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 玄関から入ってきたのは兄貴と社先輩だった。てっきり部屋にいると思っていたのに、いつの間に家を出ていたというのだろう……。

「よう、なんだか久しぶりだな、由美」

 兄貴がそう言って、ぼくはその違和感に一瞬戸惑った。

 隣の社先輩はいつもより内股に見える。

「兄貴……?」

 治ったんだ、そうじわじわと実感した。

「どこ、行ってたの」

 兄貴から目を逸らした。その先には社先輩の足があった。関澤さんは珍しく静かにしている。兄貴と社先輩は、互いに顔を向かい合わせて、爛々と綻んだ。

 ――二人は、学校に行ってきたそうだ。この雨の中、夜の学校に忍び込んだ。今日の雨の様子は、あの元気な雲の様子は、七月のあの二日間を思い起こさせる――。まさしくあのころの再現だった。暗い雲が、まるで汚らしい雑巾のように、捻じ曲げられて、力を入れて、水をひねり出している。はじめはどっぷり、それからもねちねちと。降りやむことを知らない。今日のこの空模様は、明らかに、七月のあの日と同じ様子だった。

 二人は、夜の学校に忍び込んで、抱き合ったそうだ。抱き合う。なんてことしているのだろう。……と思うが早く、その理由を聞かされる。

 ぼくの兄貴は転がって。

 社先輩も転がった。

 二人して、危険を顧みずに、七月のころと同じ階段を、今度は意図的に転がり落ちた。それがなにを意味するのか、どんな目的があるのか、二人の解説を聞いても、ぼくにはまったく分からない。靄がかかったみたいに、イヤホンをつけたまま会話しているみたいに、曖昧だ。いや、やっぱり曖昧でもなくて、完全に、二人のことがわけ分からない。

 ともかく、帰ってきた兄貴は、もとの兄貴、一ヶ月ぶりの兄貴に戻っていた。今思うと、口調が社先輩と似ている気がしないでもない。と思っても、社先輩はすっかり女らしい細い声になっていて、こんな声だったっけ、と疑問に思うけれど、どうしてもよく分からなかった。ぼくには人を見る目がないらしい。

 二人は笑みを隠し切れずにいるみたいで、にたにたと、頬を持ち上げていた。向かい合って良い雰囲気になっていてなんだかここにいていいのかも分からなくなってくる。

「もうこんな時間だ」と言ったのは、関澤さんだった。ぼくも兄貴たちも、壁にかけられた時計を見遣る。深夜だ。

「寝るか」

「寝よう」

 兄貴と久々に言葉を交わす、ような感覚に苛まれる。そのたった三文字ずつの応酬に、ぼくは妙な感動を覚えた。それと同時に、なにか、釈然としないわだかまり。

 階段を上る。階段は急だけれど、きっとぼくが転ぶことはない。もう慣れてしまった。上りきって階下を見た。二人も上ってきている。社先輩はもうすっかり、うちの階段の角度に慣れたようだ。今日も兄貴の部屋で泊まっていくんだろう。

「これからえっちですか」

 関澤さんが、呟いた。呟くといってもそれは大きな声で、二人の耳にも、ぼくの耳にも容易に届く。それを聞いて、兄貴がまんざらでもない顔をした。なにか大きなことを達成したあとの、誇らしげな顔。ふふん、背景にそんな文字が浮かぶ。対して社先輩は顔を赤らめて、それで、兄貴の表情を見てなにやら幻滅したように口をへの字に曲げて。

「帰ります」

 社先輩のその声も、よく聞こえた。

「おいおい、今から帰るのかよ。この雨の中で?」

 兄貴が反問する。確かに、今は深夜だ。それに雨も降っている。そんな中を、今更家に帰るというのは、やめておいたほうがいいのではないだろうか。

「あー確かにそうだね。じゃあ、由美ちゃん」

「はい?」

「一緒に寝ない?」

 兄貴の目が少しだけ鋭角に近づいた。それを見て社先輩が苦笑いする。

「え、やですよ。ただでさえ関澤さんがいて狭いのに」

 ぼくは本心からそう言った。なんだかよく分からないけれどぼくは加担しない。しないから。えーお願いよ。やです。いいじゃねぇか俺のとこで寝れば。これからえっちですか。関澤ちゃんは黙ってて。

 ……そんな問答を続けているうちに、雨がやんだ。ぱったりと。目的を果たしたみたいに、ぱったりと。雨音が消えた。

 社先輩は、結局家に帰ることになった。久しぶりの帰宅とのことで、ちょっぴり嬉しそうだった。夜道は危険だということで、兄貴が家まで送っていくことになった。今度はこっそり出て行くのではなくて、堂々と、ぼくと関澤さんに見送られて、二人は玄関を出て行った。外は真っ暗だった。

 関澤さんは宇宙スーツの漫画に読みふけっている。こんな漫画、読んだことない! と、関澤さんは稀に見る興奮状態だ。ぼくはその間に、母親に電話をかけることにした。時差があるから、向こうは深夜ではない。

「あら、由美。そっちから電話なんて珍しいじゃない」

 もしもしというぼくの言葉だけで、母親はそう返す。それがこの人なりの挨拶なのだろう。

「兄貴のあれ、治ったよ」

「あら、長引いたのね」

 母親の声に、心配の色は見られない。兄貴は怪我が多い人。これくらい、なんでもない。

 なんとなくおかしかった。こんなに心配したのに、それは些細なことにすぎなくて、長い人生の一片に過ぎなくて、それを心配しているぼくと、あまり気にしていない母親と、よく分からない当事者がいて。なんだかおかしく感じてきていた。

 長引いたといえば、母親の出張も長引いたな。そう思って、そのままそれを口にした。母親も「そうねぇ」と答えて、なんだか、兄貴の様子よりも自分の忙しさのほうが気にかかっているようだった。一ヶ月以上の出張なんて、それも母子家庭のところにくるなんて、珍しい。

「きっとあれよ、きっと」と、母親はきっとという言葉を繰り返して、言葉を紡ぎだした。

 ――親がいたら邪魔な、青春さかりの夏休みだったんじゃない?

 ぼくは母親のその言葉に、心から納得してしまった。兄貴と社先輩。おかしくなってはいたけれど、きっと、これは、縮尺して考えればただの恋だ。恋愛だ。ぼくの目にはそう映ったし、きっと坂松さんの目にも、矢倉さんの目にも、関澤さんの目にだってそう映ったに違いない。これは二人の、恋愛の物語――。この夏休みは、つまるところ、そうだったんじゃないか。怪我ばかりの兄貴に訪れた、癒しの夏だったんじゃないか。

 ぼくの兄貴は転がって。

 社先輩も転がった。

「ふふ」

 ぼくの沈黙から、なにか読み取ったのかもしれない。母親が小さく笑った。ぼくもつられて口元を曲げた。なんだか母親とすぐ近くにいるような感じがした。

 おつかれさま。

 そう言って通話を終える。少し、長電話だったかもしれない。時計を見てみると、虫もすっかり寝静まる時間で。夜更かしは肌に悪いなぁと、柄にもないことを気にかけてみた。

 ふいに静寂が訪れる。本当に虫もなにも寝静まっていて、起きているのが、もしかして世界でぼくだけなんじゃないのかって、そんな静寂。静けさににおいがあるのなら、ぼくは、それを気にしない様子を装いながら、鼻をひくつかせるのだろう。

 なんとなく気になって、玄関から外に出てみた。扉を開けた途端に、雨の残したにおいが鼻腔に広がる。懐かしくもやさしいにおい。くすぐったいにおい。

 真っ暗だ。ぽつぽつとたつ電灯が、弱い光を発しているだけで、むしろその光が、暗闇をいっそう強くしていた。家の敷地からも出て、道の先を眺める。誰かいそうで心細い。でも誰もいないという確信のような曖昧なものも同時にあった。ぼくは向こうを眺めて、暗闇にもムラがあるんだってことに気付く。どこも一辺倒に暗いんじゃなくて、あるところは深くて、あるところは浅い。あるところには白がちょっぴり混じっていて、あるところには黒にまた黒が上塗りされている。それらが複雑に入り組んで、ひとつの暗闇という集合体を作り上げていた。綺麗だ。不思議とそう思った。

 肩をつかまれる。

 背中を恐怖がなぞった。

 振り返ってはいけない。振り返ってはいけない。ホラー映画の映像が、フラッシュバックする。振り返ったら――。一瞬にして体のすべてがかたまった。銅像になったらこんな気分なのだろう。すべてがすべて。動かない。動けない。大声を上げようとして、喉がつっかえる。声が出ない。怖い。怖い。

「由美ぃ、なにやってるの?」

 視界に現れたのは、関澤さんだった。

「関澤さん……」

「なに、なぜに涙目」

「えっ、涙目?」

「うん。恥ずかしいね」

 夜道は危ない。よく聞くそんな言葉を、心の底から実感した。

 関澤さんは、宇宙スーツの漫画を最後まで読みきってしまったらしい。なんて速読家なんだ。関澤さんは読後の余韻に浸りながら、ぼくに感想を語ろうとして一階に下りたのだけど、ぼくがいなかったから、外に出てきたそうだ。ぼくが外にいたことがなぜ分かったか聞いてみると、「だって、扉が開いてたから」って、当然のことを返されて閉口した。

 語りだした関澤さんを置いて、家の中に戻る。暗闇よりも明るいほうが良い。家に入ったらすぐ、そんな結論に落ち着く。綺麗であっても扱いにくいものというものは、敬遠されてゆくのだろう。

「ちょっと待ってよ。それでさ、宇宙スーツが最後に」

「あーだめだめ! ネタバレ禁止!」

 ついてきた関澤さんから逃げるように部屋に駆け込む。関澤さんは玄関の扉をしっかり閉じてくれたようで、不気味な音がかすかに伝わった。少し迷ってから、ぼくは部屋の鍵を閉めないことに決める。

 関澤さんが部屋に入るのと、ぼくが布団にもぐりこんだのは、ほぼ同時のことだった。

「ネタバレ禁止!」

 彼女がなにか言うより先に、ぼくはそう口走った。ネタバレ禁止。まだぼくは最後まで読んでいないのだから。

「分かった分かったよ」

 関澤さんは軽くそう言い放って、ベッドの中にもぐりこんできた。ベッドが狭くなる。布団のぬくもりが鬱陶しくなった。ぼくは関澤さんに背を向けて、でもどうやら、関澤さんはぼくの背中を見つめているようで。ぼくは特に怒っているつもりはないのだけれど、このまま向かい合いになるのも億劫で、そのためにぼくは動けずにいた。背中に凶器をつきつけられた兵士みたいに。ぼくはとまってて、関澤さんはくすくす笑ってて、この子が友達なんだということが、よく分かった。

 静寂が喉に来る。なんだかよく分からないけど喉に来る。ぼくはかすれた声を出した。それを聞いて関澤さんがまた笑う。ぼくは全然怒っていない。関澤さんもそれを分かってくれている。ぼくには友達がいる。ぼくには友達がいるんだ。なにを今更。ぼくは胸から込み上げてくるものを、一生懸命、喉のところで押し込めた。

「ねえねえ、由美」

 背中を声が撫でる。

「なに?」

「つまんない」

「…………」

 薄々感じていたことが、ずばりと背中に刺さった。

 友達がいるということに、こんなにも感動しているばかもの。それだけのことに安心している保守的なばかもの。それでもぼくは彼女に背中を向けている。

「そういえば、科学コンクールどうにかしないと」

 ふとそう口に出す。

「科学コンクール? なにそれ」

「科学のコンクール」

「そのままじゃん」

 人というものは自分が思っているほど他人に興味があるわけでもないし、一部の人だけが興味を持ってくれるものだし。そのことと友達というカテゴリは、実はあんまり関係がなくて、ぼくがどんな生活を送ってどんなことを考えてどんな夢を持っているのかは、友達だからといって、知らなくてもいい。分からなくてもいい。それでもなにも困らないし、まず困ることがないし。友達ってなんだろう。ふとそう思って、悟って、体を縮めた。

「関澤さん」

「うん?」

 関澤さんは本当につまらなくなったみたいで、先ほどのようには笑っていなくて、ぼくの背中をなぞって遊んでばかりいる。関澤さんを呼びかけたのはいいけれど、特に言うことなんて考えてなくて、結局なんでもないって言った。また沈黙が訪れた。

 でもふと、ぼくも関澤さんについてあまり興味がないことに気付く。興味はあるかもしれない。だけれど、現に、ぼくは彼女のことを知らないじゃないか。関澤さんが科学コンクールを知らなかったみたいに、ぼくは、彼女に対する共通項をこれっぽっちも持っていないじゃないか。

「あの……関澤さん」

「うーん?」

 彼女に訊きたいこと。彼女から知りたいこと。

 ぼくは背中を揺り動かした。なぞっていた関澤さんの指が、ふにゃりと骨をつっつく。

「明日、みんなでどこか遊びに行こうよ」

「そうだね。連絡してみよう」

 二つ返事。ぼくは自分の体を抱きしめて、後ろにいる関澤さんの表情を想像した。ベッドの上は狭いけれど窮屈ではない。それはぼくが小さいからなのかもしれないし、関澤さんが小さいからなのかもしれないし、ベッドが大きいからなのかもしれない。

 理由をひとつに決め付ける必要はないんだ。あることが起こって、その原因をひとつのことのせいにしたら、そのことが悪になってしまう。晒しあげられて消されてしまう。雨が降って、転がって、抱き合って、二人がいて。そのどれが悪なのかは、気にしなくていい。どれも悪ではないのだろうから。

「兄貴、遅いね」

「仕方ないよ。今頃先輩の家では、娘が男を連れてきたって大騒ぎになっているだろうから」

「…………」

 やっぱり、狭くてもぼくの部屋で寝てもらったほうがよかったかもしれない。

「まあいいや。それでね、宇宙スーツの話だけど、最後あのコールサック人が――」

「おやすみ!」

 ぼくは耳を塞いで、眉間に力を入れた。

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