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目が覚めた。時刻を確認する。午前二時七分。なんとも中途半端な時間に目が覚めてしまった。
再度眠りにつこうとしたが、寝つけない。
六月の半ば、窓を締め切っていたため室内は非常に蒸し暑かった。電気をつけて、リモコンを探し、冷房をつける。
一連の動作を終えた時には意識が完全に覚醒してしまっていた。二度寝をしようと布団にもぐるがすっかり目がさえてしまって眠れない。
ふとなんの前触れもなく思い出したものがあった。異世界にいく方法というやつだ。
一か月ほど前にネット上で見つけたものである。
誰しもが思うことだろうが、私もこの世界には飽き飽きしていた。
機会があれば試してみようと思っていたが、いかんせん私はものぐさな性格である。いつかやろう、いつかやろうと先延ばしにしているうちにすっかり忘れていた。
なぜこのタイミングで思い出したのかはわからない。きっと偶然だろう。
とにかくいい暇つぶしができたということで、さっそく準備に取り掛かった。
その異世界に行く方法というやつはわりかし有名なものらしい。
一般に『飽きた』と呼ばれているようだ。
やり方は非常に簡単。正方形の紙に六芒星を書き、その真ん中に「飽きた」と書き込む。その紙を持って寝り、起きた時に紙がなくなっていれば成功。異世界に行けるとか。
なんでも赤で文字を書くと効果が上がるらしい。
さっそく作業に取り掛かかる。
オカルト関連のことをやるのは小学校の時やったこっくりさん以来だ。
私がイタズラで十円玉を動かすとクラスメイトが本気で驚いていた。面白がって適当にしね、とかころす、とかいうふうに動かしていたら一緒にこっくりさんをやっていた女の子が泣き出してしまったのを思い出した。
あのころは楽しかった、と懐かしさに浸る。
そしてすぐに現在の友人もほとんどいない、ひどく退屈な生活を思い出し、少し落ち込む。
どうせ異世界に行くなら変化は少しでも大きい方がいい。
せっかくだから赤の文字で書いてやろうと赤ペンを取り出すがインクが出ない。長い間つかっていなかったせいか固まってしまったようだ。
赤ペンを買うためだけに深夜コンビニへ行くというのもおかしな話だ。しかも赤ペンを使う目的が異世界へ行く魔方陣を書くためときた。ばかばかしいにもほどがある。
そのとき思いついた。インクがなくても赤い文字を書く手段ならあるではないか。
私はカッターを引出から取り出すとガスコンロの火であぶった。
これで消毒はできただろう。あぶった刃を水道水で冷やし、水けをふく。
左手でカッターを持ち、右の人差し指を刺した。
普段ならば絶対にやろうと思わないことだが、実行するのに抵抗はなかった。深夜のテンションというやつだろう。痛みもさほどなかった。
指から流れる血を見ると気分が高揚するのを感じた。
用意した紙に指先で不格好な六芒星を書く。漢字を書くには血が足りなかったので、ひらがなで「あきた」と書いた。
呪術の類で血液を使うのはもはや鉄板である。さぞ強い効果が出るに違いない。
出来上がった異世界へのパスポートを左手に握りしめ、布団にもぐりこむ。
自分の血まで使ったのだ。きっと成功するに違いない。
私は根拠のない確信を持って眠りについた。
本当に別の世界へ行きたいのですか
行きたい
今の世界に未練はないのですか
ない
後悔はしませんか
しない
ではあなたを守る力を与えましょう
柔らかな日の光で目が覚めた。
まぶたを上げ、ぼんやりとした頭で周りを見渡す。辺り一面に背の高い木が生えている。
意識が完全に覚醒し私は飛び上がった。足元の小枝が乾いた音を立て、折れる。
寝る前の記憶をたどり、すぐに原因を思い出す。
左手を見ると握っていた紙はなくなっていた。成功した。成功してしまった。
顔から血の気が引くのがわかった。汗が全身から吹き出す。心臓が早鐘を打っていた。
何をどうすればいいのか、全く分からなかった。私はあてもなく歩き始めた。
歩いているうちに幾分か冷静な思考ができるようになった。まずは人を探さねばならない。
今必要なのは情報だった。本当にここは異世界なのか。
もしかしたらどうしようもなくヒマな物好きが私の行動を逐一観察していたのかも知れない。そこで私が異世界に行こうとしているのに気付いたのかもしれない。そこで私が寝ている間にどこかの山奥に運び込み、私のリアクションを見て面白がっているのかもしれない。
そんなことはありえないと考えつつも、本当に異世界にきてしまったと考えるよりは現実味があるように思えた。
仮に異世界だとして私が生きるためにはどうしたらいいのか。
辺りに人工物と思わしきものはなかった。こんなところにそうそう人は来ないだろう。人に出会うためには森を出る必要がある。森を向抜ければ集落くらいはあるだろう。
どこかで川を下って行けば森を出ることができると聞いたことがある。うろ覚えの知識だがそれにすがるほかあるまい。
生きる上では水も必要不可欠である。ひとまず川を目指すことにした。
歩き始めてどれほどたっただろうか。太陽は真上にきていた。
木々が日光をやわらげてくれているからか、真昼にもかかわらず森のなかはさほど暑くない。
空気も爽やかだ。その場で目を閉じて深呼吸をする。土の香りのするしっとりとした空気を吸うと、全身の筋肉がほぐれていくような気がした。
回りの音に耳をすます。その時かすかに聞こえた音があった。水が流れる音だ。音の聞こえる方向へ向かって再び歩き始めた。
しばらくすると小川が目の前にあらわれた。
幅は五メートルほどだろうか。底は浅く、一番深いところでも私のひざくらいしか無さそうである。水中をのぞきこむと魚が泳いでいるのが見えた。
その魚には見覚えがるような気がした。アユに似ている。
幼いころ祖父に川遊びにつれていってもらったことがある。その時見たアユには胸びれの後ろに黄色い斑点があったのを覚えている。
じっと目を凝らすと水が澄んでいるので、水中にもかかわらず細部まではっきり見えた。魚の黄色い斑点の位置が記憶の中のアユと一致した。
アユは水のきれいな場所にしか生息できないという。この水なら飲んでも大丈夫だろう。
手で水をくみ、飲み干す。冷たく透き通った水はほのかに甘かった。
予想より早く川を見つけることができた。この調子だと今日中には森を抜けられるかもしれない。
川の流れに沿って行こうと立ち上がった瞬間後ろから音がした。
小動物の立てるような小さな音ではない。それなりの重量を持つ動物が歩く音だ。
それが自分が立てていた足音に似ているのに気付く。二本足で歩いているのだろう。もしかしたら人だろうか。
だとしたら願ってもいないことである。右も左もわからない現状で一刻も早く人と話がしたかった。
しかし私には人以外で二本足で歩く動物に心当たりがあった。
熊だ。ここは山奥である。ましてや異世界である可能性もあるのだ。何と出くわしても不思議ではない。
仮に熊だったとしたらどういう対応を取ればいいのか、一目散に逃げるべきか、息を殺してじっとしておくべきか、大声を上げて威嚇するべきか。
どうしようか考えをめぐらしているうちに「それ」は姿をあらわした。
「それ」は人でも熊でもなかった。それどころか私は生まれてかつてこんなものを見たことがないし、存在そのものを想像したことすらなかった。
「それ」は二つの目でこちらを見ていた。
白目はなく、墨で塗りつぶされたように真っ黒だった。私の握りこぶしほどもある巨大な目だ。
顔の面積のほとんどをその目が占めていた。首は枯れ枝のように異常に細長い。
腕のまた地面に着くほどひょろ長く、手のひらは腕の細さに不釣り合いに大きかった。
胸は板のように薄く、腹だけが突き出ていた。膨れた腹が不気味にうごめいている。
二本の足は太く、短かった。
全身薄いピンク色で体毛は生えておらず、障子紙のように薄い皮膚の下に脈打つ血管が透けて見えた。
「それ」と目があった。私は動けない。「それ」が私に近づく。私は動けない。「それ」がさらに近づく。私は動けない。「それ」が目の前まで迫る。私は動けない。「それ」が私に手を伸ばす。
瞬間私は絶叫し「それ」に背を向け走り出した。
ただあの化物から逃げる。それ以外のことはすべて頭から吹き飛んでいた。