二杯目 変わらぬ朝と言うけれど
窓の外から聞こえる小鳥のさえずりが耳の奥に響いてくる。透き通るような青空に浮かぶ真っ白い雲の隙間から、朝を告げる日の光が射し込んで俺の顔を暖かく照らした。暗闇から目覚めたばかりの俺には少しまぶしすぎた。
呆れるほどいつもと変わらない、でも心地の良い朝。いつも通り、目覚めの良い爽やかな朝。そしていつも通り……じゃないことが一つ。
ため息を吐きながら首だけを動かし、『いつも通り』じゃない原因に目を向ける。そこには俺の胸に顔を埋め、すやすやと気持ち良さそうに眠っている少女。栗色のふわふわとした髪が、開け放たれた窓から入ってくる風に揺られ俺の顎をくすぐる。しかもこの少女、俺の背に腕をまわしてガッチリホールドしてしまっている。お陰で寝たきりのまま身動きがとれない。
さてどうしよう……すんごい気持ち良さそうな顔で寝ているせいで、起こそうにも罪悪感が妨げになってなかなか声をかけられない。とはいっても起こさないわけにもいかないし。思えばこの状態で二十分くらい悶々としている気がする。
……しょうがない、いつまでもこうしてるわけにもいかないし、そろそろ起こすとするか。
幸せそうなほっぺたをつんつんつつく。いつまでもつつきたくなるようなモチモチしている肌に若干なりとも感動しながらも、本来の目的を忘れて没頭してしまわない内に、呑気に寝ている少女に声をかけた。
「うおーい桜來ー、起きろー」
胸に埋まっている少女の名前を呼び続け、肩を揺すったりほっぺたをつつきまくる。だがいっこうに起きる気配はなく、それどころか更に表情が崩れよだれを垂らしてにやけている始末。逆効果だったか……。
「おーい、起きてくれないと俺も起きれないんだけど」
片方のほっぺたをつまみむにむに引っ張る。だがしかしこれも幸せそうに顔を緩めただけで特に反応は無かった。どうしたものかこれ。
「おい桜來、早く起きないとお前の芋ようかん食っちゃうぞー」
「それは困る」
「うおっ!? お、起きたか」
俺が芋ようかんというワードを口にした瞬間、今まで何をしても反応してくれなかった桜來が光の如き速さで顔を上げた。なんちゅう食への執念だ。
彼女は眠そうに目を細めてはいるがもう眠るつもりはないらしく、俺に抱き着いたまま猫のように背中を丸め背伸びをする。どうやら起きても俺を離すつもりはないらしい。
「おはよーサユキちゃーん」
にへらーと気の抜けた笑顔を見せる彼女は、何を思ったのか急に自分の頬を俺の胸に押し付けた。
「はぁ~……あったけ~……」
「……おはよう桜來。ぬくっているとこ悪いが離れてくれないか? 起きれない」
「あー、ごめんねーサユキちゃん」
んしょ、と可愛らしい掛け声と共にのし掛かっていた重みが消える。この様子だとしばらくは離れないかと思っていたのだが、彼女は意外にもあっさり退いてくれた。何事も頼んでみるもんだ。
俺も上体を起き上がらせ、思いっきり背伸びをする。チラッと時計を見たところ、狂っていなければ現在時刻は八時半をちょっと過ぎたあたりらしい。今日は本当によく寝た。平日に同じ時間に起きたら遅刻確定だ。休日にしか得られない幸せか……なんだか感慨深いものがあるな。それはさておき……。
「なあ桜來、何がどうしてこうなった?」
「ふわぁ~ぁふ、ん~なにが~?」
ひときわ大きなあくびをして眠そうに目をこする桜來は、俺の質問の意味がわからないと聞き返してきた。
「いや何がって、お前が俺に抱き着いて気持ち良さそーに眠ってたことだよ」
「ああ、あれね~」
彼女はベッドの上で正座をし、ひとさし指を立ててこれまでの経緯を説明し始める。
「いや~朝ごはんの準備も出来たし、そろそろサユキちゃんを起こそうかな~って思ったのはいいんだけどね、いくらつついても揺すってもなかなか起きてくれなくて~。しかもほら、今日はなんだかとっても暖かくてね、起こしてるうちにいつの間にか寝ちゃってたんだよね~」
「そ、そうだったのか」
桜來の話を聞き若干言葉が詰まる。どうやら俺も桜來同様かなり寝起きが悪かったらしい。これは流石に桜來には悪いことをしてしまった。いつもならそこまで爆睡することはないと思うんだけど。週末だからって夜更かししすぎたか。……っていやちょっと待て。
「ちょっといいか、寝ちまった理由はわかったけど何で抱き着いてたのかは聞いてないぞ。しかも腕を回してガッチリと」
「あ~、それは~……」
俺の質問に言葉を濁す彼女は居心地悪そうに目をそらす。あ、これは……確実に後ろめたい事があるときの態度だ。
「言いなさい」
「あ、ひょ、ひゃひゅひひゃっ」
むにむにと桜來の両頬を引っ張る。おーよく伸びるよく伸びる。
「で、何で俺に抱き着いてた?」
「えっと~……たまたま?」
「何で疑問形なんだよ」
「いひゃい! ひっひゃひゅのひゃへへ~」
「ほれほれー吐いて楽になっちまえー」
上下、左右、前後にとひとしきり引っ張り、最後に思いっきり横に引っ張って開放する。「ひゃんっ」と可愛い悲鳴を発し、力が抜けたかのように倒れこんできた。涙目になりながら息を荒げて頬を紅潮させているその姿は、そういうつもりじゃなくてもどこか色っぽく見えてしまう。この瞬間をカメラに収めてこいつのファンクラブに持ち込めば高く買ってくれることだろう。やらんけども。
「っておい、どさくさに紛れて抱き着いてくんな」
またしても胸に埋まっている頭を軽く小突く。頭を押さえて顔を上げた桜來は不満そうに唇をとがらせていた。
「いーでしょ~ケチ~。サユキちゃんあったかくて好きなんだもん。な~んかおひさまの光に包まれてるような感じで~」
「とは言ってもな」
「も~、サユキちゃんだってあたしとやってることそんなに変わらないくせに~」
「いや、違う。あれはやむを得ないんだ、しょうがないんだ」
「まあね~、事情は知ってるからあんまり言い返せないけど、だったらあたしにも抱き着いてもいい権利はあるはず」
「はいはい……。そういや桜來、兄貴は?」
「露骨に話そらしてきたね~」
「う、うるさいな」
ムフフと楽しそうに笑っている彼女の頭を再び小突く。照れちゃって~、と余裕ぶった態度を見せる彼女を無視し、引き剥がして立ち上がる。彼女は名残惜しそうに手をわきわきさせながらも、諦めたのか大人しくベッドの縁に座り直した。
「真夏くんならとっくに出てったよ~。いつも通りかなり忙しそうだったし。ちゃんと朝ごはん食べていってくれたから良かったけどね~」
脚を投げ出してパタパタさせている桜來を尻目に、俺はベッドから飛び降りた。……のだが、脚がもつれてバランスを崩し盛大にすっ転んだ。
「カッコつけて飛び降りたりするから……」
呆れたように呟く声が聞こえる。かっこ悪すぎるだろ何やってんだ俺。なにか……なにかそれっぽい言い訳を……!
「な、なにを言ってるんだ。これはかの伝説の体操選手のみが使えたという『五体投地』という着地技……!」
「声震わせてる上に身体も震わせてる時点で説得力皆無だよ~」
あっさりと見抜かれた。何故だ、俺のポーカーフェイスは完璧だったはずなのに。
「ま、まあそれは置いといてだ」
立ち上がり、何事もなかったかのように向き直る。ん? 転んだ? 誰が?
「で、ぽんずは?」
「連れてかなかったよ~」
「またかあんにゃろ……」
思わず拳を握りしめ、悔しさと呆れが混ざったため息を漏らす。俺のこの反応は予想済みだったようで、桜來は苦笑気味に兄貴のフォローを入れようとしていた。
「ん~、でも真夏くんも忙しいしね~」
「とは言っても、場所は同じなんだからそのまま連れてってくれればいいのに。お偉いさんが五月蝿いだなんだ言ってっけど、自分だって結構立場上なくせによ」
「真夏くんの扱ってる部署とぽんずを連れていく部署が違うんじゃないかな~?」
「それは……」
可能性はなくもない。俺は兄貴がどんな仕事してるか詳しく聞いたことはなく、勤め先の内情を殆ど知らないからだ。いや、一度だけ訊いたことあったな。そのときははぐらかされて結局聞けなかったけど。仮に桜來の推測通りだったとしたら、下手な言い訳なんかせずにそうと言えばいいのにあいつは……。
「はあ……ってことは今回も俺が連れていくことになるのか。こんなことだろうと思って予定空けておいたからいいけどさ」
「なんだかんだ言っていっつも連れてってくれるよね~。いや~いいこいいこ~」
立ち上がり、近づいてきた桜來の右手が俺の頭に乗せられた。小さい身体をいっぱいに伸ばし、十七歳の平均身長を十センチ近く上回る男のてっぺんを撫でるその姿は、まるで幼い女の子に撫でられているようで俺の羞恥心を煽るには充分すぎた。
「こ、子ども扱いすんな」
「あれ~、そんなこと言っていいの~? 昔はお姉ちゃんお姉ちゃん言って離れなかったくせに~」
「……なぜ今昔の話を出す」
「サユキちゃんがこーんなに小さい時は、何かあればお姉ちゃーんって。いや~可愛かったよ~。あ、今も可愛いから安心して~」
「何を安心しろと。そもそも、そんな年上のお姉さんぶってるけど、実際お前と俺一つしか違わないだろ」
「はぁ~、小さくて素直だったサユキちゃんは一体何処へ~」
「話聞けよ」
どこか遠くの方を見ている桜來に嘆息しつつ、いまだ頭に乗せられていた手をどける。
「今はお前の方が小さいだろ」
「身体はね~。でも心と懐の大きさなら負けてないよ~、お姉ちゃんですから」
「そりゃ俺よかお金はあるだろうけど」
腰に手をあて胸を張っている彼女に色々と反論をぶつけてみたものの、結局特に言い負かすことも出来ず徒労に終わった。……それにしても、なんていうかこう……背中を反らしているせいで子どもっぽい容姿には不釣り合いな二つの塊がより強調されてしまっているというかなんというか……。あんまり気にしてなかったけど、こっちの方は年相応に成長してるんだなぁ……。
「? どしたのサユキちゃん」
「え!? いや、なんでも……」
急に固まった俺に対し、無垢な少女は穢れのない瞳を向け問いかける。こいつの純粋な性格を考えると、胸を見てた、なんてことは口が裂けても言えない。下衆なことを考えていたという自覚があるためにまともに目を合わせられなかった。
「と、とにかく、ほら朝ごはん作ってくれたんだろ? 早く食べよう、昼になっちまう」
「あ、そうだね~。それじゃああたし、お味噌汁温め直してくるから~。着替えて早く来ちゃってね~」
鼻歌を歌いながら出ていく桜來を見送り、今日何度目か分からない、しかし今までと違う安堵のため息を漏らす。なんとかごまかせた……。
「さて、と」
さっさと用事も済ませたいし、やることやっちゃいますか。
普段着に着替える前に、ベッドの足下で丸まってる派手にひっぺがされた掛け布団の片付けに取り掛かる。おそらく桜來の仕業だろう。剥ぐなら剥ぐでもっと丁寧に剥いでくれると助かるんだが。
掛け布団を二つ折りにし、ベッドの上に丁寧に置く。潔癖症、という分けではないが、こうごちゃごちゃしている空間を見るとついつい片付けたくなってしまう。悪いとは思わないけど、細かすぎるこの性格は直した方がいいんじゃないかと思う今日この頃。
「さーて着替え着替えーっとっだがっ!?」
本日二度目、今度は自分の脚に足を引っかけてすっ転ぶ。しかも今度は頭を本棚の脇に激突させた。あまりの痛さに転げ回り悶絶する。角じゃなかったのが不幸中の幸いだった。
「ぅいっ……たぁ…………ん?」
立ち上がろうと本棚に手をかけた時、何かが指先に当たり落ちてしまった。
「あちゃー……いっけね」
ぶつけた頭をさすりつつ、床に落ちた写真立てを拾い上げる。見たところガラスが割れているということもなく特に損傷は見られなかった。とりあえず安心だ。
「…………」
ふと写真を見る。そこには不機嫌そうにしている幼い頃の俺と、今と変わらず能天気な笑顔を見せる桜來、それと九つも離れているくせに俺を押し退けてはしゃいでいる兄貴。そして――。
写真を元の場所に戻し、服が収納されているクローゼットへと向かう。白いシャツの上からすっかり馴染んだ上着を羽織り、まだ新品に近い兄貴のおさがりのジーンズを履いた。さて、早く行かないと桜來に文句を言われそうだ。小言を言われる前に出ることにしよう。
ドアノブに手を掛け、捻る前にもう一度、棚の上にある写真を見る。俺は明るい声で、そこにはいるはずのない二人に声をかけた。
「――おはよう、父さん、母さん」