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 やっぱり海のほうがいい。総意だ。山は登るにしても、なんの用意もしていない。準備がないとつらい節がある。だけれど海は、水着さえあれば、他になにもいらない。人気(ひとけ)のないところなら水着さえいらないかもしれない。いるけど。

 怠惰を貪っているのか、健全に夏休みを満喫しているのか曖昧な日々が続いた。八月に到達し、あともう数日すれば家に帰ろうと思案している頃合だ。ぼくは浮き輪の力を頼りにして、わりと足の届かないところまで泳いできていた。一人では危ないかもしれないということで、関澤さんと宇治くんが一緒だ。

 水は、慣れてしまえば冷たくもなんともない。涼しい気分も通り越して、むしろ、感覚としては温かいというほうが近い。感覚器官が麻痺しているわけではない。本来、海水は温かいものなんだ。太陽は熱いし。

「おい、どこまで行くんだー?」

 少し後ろのほうにいた宇治くんが、ぼくと関澤さんに声を投げかけた。たしかに、結構遠くにまでやってきた。もうあと数メートル泳げば、本当に危険な領域に達するかもしれない。

 あ、監視員さんが怒鳴り声を上げてきた。さすがに泳ぎすぎたみたいだ。ぼくの浮き輪は水色だから、もしかしたら、なんの助けもなしに泳いだように見えるかもしれない。もしかしたら、波のあるときはそのほうが安全なのかもしれないけれど。

 隣で、関澤さんがくすくす笑っていた。

「帰ろう、関澤さん」

 ぼくは言う。関澤さんは、さして否定することなく向きを百八十度変えた。ぼくもそれに倣う。

「え……?」

 そしてぼくは目撃した。関澤さんも、ぼくの見る方向を向いている。宇治くんは不思議そうにぼくたちの様子を眺めているけれど、まだ、気付いていない。ぼくはなんだか、宇治くんに気付かれるべきではないと思った。

「関澤さん、まずは戻ろう」

 だからそう言った。関澤さんも、それには同意を示した。

 宇治くんは最後まで気付かなかった。


 砂浜に戻ると、まず先に監視員の説教をくらうことになった。それもそうだ。ぼくたちの身になにかあれば、監視員さんはきっと、クビになるかもしれない。管理不足だとかなんとかで、損害を支払うことになる決まりになっているかもしれない。ともかくぼくは監視員の具体的な事情について知らないけれど、それでも、必死に海水浴場を監視するような条件が転がっていることは理解できる。だから申し訳ない。かもしれない。

 ひとしきり説教が終わると、他の子たちが近寄ってきた。近寄るというのは物理的なことで、要するに、からかいにきた。坂松さんと矢倉さんと加藤くん。そこに、あの二人の姿はない。きっとさっきの場所にまだいるのだろう。

 ぼくと関澤さんは、その子たちを適当にあしらってあの場所に向かった。

 岩場の隅っこ。人は滅多に来たりしない。そもそも、こんな岩場、もとい穴場があることさえ、ほとんどの人が知らないだろう。ぼくも関澤さんも、偶然見かけるまでは、まさかこんな隅っこに足場があるなんて知らなかった。

 砂浜の端に、大きく出っ張った岩がある。顔にできたニキビみたいに、それは海水を侵食して、もう先に岩しかないように見せている。だけどいざ、その岩を伝って泳いでいけば、隔離されたような砂浜がある。沖のほうからでないと、そこを確認することはできない。

 ぼくたちはさっき、浮き輪に揺られながら見たのだった。

 ……兄貴と社先輩が、二人っきりでその穴場にいるところを。

 さっき見たときは、別にいかがわしいことをしていたわけではなくて、座って、なにやら話し込んでいる様子だった。たまに砂を手で持ち上げて、さらさらと落として。二人っきりで、誰も来ない秘密の砂浜で会話。そんなの、いかがわしい行為でなかったとしてもいかがわしかった。

 ぼくたちは、砂浜の二人に気付かれない程度に、その場所に近づいた。上陸はしない。その途端に自分たちの存在が気付かれてしまう。海水に浸かったまま、大きな岩の隙間に隠れて、兄貴と社先輩の様子を観察した。

 岩は細やかに隙間ができている。そのうちの、絶妙な大きさの穴から、二人の様子を目視することができた。関澤さんも、そういうところを見つけたらしく、岩の隅に隠れて、声を押し殺して笑っている。

 二人は今は座っていなかった。立って、至近距離で向かい合っている。

 ちょうど会話が一区切りしたところらしい。社先輩は少しだけ目を伏せていて、兄貴も社先輩を見つめながら口を塞いでいる。

「ねえ……」

 新たな話題を持ち出したのは兄貴のほうだ。

「関澤ちゃんが、朝言っていたこと、覚えてる?」

「ああ、覚えてる……」


 ――今朝のことだ。今朝はみんな集まって朝ごはんを食べることにした。これは宿のほうからの手厚いサービスで、庭の一部をぼくらのために開放してくれたのだ。そこでご飯を炊いて、汁物を煮込んだ。

 関澤さんはスポンサーだから、あまり働かないようにしてもらっている。関澤さんは申し訳なさそうに、自分も手伝うよ、などと言ってくるのだけど、さすがにそんなことさせるわけにはいかない。今回の宿泊費用は、その九割以上を関澤さんが払っているんだ。そんな人を働かせるなんて、罰が当たる。当たらなくとも、自分たちで自分たちに刑を処してしまいそうだ。

 だから関澤さんは、仕方なく本を読んでいた。家からいくつか持ってきたらしい。ぼくの漫画本の場合と同じく、あまり読む時間を設けられなかったらしい。

 社先輩が、器具を運びながら、なに読んでるんだい、と訊いた。

 関澤さんは本のタイトルを言わなかった。だけれど内容を教えてきた。

 男の子と女の子がいて、二人の人格が入れ替わってしまう話――。

「ね、ねえ! その話では、最後どうやって解決していたの!?」

 兄貴が食いついた。社先輩も、目を輝かせて関澤さんを見つめている。

 関澤さんは兄貴の態度に少し面食らったようだけれど、二人にその本の結末を話した。……のはきっと嘘なんだろう。関澤さんはまだ、最後まで本を読みきっていなかった。それなのに結末をすらすらと二人に教えたのだから、やっぱり、それは仕組んだことだったに違いない。

 関澤さんのネタバレを聞いて、二人はなぜか赤面した。これはまさか、と思いはしたけれど、さすがにその場でそれを実行することはなかった。していたらぼくが殴っていた。まあ、切羽詰ってしなければならないことではないのだし。本の主人公たちとは違って。


「キ、キス」

 兄貴がそれを発言する。隣の関澤さんが、かすかに肩を震わせた。

 それと同じに、なにか無機質な小さい音。それが歯と歯のぶつかる音だと気付くのに、ぼくは結構時間をかけた。

 ぼくは目を瞑った。

 隣で、関澤さんの震えが大きくなっているのが分かった。

「ん………」

「…………」

 ぼくがほどなくして目を開けたときには、二人は無言で向かい合っていた。兄貴の手が、社先輩の腰にまわっている。

 二人とも無言だ。なにも語らない。語らないように、聞こえないように意識しているんだ。ぼくや関澤さんに聞こえることではない。相手、つまり見つめている相手に。

 二人は赤面もしてはいなかった。ただ見つめ合っていた。その色をなんというのか、ぼくの語彙ではとうてい思いつきもしなかった。二人は見つめ合った。それがどれほどの時間なのか、ぼくは手に取るように分かった。もどかしい時間の進み具合に憤りを感じた。だけどそう思うのはきっとぼくだけだ。関澤さんは笑っていなくて、ただ、二人の顔を観察しているようだった。彼女の真面目な顔というものを、ぼくは初めて見たかもしれない。

 二人の空間は終わらない。ぼくは、この後二人がどんな行動を起こすのか気が気でなかった。すると、二人は抱き合いだした。今度は赤面していた。関澤さんも、はっと息を飲んでいた。

「おまえが抱きしめてんのは、俺なのか、それともおまえなのか」

 社先輩が、軽口にそう言った。だけれど喉が震えているのは明白だった。今にも泣き出してしまうんじゃないだろうかと、ぼくは思った。だけれど社先輩は、気丈にも涙を流さない。少し瞳を潤ませるだけで、決して、涙を流さないように自分を言い聞かせているように見えた。

 兄貴のほうは、臆面もなくいちいち泣いていた。それが普通だった。頭を打ってから兄貴は、よく泣く。この前の登山のときもそうだし、その前も。

 階段で転ぶよりも前のころの兄貴は、ちょうど、今の社先輩のような人だった。

 ぼくは自分に嫌悪感を抱き始めた。兄貴と社先輩のこの様子を、覗き見る権利がぼくにあるだろうか。関澤さんにあるだろうか。

「ね、ねえ関澤さん」

 ぼくは関澤さんの傍に寄って、彼女の肩に触れた。ぼくと劣らず小さな肩だ。

 彼女はだけれど、ぼくのほうを向かなかった。無視された。哀愁とともに、ぼくは一瞬だけ自己憎悪に苛まれた。だけれどそれが無視ではないことに気付くと、ぼくはまた、兄貴たちの様子を眺めないことにはいかなかった。関澤さんが、少し大袈裟に唾を飲み込んだ。うなじが小刻みに居座っている。

 兄貴と社先輩は、抱きしめあったまま倒れこんでいた。またキスをした。兄貴は泣いていた。社先輩は涙を堪えるのに必死そうだった。

 ただ抱きしめて、唇を合わせているだけだ。それなのにものすごく艶かしく感じた。ぼくの体の奥底を、冷たいものがすぅっとなぞっていく感覚がした。視界の向こうで、高校二年生の男女が絡み合っている。どう見てもいやらしい光景にしか見えなかった。だけれど実際には、ただキスしているだけの(だけの?)、健全な青春からによる行為だ。艶かしい点もなければ、法を逆撫でするようなことでもない。

 ……実を言うと、口付けを直に見るのは人生で初めてだ。初キス。ぼくがしたわけではないのだけど。

 今更になって海水が冷たく感じられてきた。もう陸に上がってしまいたい。だけれど兄貴たちの動向から目を逸らすことができなかった。目を逸らしたら負けだ。なにに対して負けるのかはまったく分からないのだけど、それでもぼくは、目を逸らしてはいけないと思った。ぼくからの監視が途切れた途端に、二人はついに違法なことに手を染めてしまうような、そんな気がしてならないんだ。

 二人はもう、抱き合うことをやめていた。

「……たぶん、そのどっちでもないんだと思うよ」

 兄貴が声を出す。

「私は雄吾を抱きしめたわけでも、私を抱きしめたわけでもない。物理的には、私を抱きしめたことになるんだろうけど……。私が抱きしめたのは、この真実だよ。真実」

「真実……」

「こうなってしまった真実。それを抱きしめて、なんなのかも分からないのに抱きしめて」

 二人は、もとからいやらしい行為に染まるつもりは毛頭なかったみたいだ。ぼくの情けない勘違い。兄貴も社先輩も純情だ。なんなのか知らないけれど、兄貴たちは問題に直面している。それならぼくに相談してくれてもいいのに、二人だけで塞ぎこんで。たぶんベランダでの会話は、そういったことへの会話だったんだろう。それがいったいどんな問題なのか、ぼくはまったく知らないのだけど。

「帰るか」

 社先輩が言った。

 そのすぐ後に、ぐいとぼくを引っ張る力。関澤さんだ。そうだ。いそいでここを立ち去らないと。兄貴たちは、もう海水に入ろうとしている。砂場から離脱しようとしている。すぐ近くだ。

 ぼくは関澤さんの機転に従って、水に潜って岩場を伝った。

 なんとか、兄貴たちに発見されることなく宿に戻ることができた。部屋には既に、坂松さんと矢倉さんがいる、二人はなにやら談笑していたようだ。

「あ、おかえりー」

 矢倉さんがそう言ってくる。

「た、ただいま……」

 なぜか塞ぎこんだ声になってしまった。もうすっかりこの人たちには慣れたはずなのに……。

 そうだ。兄貴のせいだ。ぼくはどうやら、動揺しているらしい。それもそうだといえるけれど、一緒にいた関澤さんのほうは顔色一つ変えていないのだから、やはり、ぼくがまだ友達というものに馴染めていないからなのかもしれない。

「聞いた? 明日のこと」

「明日?」

 坂松さんの声かけに、関澤さんが反応を示す。知らないらしい。

「宿泊は明後日までだよね……」

 会話の脈にそっているのか分からないけれど、ぼくはそう口を差し入れた。

「そう。だからちょうどグッドタイミングなのよ」

 そう言って、坂松さんがその辺に広げられている紙を指差した。紙。関澤さんと一緒にそれを覗きこむ。広告だ。

〈Y**花火大会〉

 明日が開催日だ。

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