな雰囲気を醸し出す通路を進む。右へ左へ、くねくねと曲がり進んでいくと、先程とはまた違った雰囲気の少し開けた場所に抜けた。四メートルほどの幅の道路の両脇に、ズラリとねずみ色の金属製の壁が並んでいる。かつては活気に満ち溢れていたであろうその通りもすっかり寂れ、重苦しい空気の逃げ場を無くすかの様に店のシャッターが下ろされていた。

 いわゆる、シャッター商店街だ。


 三十年前のあの騒ぎで閉鎖してしまった商店街は少なくない。経済的な面でも大打撃を与えられたため、大手ではない小売店は経営するのが困難になったからであろう。一度廃れてしまった商店街を復興させるのは容易ではない。それに重なり国の膨大な借金により援助金も出ず、よってどこも手付かずのまま放置されてる。個人で店を持つにもこんな風だけが通りすぎるような通りに出店するはずがなく、結局のところ活気がないから人が来ない、人が来ないから店を開けない、店がどこも閉まっているから活気がないという、なんとも良くできた悪循環の図となっていた。こんな所に店を持とうだなんて考える人は物好きもいいところだろう。というか赤字確定の自殺行為だ。


 ……うん、いるんだけどね一人。店構えてる人が。


 ケータイで時間を確認する。余裕......って訳ではなさそうだが、少し寄り道するくらいならまだ時間がありそうだ。


 少し歩き、商店街の中央に差し掛かった所で右に曲がる。この商店街は案外大きい規模だったようで、百メートルほどの通路を中心で交差させた十字型になっている。いくらか俺が出てきたような細い通路が伸びているものの、基本的にはそんな造りだった。因みに、中央を曲がらず真っ直ぐ進めばハウスは目と鼻の先だ。

 目的の店はすぐに視界に入った。灰色の壁を切り抜いたような四角い横穴からは光が漏れ、かぼちゃや果物の並んだ陳列棚がはみ出している。

 あそこがここの商店街で唯一営業している八百屋だ。


「こんにちはー」


 店の前にぽんずを待たせ、誰もいない店内に入っていく。とても広いとは言えない店内にところ狭しと商品の入った段ボールが詰め込まれており、店の中を歩くのも一苦労だ。そんなごちゃごちゃした室内の奥からドタドタと騒がしい足音が聞こえ、レジの後ろにある扉からつなぎ姿の細身の男性がひょこっと顔を出した。


「やあ、幸雪(さちゆき)くん。いらっしゃい」


 人の良さそうな爽やかな笑顔を魅せるいかにも好青年な彼は、この八百屋の店主、天谷(あまや)珠音(たまね)さん。

 二十六歳にしてこんな人気のない商店街で、しかも大型スーパーの出現でただでさえ客足の少ない職種の八百屋を経営する、まるで現代産業に単身殴り込みに行くような猛者(もさ)さんだ。

 まあ、とは言うがここの野菜はとても美味しい。いつでも瑞々しく甘い、こんな寂れた場所で販売するのはもったいないくらいだ。あまり人が通らないにしても常連客はちらほらいるようで、この店の存在を知っている者たちにとっては隠れた名店となっている。もちろん、俺もその中の一人だ。

 それにしても、こんな大量の野菜をいつも何処で仕入れてくるのだろうか。いや、それよりも……何で潰れないんだろう、店。


「あ、昨日はごめんね。毎週来てくれてるのに店休んじゃって」

「いえいえ、急な用事なんでしたら仕方ないです」


 実はこの店、営業時間が決まってなければ休みも不定期だ。一週間ぶっ続けで営業してる時もあれば、逆に一週間店を閉めている時もある。開店時間も九時だったり十時だったり、下手すると午後から開店なんてのもあり得る。とても気さくないい人なんだけど……生活、大丈夫なのか? 一日の売り上げがどのくらいなのか非常に気になる。


「それで、何買っていく? 今の時期美味しいのはえのきとかエリンギだけど……あ、かぼちゃも美味しいよ! 丁度今日良いモノが入ったんだ~」

「あ、いえ、ちょっと寄っただけで今買う訳では……」

「うん? というと、今日は定期検診かな。どうりでぽんずくんを連れてる訳だ」


 そう言うと彼は馴れた足取りで積み上げられた段ボールの間を縫う様にすり抜け、大人しく座っているぽんずに歩み寄った。……座りながら寝てやがる。やけに静かだと思ったらこれか。


「いやー大人しくて良い子だなーぽんずくんは」


 ぽんぽんと頭を軽く叩く天谷さん。それにより起こされたのか、喉の奥が見えるほど口を開け、気持ち良さそうなあくびをする。


「わんっ」

「あっはは、気持ち良い? そっかそっか」


 彼は楽しそうに頭を撫で回し、自分の頬をぽんずの頬に擦り付けている。動物好きなのは知ってるから嬉しいのはわかるけど、食品を扱ってる人がそれやっちゃいけない気が……。後でちゃんと消毒してくれることを祈ろう。


「幸雪くんも大変だね、今月も頼まれちゃったんでしょ?」

「頼まれたというより押し付けられたの方が正確だと思いますが」

「その調子だと、お兄さんも元気そうだね」

「ええ、おかげさまで。毎朝吐くまで天谷さんの野菜食ってますから」

「そう言ってもらえると嬉しいよ。よいしょっと」


 頭を撫でるのを止めおもむろに立ち上がった天谷さんは、着ていたつなぎのポケットから黒茶色の乾燥した細い板を取り出した。


「はい、ビーフジャーキー」

「何でそんなもの常備してるんですか……」

「いつ何処で動物とふれあう機会が訪れるか分からないからね。あ、ほらほらダーメ、あげるから待ちなさい。一個だけだよ? 犬用のじゃないから味濃いしね」

「わん! わんわん!」

「はい、おすわり!」


 天谷さんが声を張り上げた途端、興奮して跳び跳ねていたぽんずがピタッと動きを止め、アスファルトに尻を着けて静止した。


「お手」


 静かに白に黒ぶちの入った毛並みの前足を出し、天谷さんの掌に乗せる。


 いつの間に仕込んだんだろう? この人ブリーダーの方が向いてるんじゃないだろうか。本当に何で八百屋やってるのか不思議でしょうがない。


「そう言えば幸雪くん、今日は時間大丈夫なの? 遅刻しちゃうよ」

「え? あ!」


 天谷さんに指摘され、慌てて時間を確認する。現在時刻は十一時十七分。タイムリミットの十一時三十分まであと十三分しかなかった。


「す、すいません、もう時間ないので失礼します! 帰りにまた寄るんで!」


 ビーフジャーキーを与えてる天谷さんに頭を下げ、ポールに通しておいたリードを掴もう――とした腕を掴まれた。


「……あの、何のつもりですか?」


 焦りによるいらつきで口元をひくつかせている俺に、曇りのない晴れやかな笑顔で彼は一言。


「僕も行っていい?」

「いやお店どうするんですか!!」


 あまりの無責任な発言に思わず声を荒げてツッコんでしまった。とても経営者とは思えない言動に開いた口が塞がらない。

 だがそんな俺の心の内読み取れていないようで、彼は相変わらずの爽やかスマイルを向けてくる。


「それに関しては大丈夫だよ、もうすぐお昼休みに入るつもりだったし。常連さんは大体夕方に来るからね」

「う……それならいいですけど……行くなら早く準備してくださいね、こっちはもう時間がな――」




 唐突だった。




 何処か遠くの方から、しかし耳をつんざくほどの爆音が、辺り一面に空気を震わせて響き渡った。


「なっ……!?」


 突然の出来事に混乱した。とても日常生活では聞くことのない非現実的な音に、よろけてしりもちを着いてしまう。


 いったい……何が起こったんだ……?


「幸雪くん、あれ!!」


 驚きと困惑を含んだ天谷さんの声に、指差された方向へ視線を向ける。彼の店がある通りの出口に見える建物の上空に、不気味なドス黒い煙がもうもうと昇っていた。


 ……おいちょっと待て、あの方角って……!?


 嫌な予感がした。形容しがたい悪寒が全身を駆け巡り、意識せずとも身体が小刻みに震えだす。

 大丈夫なはずだ、だって俺はいつも通りあいつを……!

 必死に自分に言い聞かせてはいるが、俺の中の不安はとても拭い切れなかった。

 気がついた時には、既に走り出していた。


「あ、ちょっと幸雪くん!」

「すいません! ぽんずのことお願いします!!」


 静止させようとした天谷さんにぽんずを託し、振り返らずに全力で走る。


 あの煙、そして爆音。ただ事じゃない何かが起きたことは充分に分かっている。自らそこに向かおうとする者など誰一人としていないだろう。俺だって例外じゃない。本当なら近づくどころか今すぐきびすを返して逃げ出したいくらいだ。

 だけど、今回ばかりは事情が違った。

 煙が上がった辺りには、区役所や郵便局といった公共施設が集まる区域がある。必然的に人が集まり、何か騒ぎがあれば混乱は避けられないであろう危険な場所でもあった。

 そこにはハウス建設の記念として六階建ての文化会館が建てられていて、プラネタリウム、コンサートホール、少し小洒落たカフェなんかも設置されている。その建物の一階には図書館が併設されていた。


 今朝、桜來が向かったはずの図書館が。


「……クソッ!!」


 長い長い灰色の路地を駆け抜け、人々で溢れかえる大通りへと躍り出た。横を抜けていく通行人達は皆、空へ立つ黒煙の柱を見上げている。いきなりの非日常に呆気にとられている者、狼狽する者、何処か楽しんでいる者、そんな者達が歩道に突っ立っている中に飛び込み掻き分けながら前進する。そんな中、進んでいくにつれ徐々に周りの様子に異変が生じてきた。

 進行方向とは真逆に走っていく人が増えて来たのだ。恐怖に顔を歪め、一心不乱に走り去っていく。周りも何事かといった表情で釣られて逃げていく。泣き叫び戻ろうとする女性の手を引っ張り逃げていく男性とすれ違った。それらを追い抜きただ一人逆方向に走る。そこで何かが起きたのは聞かなくても明白だった。


 奥に見えるビルの角を曲がれば文化会館は目の前だ。号哭(ごうこく)叫喚(きょうかん)が入り混じる人の波から脇に抜け出し、迫り来る十字路を左折した。


 その先に見た光景は、俺から言葉を奪った。

 どこぞのデザイナーが設計した近代的なデザインの建物は、正面向かって左半分がまるで重ねたビスケットを砕くかの様に粉々になっていた。


「…………!!」


 走りながら桜來に電話をかける。だが数回コールした後、無慈悲に留守録の機械的な音声が流れるだけだった。


「桜來!!」


 もうとっくに逃げたものだと信じたい。それならどんなに良いか。でも、図書館は一階の左側を全て使った造りになっている。つまりあの瓦礫の下敷きに……。


 なあ、くそったれな神様。身勝手なあんたを憎んでる俺が言うのも図々しいと思うが、俺から桜來を……大切な人を奪うのはやめてくれ。

 もう……これ以上……!


 肺が熱い。休まず全力疾走しているからだろう。だがそんなことどうでもいい。


 だだっ広い駐車場に入り、ようやく被害の全貌が明らかになった。大小の瓦礫が散乱し、元々建っていたであろう場所には大きな山が出来上がっていた。辛うじて残っている右側も数本のひびが入り、ガラスが全て割れている。いったいこの場所で何が起こったのか。


「おい桜來!! いないのか!? おい!!」


 電話をかけ直しても繋がらず、左右を見渡しながら呼び掛け、瓦礫の山へと走る。すると、大きめの瓦礫の陰にチラッと倒れている人が見えた気がした。


「!? 桜來!?」


 慌ててその人影に駆け寄る。近づいてその人を見た途端、俺は絶句した。

 目を大きく見開き、右腕が潰され、左脚がもげ、脇腹に大きな半円の穴が空いている。考えなくても解った。この人は死ん……で……死…………。


「うっ、げ、あぐっ……おえええぇぇ」


 立っていられないほどの目眩に襲われ、吐き気に抗えず腹の中にあるもの全て地面にぶちまけた。

 目の奥がチカチカする。見慣れない残酷な光景にとても平常心でいられず、口内の苦酸っぱい味を気にすることも出来ないままへたりこんでしまった。

 しばらくうずくまり、なんとか呼吸を整えて落ち着くことが出来た。大きく息を吸い込み横目で肉塊と化してしまった人物を観察する。


 体格や顔のパーツから考えると、どうやら被害者は男性のようだった。これだけでも少し安心することが出来た。彼がもし桜來だったらと思うと……考えるのはやめておこう。

 建物の状態からして爆発物によるテロだと思うのだが、そう考えるとどうもおかしい。潰れた右腕、もげた左脚、そこだけ見れば建造物の破片に潰されたと推測するのが自然だが、彼の周囲には人間の身体を潰せるほどの大きさの砕片(さいへん)は見当たらない。唯一潰せるであろう二メートルほどの破片も、彼の真横に落ちているだけで血液も肉片も付いていなかった。それに脇腹の傷。こればっかりは不自然な気がしてならない、この場では場違いな傷のような気がした。なんと言うかこう、何かに喰い千切られた様な……。



 …………え?



 喰い千切ら……れた…………?



 ぶわっと、嫌な汗が全身から吹き出たのを感じた。


 いや、待てそれはあり得ない。そんなはずはない。だってここは無感染地域のはずだろ? そんなバカなことが現実に……。


 あり得ないなんて……誰が決めた?


 考えてもみろ、あのウイルスは今だ根本的な正体を掴めていない。未知の生物と言っても過言ではないだろう。そんな細菌を俺たちの常識の範囲内に留めておくこと自体が間違っているのだ。今まで入り込んで来なかったにしても、生涯進入してこないなんて保証は何処にもない。

 害獣が無感染地域に出現しないなんて、言い切れるはずがないんだ。


 背筋に冷たいものが走る。反射的に後ろに振り向いた。だがそこには無機物の残骸があるだけで、動くものは何一つ見当たらない。それでも俺は落ち着けなかった。あの轟音が聞こえてからそれほど時間は経っていない。もしかするとまだ近くにいるかもしれないんだ。戦車四両でようやく互角に戦えた、現実離れした化け物が俺の近くに……!


 恐怖心に呑み込まれ、脚が震えて立つことが出来ない。逃げよう。今すぐにこの場所から離れて、ここで起きたことを全て忘れてハウスに逃げ込もう。そうだ、それが今俺の出来る最善の行動なんだ。それで良い。


 ……良いわけあるか。


 桜來はどうなる。連絡がとれない以上、逃げ切れたとは限らない。あいつは律儀なヤツだ、俺からの着信に気がつけば必ずかけ直してくるだろう。それまで俺は逃げ出さない。あいつの無事を確認するまでは。


 震える脚に鞭を打ち、崩壊した建造物を見据え静かに息を吐き出す。ここに来た以上、危険は避けて通れない。臆病であろうとなかろうと、襲ってくる脅威は変わらないだろう。なら……いつまでも怖がっていても仕方がない。

 決意を固め、俺は一歩、魔物に襲撃された鉄骨剥き出しの塔へ踏み出した。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ