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 暗くなってきたから宿に戻ってきた。部屋はみっつ借りた。本当は男女の二部屋にするつもりだったのだけど、兄貴と社先輩がどうしても一緒の部屋にしてほしいと、金は払うからと、そう懇願したのだった。いったいこの二人はなにを考えているのか分からないけれど、関澤さんも強く同調したから許諾された。さらに関澤さんが金を支払うというのだから、なおかつ怪しい。関澤さんは、二人にいやらしいことをさせたいのだろうか。そもそも二人はなんの目的で同室にしてもらおうとしたのだろうか。やっぱりいやらしいことしたいのだろうか。ちょっと待っていつの間にそんな仲になったんだ。と、ぼくの頭は一時期、混雑した山手線の電車内みたいになっていた。

 三つの扉が並んでいる。一番左側が宇治くんと加藤くんの部屋。一番右側がぼく含める女子四人の部屋(ちなみに他の部屋よりも少し大きい)。真ん中が兄貴と社先輩の部屋だ。

 夫婦気取りかよ。一緒に部屋に入る二人を見て、ついそう思った。だけれど二人とも、顔は笑っていない。逃げ場を求める小動物みたいに、部屋に入っていく。

「ねえ、寺本先輩と社先輩って、付き合ってたのかな」

 案の定というべきか、部屋に入った途端に坂松さんがそう発言した。矢倉さんもそれに同調して、ぼくに意見を求める。

「知らない」

 ぼくはそれだけ言って、布団を敷き始めた。

「え、もう寝るの?」

 そう指摘されて、恥ずかしくなって途中でやめた。まだ温泉にも入ってないのに、夕ご飯も食べてないのに、眠るわけがない。眠らない。眠らないのだから布団はまだ敷かない。いつも家ではベッドだから考えが及ばなかったけど、布団は普通、寝る直前に敷くものだ。

 ほどなくして夕食がやってきた。豪華だ。魚の身が開いている。頭がおまけになっている。これがもし人に置き換わったらなんてグロテスクな妄想がちらついた。お茶が急須に入っている。なんてお洒落なんだろう。とにかく上品で、綺麗で、美味しそうで、実際に美味しい。

 漫画本は持ってきているけれど、読む暇がない。暇そのものはあるのだけど、それを読むだけの葛藤に打ち勝つ心というか、なんというか、部屋の子たちの会話から抜け出せる気がしない。ああ、あの宇宙スーツどうなったんだろう。まさか主人公が、あの男の人ではなくて宇宙スーツのほうだったなんて。続きは鞄の中に。

 部屋には広く開いたベランダがある。山のほうを向いている。ぼくはベランダに出てみた。漫画を読む暇がなくても景色を見る暇はあるのだから、宿泊というものは不思議だ。

 もう暗い。闇を照らすような灯しが、ほとんどないせいだ。まるで引き込まれていくみたいに、ぼくの目は暗闇に馴染んでいった。他の子たちもそうらしい。唾を飲み込むことも忘れて、しんしんと繁っている木を眺めている。眺めているのは木のほうかもしれない。向こうになにかがいる錯覚に陥った。そんな、ある種では神秘的な景色だ。

 女中みたいな人が、なにも載っていない皿を取りにきた。夕食の残骸だけが、隅のほうで肩を縮めている。ぼくはそれに目をくれてやらなかった。残滓は燃やされればいい。暗くない。決して、暗くなんかない。

 横を見ると、そこに兄貴がいるのが分かった。顔は見えない。この宿は、ベランダが繋がっているらしい。だけれどそれだと迷惑な客がいたら困るから、人が通れないように少しでっぱった仕切りができている。そんな状況で兄貴の姿を目視することができたのは、向こうが体を前のめりにしているからだ。

「……大丈夫か」

 そんな声がした。社先輩の声だ。たぶん兄貴の後方にいるのだろう。

 兄貴の顔が引っ込んだ。ベランダの柵に前のめりにするのをやめたのだ。

「もうすぐ温泉だよ」

 兄貴がそう言う。やはり声が女々しい。

「どうするの? 私、そんなに強くないよ。雄吾のだけでもう、死にたくなったのに」

 兄貴が自分を下の名前で呼ぶのには、とてつもない違和感があった。はっきり言って気味が悪い。

「あ、そういえば菊恵、それと(ひとみ)

 関澤さんが、坂松さんと矢倉さんを小声で呼びかけた。この三人は、まだ隣の部屋の様子に気付いていないんだろうか。

「なに?」

 関澤さんが小声をするものだから、坂松さんも小声で返した。眉を曲げているから、たぶんまだ兄貴たちの声に気付いていない。

「言い忘れてたんだけど、加藤がなにか、用があるってさ。それと、瞳は宇治くんに」

「え……」

「菊恵はたしか、この宿のお土産店のほうかな。それで、瞳は宿の外の、あの大きな木が立っていたところ」

 告白?

 なんだか分からないけれど、関澤さんに言われるまま、二人は部屋を出て行くことになった。二人とも不可解な顔をしているが、男子に呼び出されたことに興味を持ったのか、特に抵抗を示すことなく部屋を出て行く。

 ベランダにはぼくと関澤さんだけになった。

「…………」

「…………」

 ぼくらはなにも話さない。とりあえずぼくは、その間も繰り広げられていた、隣の会話に耳を潜めた。

「女って、実際はそうなのか。俺のイメージでは、男のそういう部分を見ても特になにも思わないと思っていたんだが。……それとも、社、おまえが特別なのか」

 社先輩がそう言った。

「知らないよ。人を女で纏めないで。私は私だけなんだよ。女だからこうだ、なんてあるわけない」

 兄貴がそう言った。そこまで聞いて、関澤さんが声を押し殺して肩を震わせた。笑っている。

「たとえば、雄吾はどうなの? 私の裸、当然もう見たんでしょう? じゃないとお風呂にも入れないんだもんね。それで、どう思ったの?」

「そりゃあ、おまえ……」

「……サイテー」

 こんがらがってきた。「男のそういう部分」とか、「裸」とか、なにやら不穏な会話をしている。だけどそれが会話として成り立っているのか、まったく分からない。兄貴は兄貴自身を雄吾と呼んで、自身に向けて言葉を発している。女々しい口調で。そして社先輩も、まるで男のような言葉遣いで話している。どうなっているんだ。

「男はみんな同じなんだよ。女は違うのかもしれないが、男は同じだ。女の裸が見られるのなら、見るのが当然だ」

「分かったから、それ以上言わないで」

「それで、これからの風呂をどうするか、だな」

 社先輩が話題を元に戻す。いちいち男口調なのが紛らわしい。なんだか頭を打つ前の兄貴みたいだ。仲がいいと言葉遣いも似てくるのだろうか。

「私は、入らない。水着に着替えるところに、個別のシャワールームがあったでしょ。そこを借りる」

「……まあ、それなら俺以外の裸は見なくて済むな」

「雄吾は、どうするの? 一緒に行く?」

「一緒に行くって……誘っているのか」

「なんでそういう思考になるのよ!」

 兄貴がヒステリックに声を荒げて、それから数秒だけ沈黙が流れた。また兄貴の頭がベランダからはみ出て、ぼくの視界に入ってきた。それと同時に、傍にいた関澤さんがぼくの体を強引に引っ張る。

「へ?」

「し、静かに」

 関澤さんが、ぼくが声を出さないように口を手で押さえた。ぼくは引き倒されてしまって、横になっている。

「よし……気付かれなかったみたい」

 関澤さんがそう呟いて、ごめんね、大丈夫、とぼくに訊いてきた。口を押さえられているから返事ができない。関澤さんは、声を出さないでね、とだけ言って口を解放した。ぼくは彼女に抗議の発言をしようとしたけれど、しっ、と唇に指を立てられる。

「誰もいない、よな」

「大丈夫みたい。ごめん。大きな声出して」

 兄貴が社先輩に女々しい声で謝った。

「俺は、正直言うと女の裸が見たい」

「うっ」

「だけど大丈夫。俺はおまえの体にイタズラとかちょっとしかしねえよ」

「ちょっとはするの!?」

「じゃあ……おまえに許可貰ってからやるよ」

「ぜったい許可とかしないんだけど!」

 二人の応酬らしき話は先の見えないまま進んでいく。

「分かった。そんな顔するなって。普通の俺はそんな顔しないって」

「…………」

「俺もシャワールームに行くよ。それでいいんだろう」

「……うん」

「一緒にシャワーするのか」

「しない」

 沈黙が流れて、ドアが開く音がした。兄貴たちがシャワーに向かったのか、最初はそう思ったけど、さすがに隣の部屋のドアの音が聞こえてくるわけはない。そんなに安っぽい宿ではないのだから。

 振り向いたら、不機嫌そうな女子が二人、ぼくと関澤さんを睨んでいた。

「なによもう! ただの嘘だったなんて」

 帰りに買ってきたらしいスナック菓子を口に投げ入れながら、坂松さんはそう怒鳴った。顔が赤いのは、潮風に当たったからだろうか。夏なのに。

「ごめんごめん。すぐ訂正しようとしたんだけど、思ったより二人とも乗り気だったから」

 関澤さんが取り繕う。笑う。

 ……この人はいったい。

「さあ、それじゃあ温泉行こ! 温泉!」

 坂松さんがそう言って、ぼくと関澤さんは顔を向かい合わせた。目の表情だけで、これからどうするか相談してくる。だけどぼくは、目だけじゃ意思を伝えられない。そんなコミュニケーション能力は持っていない。

「温泉行こうか」

 だからぼくは、実際に声に出して意思表示をした。そうそう、行こう! って坂松さんが手を上げる。

 温泉。湯気が体の内側から込みあがってきて、ほかほかした空気に侵されている。試しに頭にタオルを置いてみたら、割と落ちないようにバランスを取る必要がないことに気付いた。安定している。温泉は室内と室外のものがあって、透明のドアで隔てられている。ぼくら四人は室外の熱いお湯に浸かっていた。お湯の中は本当に熱いのに、頭のほうは風が冷たい。夏なのにお湯の熱さで寒く感じる。特にお湯と外気の境界は、不思議な感覚に包まれていた。

「あれ? そういえば社さんは?」

 矢倉さんがそう言う。ぼくは首を振った。それを見て早合点してしまったらしく、矢倉さんは「ああ、そうか……」と神妙に頷いた。

「ねえ寺本さん、普通、初体験ってどれくらいの年でするものなんだろう」

「は?」

「いや、だから。社さんと、寺本さんのお兄さんって、今頃――」

「は?」

「いや、だから」

「坂松さんちょっと黙って」

「二人で部屋にこもって」

「黙れ」

「はい」

 でも、その可能性もないことはなかった。ベランダでの会話を聞いていると、こんがらかってどうしようもない頭をさすっていると、どうしてもその可能性も考えないといけない。二人でシャワールームに行って、いったいなにをしようと。せっかくの温泉に入らずに、わざわざシャワールームに行く意味。

 温泉とシャワールームの違いがなにかというと、それは、個別で使用できるかどうかということだ。温泉の場合、この広い温泉を一人で占領することはできない。だけれどシャワールームの場合、水着に着替えるためのあの場所は、狭いけれど一人だけの空間を作り出すことができる。そこに、二人で一緒にいたら。

 寒い感覚のほうが勝ってきた。うええ。

「でも、そう考えるとこの宿って、カップルにとっては不便だよね」

「……なんで?」

 矢倉さんの発言に、ぼくは反応を示す。心内では、兄貴たちがカップルなわけないじゃん、とツッコミたかったのだけど、断言できないというか、もうあの二人が付き合っているのは本当のことのように思えてきてしまった。

「だって、部屋にはトイレしかないじゃん。お風呂に入るには、温泉を使わないといけないでしょ? それって、部屋で行為したら、洗うには温泉行かないといけないってことだよね?」

「あー確かに」

 矢倉さんの意見に、坂松さんが同意する。なんでこういう話で盛り上がれるんだろう。

「たぶん、あの二人はなにもしないと思う」

 突然、さっきまで黙っていた関澤さんが言葉を発した。

「……どうして?」

「たぶん、あの二人がやるのは来年の夏休みだろうね」

 そう予言する。

「ねえ関澤さん」

 ぼくは、今日感じた疑問をそのまま口に出そうと、彼女の名を呼んだ。

「でもやっぱり、由美っておっぱい大きいねー」

 だけど関澤さんは、強引に話を捻じ曲げてきた。まだ質問もしていないというのに。まるで見透かされたみたいに。しかも下の名前で呼び捨てだし。

「いやいや、大きくないって」

「大きいって!」

 坂松さんが興奮した調子で食いついてきた。なんだこの人、胸の話になると元気になって。海に入るときそれで死にかけたから、坂松さんのこの様子は気が気でないのだけど。

「というか由美って、背が小さいわりにってところあるよね」

 矢倉さんも話に便乗してくる。ついでにこの人も「由美」呼ばわりだ。

「そうだよ! 寺本さん、その背でそれは大きいんだって!」

 興奮してて流れが掴めていないのか、坂松さんはまだ苗字で呼んでくる。そっちのほうがまだ気がラクなのだけど。

「というか、背が低くて悪かったね」

「悪いよホントだよもっと背伸ばしなよ!」

 坂松さんのマシンガンのような発言に、さすがに熱が逃げていった。のぼせることはなさそうだ。むしろ坂松さんがのぼせたりしないか心配。

「由美ってなんセンチ? 一五〇くらい?」

「……一四七」

「ぷっ」

「笑うなあ!」

 坂松さんの首元を締めにかかった。遠くでおばさんたちがおかしそうに笑っているのが見える。でもそんなこと気にしない。これが高校生だ。これが。

 温泉から覗く空は、もう真っ暗で星が散りばめられている。白い星。砂粒のような星。ただ月だけが異様に大きい。魂を吸い取ってしまいそうなぐらい大きい。

 身長の低いのは気にしていたけれど、それを言ってくれる友達はいままで、高校に入ってからいなかった。たまに兄貴が嘲笑ってくるけれど、それだけだった。だからこれは、ぼくにとってはとても大きな進展でもあった。兄貴と社先輩が変になってくれたおかげで、ある意味、ぼくはだんだん幸せの階段を上れているんだった。

 それはつまり、兄貴が対価を払ったみたいに、もう取り返しのつかないことのようだった。


 浴衣というものを経験しながら、自分たちの部屋へ戻ろうと廊下を歩くと、加藤くんと宇治くんに遭遇した。

「お」

「あ」

 宇治くんは飲料水を飲んでいて、加藤くんはアイスクリームを舐めていた。売店の前の、簡易的に設置されたベンチで。

 この宿、質素なようでいろんな施設があるなぁ。そう思いながら、ぼくは部屋に戻ろうとしたのだけど、宇治くんのほうがぼくを呼び止めた。

「なあ、寺本」と言って。

「……なに?」

「おまえの兄貴、さっき外で見たんだけど」

「……あ、そう」

 だからなんだというんだろう。

「もしかして、社さんとおまえの兄貴って……恋人同士なのか?」

「むむ?」

 坂松さんが話に興味を示す。

「知らない」

 ぼくは正直に答えた。

「なにがあったの」

 坂松さんがぼくの疑問を代弁した。

「いや……手つないで歩いてたから」

「やっぱり、あの二人……」

 坂松さんが呟く。

「だけど私、そういうのは大学生になってからのほうがいいと思う」

 なぜかズレた発言をする矢倉さん。

「行こう、由美」

 男子たちの発言には耳も向けないで、立ち止まったぼくの手を関澤さんがとった。ぼくもそれに同じて、関澤さんと手をつないで部屋に戻る。

 廊下は綺麗に清掃されていて、埃はまったく見えやしない。ちょうど良い加減でランプが灯っていて、それが遠慮がちに関澤さんの顔を照らした。なにがおかしいのか、にやにやとした表情をしている。

「ねえ、関澤さん」

「なに、由美」

 ぼくは言う。

「なんで温泉のとき、来年の夏休みにその、あれだって言ったの?」

「ただの勘だよ」

 関澤さんは、迷うことなくそう言った。

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