絵描きが世界を描いたわけ
「新奈ぁ、一緒に整形しない?」
「えっ?」
志保はけだるそうに言いながら、掃除用具入れを背もたれにしゃがみこんだ。
そんな志保の方にからだを向けて座り直し、新奈は目を丸くして聞き返す。
「いきなりどうしたの?」
席は教室の隅の方にあるが、新奈はことさら声を潜めて言った。他人に聞かれたらいけない話題のような気がしたからだ。
「なんかねー、お友達割りってのがあってねー、友達と行くと安くしてくれるんだって」
しかし志保の方は全く周りを気にせず、堂々と喋り続けた。
「あたし、この先ずっとアイプチ生活してくの、嫌なんだよね。毎朝面倒だし。だからいい加減、二重にする手術しようと思って。新奈も一緒にしない?」
「え、私は……」
「新奈みたいに奥二重の人でも、もっと幅広くとかできるんだよ? そしたらもっと大きな目になれるよ」
「でも……怖いよ。失敗する人もいるって言うし」
新奈は最近見たニュースを思い出していた。言いながらさり気なく、マスカラが重そうな志保の目を観察してしまう。
「それに志保、今のままで十分可愛いよ」
「だから新奈は彼氏できないんだよ。向上心なさすぎ」
「え……」
思わず言葉を詰まらせた新奈に、志保はたたみかけた。
「新奈はすぐ妥協するっていうか、努力が足りないっていうか。今は、二重の女の子としか付き合わないっていう男が増えてきてるんだよ」
「そ、そんなのおかしいよ」
「おかしくてもそれが現実なの。だからこのままだと彼氏できないし、結婚なんて絶対ムリだよ」
「そんなことないって……」
「実際、新奈は彼氏いないじゃん。手遅れにならないうちに、少しでも可愛くなろうよ。できるだけ若いときにやったほうがいいって。年取ってからやっと現実に気付くとか悲劇じゃない?」
「……そんな大袈裟だよ」
「どこが? 結局可愛くてキレイな人しか生き残れない世の中なんだよ。だってそうでしょ? ブスが騙されてみつがされて、もてあそばれてたって話はよくきくけど逆はないし。ブスがカッコいい人と付き合ってる話たまに聞くけど、あれ幻覚見てるだけだよ。絶対遊ばれてる。美人だけが本物の愛を手に入れて、幸せな人生を歩めるの。美しいものにこそ価値があるっていうのかなぁ」
チャイムが鳴り、志保は立ち上がった。
「昼休みに、料金とか詳しいこと教えるね。都合よさそうな日、探しといて」
自分の席に戻っていく志保の姿を、新奈は半ば茫然と眺めていた。
教師が教室に入ってくる音にはっとし、慌てて机の上にノートを広げた、その時。
「美しいものこそ価値がある、ねえ」
隣の席の湊が、ぽつりと呟いたのだ。
「み、湊くん、聞いてたの?」
「聞いてたも何も、あれだけでかい声でべらべら喋ってれば、嫌でも耳に入ってくるよ」
「ごめ……」
「いやお前じゃなくて、あいつ」
シャープを指で器用に回しながら、湊は薄く笑った。
「醜いものは幻をみる、か。……醜いもの自体が幻想だったりして」
「……どういう意味?」
新奈は怪訝そうに湊の顔を見た。未だ薄ら笑いのまま、シャープを分解している。
「いいこと教えてやろうか」
「いいこと?」
「見せてやるって言う方が正しいかも」
「……見たい。どんなもの?」
すると湊は、分解したシャープの部品を全て一掴みにして、新奈の机の上に置いた。
「これ、五分以内に元に戻せたらね」
「十万もあれば、未来がバラ色になってお釣りが来るって志保が言うの。そんなことってあるかな……?」
放課後。
志保からもらった美容整形のパンフレットには、未来が輝くだとか、人生が変わるだとか、夢のようなセリフが隅から隅まで書き連ねてあった。
「お前はどう思う?」
ブロック塀の上に片膝を立てて座っている湊が、試すような口調で言う。
「うーん……でも本当に人生が変わりましたって言う体験談も載ってるよ」
「そりゃおめでとうだな」
「そう、だね……。それで、いいものって?何を見せてくれるの?」
シャープ、五分以内に元通りにできたのに、と新奈は呟く。
閑静な住宅街のある家の前に陣取り、たわいない会話を続けること三十分。
学校帰りに見せてやるよ、と約束してもらい、どんなものを見せてくれるのだろうとずっとわくわくしていたのだが、未だ珍しいものが現れる気配は全くない。
「さっきから見えてるんだけどな」
湊はそう言って顎をしゃくった。新奈もつられて上を見上げる。
「俺はこの時間帯が一番好き」
「……空?」
「当たり」
広がっていたのは、青空とも夕焼け空ともつかない、微妙な色合い。淡い紫色に染まった雲が、幾筋も束になって流れている。その一方で、儚げに漂う煙のような雲があり、夕陽に縁取られた綿のような雲があり、まばたきをする度に、少しずつ表情を変えてゆく。
「綺麗……」
「だろ。絵みたいだと思わない?」
「うん。……ずっと見てると、本当に絵なんじゃないかって錯覚起こしちゃいそう」
「でも、絵じゃない」
「そりゃそうだよ」
新奈は苦笑しながら湊を見た。しかし、新奈を見る湊の表情は、至って真剣なものだった。
「どうしてかわかるか?」
「どうしてって……」
「綺麗だからだよ。美しいからだ」
「え……?」
「だから、俺たちが見ている空は本物。空から見るこっちの方が、」
「……方が?」
「作り物なんだ。絵なんだよ」
何も言えずに固まっている新奈を見て、湊は悪戯っぽく笑った。
「言っただろ。醜いもの自体が幻想かもなって。醜いこの世界自体がな、幻想なわけだ」
「どういう、こと?」
「じゃあ早速種明かし。あの空の世界には、ある物好きな絵描きが住んでるんだよ」
「物好きな、絵描き」
確かめるように、新奈は繰り返した。
「そう。そいつが描いた絵なんだよ、俺たちの世界は。俺たちは、作り物の世界で生きてるんだ」
新奈は視線を空に戻した。
先ほどよりも赤みが増している。雲は、全く記憶にない形へ姿を変えていた。
「この世界が……絵……」
「俺らは言わば駒だ。この作り物の世界で踊らされている、駒」
「駒……?」
「絵だけあってもつまんねえだろ。駒がなきゃ、そうだな……ただチェス盤だけ置いてあるのと似たようなもんだ。駒の乗っていないチェス盤。遊べないのはもちろん、インテリアにもなりゃしない」
新奈はふと視線を落として、チェス盤になった舗装道路を想像した。
自分はどの辺りまで進んできたのか。次に向かう場所はどこなのか。
風が吹いて、落ち葉がコンクリートの上を走った。乾いた音を立てながら、時折、強く打ち付けられては弾み上がる。
新奈は湊を横目で見やった。
「芸が細かい絵描きさんだね」
湊は少しだけ笑って、小さく相槌を打った。
「どこまでリアルに作り込んでるんだかな」
斜向かいの家の窓に、ぱっと光が灯る。部屋の一角が、薄暗い中に浮き上がった。
「……二階の右側、子ども部屋かな。あれ、勉強机だよね」
「ああ……多分そうだな。ちゃんと使ってんのかね」
「そう言う湊くんはちゃんと使ってるの?」
「さあ……どうだろうな」
他人事のように、湊は言ってのけた。
「そういや、来年は小学校入学ってときの、ありゃクリスマスかな。勉強机買ってーってねだったんだよな」
「大人だねぇ。私なんて、幼稚園のクリスマスは、確かお人形さんの家欲しいって騒いでたよ。ミニチュアの家具とか、すっごくリアルで可愛いの」
精巧につくられたミニチュアのバスルームを、新奈は思い出していた。まるで手ごたえのない蛇口の感覚を、まだ覚えている。
「作り物のこの世界の、さらに作り物ってわけか。無限ループみたいだな」
真顔を保ちながらも笑いをこらえている様子が見て取れて、新奈は小さく笑いを零した。
「そういうことだからさ。もっと気楽に行こうや」
「気楽に?」
「どうせこの世界は作り物で、俺らは駒なんだ。いくらあがいたってたかが知れてるんだよ、バカらしいだろ?」
湊はそう言って、顎で新奈の持っている美容整形のパンフレットを示した。
「あ……」
それは無意識に強く握りしめてしまっていたようで、一部がぐしゃぐしゃになっていた。
慌ててしわを伸ばすと、顔のパーツがゆがんでしまい、何とも言えない間抜けな表情を浮かべたイメージモデルがこちらを見ていて、新奈は思わず吹き出した。
「随分小さな話だよな。金かけて瞼のしわを増やして、人生変えられるんなら大したもんだ」
からかいを含んだ湊の物言いが可笑しくて、新奈の笑いに拍車がかかる。
「ほんと、小さすぎる」
「だろ?」
新奈につられたのか、湊も笑い出す。
こんなに笑っている湊を初めて見た、と新奈は思った。
隣の席なので、それなりに会話は交わしていたが、そんな中でも湊の笑顔を見た記憶はなかった。
せいぜいが他人を小馬鹿にするようなかすかな笑いに留まっていたので、感情の起伏が乏しい、冷めた人だというイメージだったのだ。
「どうした?」
湊に言われてはっとする。思わずじっと見つめてしまっていたことに気付き、新奈はさっと視線をそらした。
「なんか……珍しいなと思って」
「珍しい?」
「学校では、その……あまり笑わないから」
「笑うほど面白いことないし」
「今、面白い?」
「まあな」
言いながら湊は、ブロック塀から飛び降りた。
「お前、面白いよ」
「私……?」
「そろそろ帰るか。送るよ。明日も放課後、時間ある?」
新奈は小さく頷いた。
見上げると、空は藍色だった。光が滲んだように、ところどころ、ぼんやり明るい。
思い出したように唸り出した風は、舞い上がる落ち葉と一緒に、二人を包み込んだ。
「雲の上に王国があるっていうのは、あながち間違いじゃなかったんだね」
空を見上げて、新奈は呟いた。
あれから、一週間と少し。
放課後は、住宅街の一角に居座って空の鑑賞会をするのが、いつのまにか恒例になっていた。
約束をしているわけではない。けれど、毎日一緒に教室を出て、ぶらぶらとこの場所まで歩いてきて、二人でしばらく空を眺める。
この一連の流れが、自然に出来上がっていた。
「小さい頃はね、雲の上に王国があるって信じてたんだ。何かの映画で見て、憧れてたんだよね。王様がいて、お妃様がいて、王子様とお姫様がいて……」
「それはちょっとありえないな」
「でも絵描きさんはいるんでしょ?」
得意げに新奈は言い放った。
「……絵描きの方が王国よりか、よっぽどロマンがあっていいだろ」
「そうだね。空に住んでる絵描きさん……じゃあ、その絵描きさんが、雨を降らせてるの?」
「ああ……そうだな」
湊は、ゆっくりとブロック塀に座りなおした。
「世の中全体の、色のバランスの問題。どこかが濃くなりすぎたりして、バランスが悪くなると、水を混ぜて薄めるんじゃないか? 絵の具と同じだな」
「じゃあ、雨が降る日は、何かのバランスが崩れたときなんだ」
感心する新奈を見て、湊は吹き出した。
「どうしたの?」
「いいや、こっちの話」
「ふうん……。あ、そうだ」
新奈は一呼吸置いて、真剣な表情を作った。
「あのね、志保のあの話、明日断ろうと思って」
「ああ、整形? そっか。よかった」
安堵したように呟いて、湊はブロック塀から飛び降りた。
「寒くなってきたな」
「うん。雪、早く降らないかな」
「賭けるか? 初雪は何月何日、何時何分か」
「えー? そんなに細かく予想できないよ」
「でも、もうすぐだろうな」
吐く息は、すでに白く色づいている。新奈はマフラーに半分、顔をうずめた。指先の冷たさが頬に伝わってくる。
「負けた方が、勝った方の願い事をひとつ叶えてやる。どうだ?」
「……乗った。でも願い事なんてあるかなぁ」
空を見上げて大きく息を吸い込むと、冷気が鼻の奥を駆け抜けた。二人分の足音が、静かな空間にかすかに響く。
凛と研ぎ澄まされた空気の中、二人とも、足を速めようとはしなかった。
「新奈、外に何かあるの?」
はっとして声のした方を向くと、志保が同じように窓を覗き込んでいた。
「別に何もないよ。……そうだ、あのね、整形の話なんだけど……私やっぱりやめとくよ」
「……へえ」
「あの、せっかく安くできるチャンスだったのに、ごめんね……?」
目を合わせようとしない志保の横顔に、新奈は謝った。
一瞬、気まずい沈黙が流れる。
「……新奈さぁ」
冷たい視線を投げかけながら、志保は言った。
「最近、外ばっかり見てるよね」
その言葉につられて、新奈は窓の外に目を向けた。
隣のクラスの集団が、グラウンドからぞろぞろと校舎に向かっている。体育が終わったところだろう。
志保に相槌を打ちながら、新奈はそっと空を見た。
(外っていうか空だけど)
「誰か、気になる人いるの?」
「えっ? いや、誰かを見てるってわけじゃないよ」
「だよね。隣にいるもんね」
「隣?」
どきりとして、新奈は横目で隣の席をチェックした。幸い、湊はいなかった。そう言えばさっき教室を出て行ったな、と思い直す。
「付き合ってるんでしょ? いつから?」
「……何が?」
曖昧に笑いながら志保の横顔を見る。しかし志保はにこりともせず、威圧的に新奈を一瞥しただけだった。
「湊と付き合ってるんでしょ?」
「……違うよ」
嘘はついていない。ただ、毎日一緒に帰っているだけだ。一緒に空を眺めているだけ。
「いっつも放課後デートしてるじゃん」
「デートじゃないよ」
「じゃあ何なの?」
「何って……」
空の鑑賞会、とは言えなかった。志保に限らず、誰にも話したくはなかった。湊とそう約束したわけではないが、二人だけの秘密にしておきたかった。
「すぐ別れなよ」
新奈は言葉を詰まらせて志保を見た。
「新奈、遊ばれてるだけだよ。今は浮かれてるからわかんないかもしれないけど」
「遊ばれてる? 湊くんに?」
「ちょっと考えればわかるじゃん。新奈のこと本気で相手にするなんて、絶対悪い人だよ」
(何、それ……)
黙り込んだ新奈に向かって、志保は取り繕うように言った。
「新奈もしかして、湊の噂、知らないの?」
「噂?」
「湊、他の女の子と付き合ってるんだよ」
「えっ……」
「やっぱり知らなかったんだ。自分がモテると思って調子に乗ってんだよ、あいつ」
新奈は静かに深呼吸をした。胸の奥に、針で刺されたような痛みがじわじわと広がっていった。
「新奈のためなんだからね。早くちゃんと別れようって言いなよ」
チャイムが鳴り、志保はもう一度念を押して、いそいそと席に戻っていった。
同時に、慌ただしく席に着く湊の姿が横目にちらついて、新奈はそっと目を伏せた。
(髪、長くてよかった)
少しうつむくだけで、湊は視界から消える。
本当は、まっすぐ目を見て、言いたいことがあるはずなのに。
湊が軽く咳払いをした。話し掛けてきそうな気配を感じて、新奈は咄嗟に教科書をめくった。ノートを開き、大して重要でもない公式を、たっぷり時間をかけて書き込む。
(私に、何が言える?)
何の関係もない自分に。
――恋人面。
そんな言葉が浮かぶ。
この数日の間に、育ってしまったものは何だろう。
新奈は頬杖をついたついでに、さりげなく目元を拭った。
授業中に溜め込んだ涙は、放課後、洪水のように押し寄せてきた。
教室の掃除当番だった新奈は、極力廊下に目を向けないように、一心にほうきを動かしていた。
今日もまた、湊は新奈を待っていた。いつものように廊下の壁にもたれている姿が、時々横目に映っていた。
ほうきを片付けて机を出して、椅子を下ろす。机を拭きながら、この後、いったいどんな風に湊と接すればいいのかと、考えを巡らせていた、その時だった。
視界の隅の動きを、反射的に、目で追ってしまったのだ。
小走りに教室を出て、はしゃいだように湊に駆け寄る、志保。手にしていたのは、可愛らしくラッピングされた小さな包みだった。
無意識に雑巾を握りしめて、ひとつひとつの動きを凝視している自分に、新奈は気が付いていなかった。
手作りのお菓子なんかが入っていそうだ、などと思っている暇があったなら、さっさと目を逸らしてしまえばよかったのだと、今更後悔する。
わざわざ湊の手を取って包みを渡したところで、志保はちらりと、新奈を見た。
その嬉しそうな顔は、どちらに向けられたものなのか。
新奈は弾かれたように目を伏せた。
慌てて動かした手に雑巾がついていかず、手は嫌な音を立てて机の上をすべった。
大丈夫? と笑うクラスメートに小さく頷いて、新奈はバケツに雑巾を入れた。手は震えていた。
「ごめん、帰るね」
か細い声を絞り出すと、新奈は鞄を引っ掴み、足早に教室を出た。下校ラッシュの人波をありがたく感じたことは初めてだった。
階段を下り始めた頃から、周りの景色が歪み出した。
玄関にたどり着いた頃には、下足箱に記されている自分の名前が読み取れないほど、涙が溢れ出していた。
(……初めて知った)
窓いっぱいに空が広がるのは、ベッドに寝転んだこの角度なんだ。新奈はぼんやりとそう思った。目は、まだ少し霞んでいた。
屋根や電線に邪魔されない純粋な空は、とても綺麗で、切なかった。
鳥の声も、風の匂いも感じられない。
一人で眺めるこの空は、まるで絵のようだった。ガラスの箱に閉じ込められている、一枚の、絵だ。
雲がまたひとつ、額縁の中から逃げてゆく。
一度は掴みかけたものが、瞬く間に失われていく気がして、新奈はため息をついた。
(最初から、自分のものじゃないのにね)
ふと、勉強机の上の携帯電話が目に止まる。
無機質で冷たくて、死んだように横たわっている、何の役にも立たない文明の利器。
(アドレスも番号も、何も知らなかった)
勉強机は、小学校の入学祝いに買ってもらったものだ。大してねだりもしなかった。
新奈は、流れ続ける空を見つめた。
(私は、あなたに踊らされている、駒?)
何とかして、と。縋るように呟く。
――駒を進めて。私を、動かして。
次の日は、明け方から雨が降り出した。
クラスメートが一人加わるたびに、騒がしくなる朝の教室。机に突っ伏していた新奈は、顔にかかる髪の隙間から志保を探した。
志保とは先ほど、下足箱の前で鉢合わせになった。志保は乱暴にローファーを投げ入れたあと、鋭く新奈を睨み付け、逃げるようにその場を去って行ったのだ。
(……家でしてくればいいのに)
志保は自分の席に座って、大きな鏡を覗き込んでいるところだった。机の上にはファンデーションやらアイシャドーやら、化粧品が目一杯並べられている。その後ろ姿は、半ば自棄になっているようにも見えた。
ため息をついて、わずかに頭をもたげたのと、それは同時だった。
「今日は雨だな」
ざわめきに溶け込んでしまいそうなほど、自然に。
机にリュックを置く音。椅子を引く音。そのひとつひとつが、新奈の耳にはしっかり届いた。
「何かのバランスが崩れたってわけだ」
日常の風景から切り取られたように、隔離された空間。
「雨が降ったあとは、いろんなぐだぐだが綺麗に片付くもんさ」
新奈は湊を見た。
一直線に、視線が絡まる。
「……湊くん、あの」
言いたいことがまとまらなくて、新奈は口篭もる。頭の中で言葉のパズルを繰り広げていると、不意に湊の口許がゆるんだ。
「雨が上がる頃には、答えが出ると思うよ」
パズルは一瞬でばらばらになってしまう。
「雨の次は……そろそろ雪だな」
頭が真っ白になったと言うよりは、淡いバラ色に近いと、新奈は思った。
風が不規則に唸る。
顔にかかる髪を掻き上げて、新奈は空を仰いだ。ところどころに覗く青空から、光が射している。
かすかに冬の匂いがする風に包まれて、二人は歩いていた。
「雲の上に王国があるって、俺も信じてた」
唐突に湊は言った。
「えっ?」
「もちろんガキの頃の話だけど。でもさ、王国って、ベタなんだよな。その辺のマンガとか絵本とかに、よくあるだろ」
「……確かにね」
「だから俺が新しいパターンを作ったんだ。雲の上の絵描き。人間たちを駒にして遊んでる、物好きな奴」
いつのまにか見慣れた笑顔を、新奈はそっと見つめた。
「でも、誤算があった」
「誤算?」
「当たり前の話だけど、駒は自由に動き回るんだよな。予想も願望もそっちのけ。俺の作った世界なのに、なかなか思い通りにはいかない。……一番踊らされていたのは、俺だったりしてな」
靴の裏で小石をもてあそびながら、湊は言う。
薄々気が付いていた手品の種を改めて明かされたような気分で、しかし不思議とがっかりはしなかった。
どちらとも黙り込んでしまったが、気まずくはなかった。
しばらくの間、心地よい沈黙が流れる。
先に気が付いたのは、新奈のほうだった。
ガラス細工を思わせる真っ白い欠片が、何の前触れもなく、羽根のように舞い降りてきたのだ。
ひとつ、またひとつと、風と戯れるようにしながら、地面に溶け込んで消えてゆく。
「雪……」
新奈は両手を空に伸ばした。
雪はいたずらに宙を踊り、時々、指先に優しく触れていった。
「ねえ、ほら見て」
小指に止まった結晶を、湊の目の前に掲げる。それはくずおれるようにして色を失い、透明な水が指先を包んだ。
「大当たりだな」
「大当たり?」
「俺の初雪予想」
言われて新奈ははっとした。
「すごい、どうしてわかったの?」
得意げに笑った湊の手が伸びてきて、新奈の前髪についた雪をそっとはらった。
「雨だって降らせられるんだ。雪も同じだよ。……賭けは俺の勝ちな」
「そんな、ずるいよ」
「何が?」
「何がって……大体私、いつ降るか予想してなかったし。……とにかく全部! 全部ずるい!」
賭けのことも、絵描きであることも、全部。
湊を睨もうとしても、しかし頬がゆるんでしまう。
「いいだろ。どうせ勝っても願い事ないって言ってなかった?」
「それは、その、思い浮かばなかっただけなのに……」
「そっかそっか」
心臓は手放しにはしゃいでいる。新奈は気付かれないように深呼吸をした。
「それで、願い事は?」
湊の顔を確かめたかった。けれど、今の自分の顔を見られたくなくて、新奈はうつむいたまま、湊の答えを待った。
二人の距離が、少しだけ縮まる。
肩と肩が触れているようで触れていないようで、しかしそれを確かめる術はない。
その一点からやがて全身へ、熱いものがほとばしる。さらにその軌跡をなぞるようにして、徐々に感覚が消えてゆく。
次々と落ちてゆく雪を目で追っているうちに、すべての思考が霞み出した。
時が、もどかしいほどゆっくりと流れる。
現実の流れに乗り遅れた中で、それでも新奈は、確かに聞いた。
すっかり馴染んでしまった、あの声を。
耳もとに囁きかけられた、その言葉を。