自殺他殺志願
───死にたいと思う。
悲願するのは日常茶飯事だった。
あらゆる全てを全部根こそぎ捨てたいそう思うのは、ありがちな現実逃避。
全てを嫌い全てが嫌になった。
死んでしまいたい。そのくせ、自分を殺せない。
だから誰かに殺されてしまいたいと、思っていた。
ぐちゃぐちゃに跡形もなく消されてしまいたいと、思う。
こんな思考さえも木っ端微塵に粉砕して消え去って欲しい。
「…………………」
デートの誘いをしてきて噛んでしまった吸血鬼を見上げてあたしは沈黙する。
ポーカーフェイスは、いつも崩されるが今は面白いほどに崩れている。紅潮して今にもこの場から逃げ出しそうだ。
「ええ、いいですよ」
わけがわからないがここで断ると、あまりにも可哀想過ぎるため縦に首を振った。
男の顔を立ててやるのは女の役目だ。
吸血鬼のイメージを壊す赤面だけれど、吸血鬼らしい格好だけで許してやろう。
ヴィジュアル系と言っても通用できそうな黒いズボンに黒いYシャツに黒いジャケット。茶髪は軽くオールバックにされていて、整った顔付きが露にされている。赤面を覗けば吸血鬼らしい妖艶があって素敵だ。
デートの誘いを断る理由なんてないじゃないか。
彼が逃げ出す前に立ち上がれば、震えた手を不器用に差し出された。
映画のチケット二つ。
ワォ!この前話した映画じゃないか!
「行く!今すぐ行きましょう!!ありがとうラトアさん!」
あたしは抱き付いてはしゃいだ。やけに硬いのはラトアさんが硬直しているせいかな。
直ぐ様家を出ようとしたが、違和感に気付いて、足を止めた。
……あれ?あれれ?
あたしは振り返りたくない後ろを振り返った。
「いってらっしゃい、お嬢」
「いってらぁしゃーい」
「いってらっしゃい」
ソファにいる藍さんも、テーブルの席についている白瑠さんも幸樹さんも、笑顔で見送る。
ラトアさんだから平然と見送れるのだろうか。白瑠さんならナイフを取り出しても可笑しくはないというのに、ニコニコの笑顔だ。
とりあえず───あたしは──────。
「いってきます」
そう言ってラトアさんを連れ出した。
移動手段は予想できていなかった。てっきりレンタカーでいくのかと思っていたが、ラトアさんは予めあたしに許可を得てからあたしを抱えて、文字通り夜の空を飛んだ。
蝙蝠になるとか羽を出すとか、そんな空想をしたのだが単なる脚力でのジャンプだった。
屋根から屋根へと飛び移る。
浮遊時間が長い。どんだけ高く飛んでんだ。吸血鬼かっけえ。
「静かだな」
ビルの屋上に一度足を着いて止まるラトアさんが口を開く。気を失ったと思い覗いたのだろう。
硝子細工みたいな瞳と眼を合わす。
「高い場所は怖いか?」
「高いとこは大好きですよ。ジェットコースターだって大好きです」
「何故黙っている」
「考えてるんです」
「何を考えているんだ」
「何故ラトアさんがあたしをデートに誘ったかを」
あたしは強引にラトアさんの腕から降りた。歩き出して下がよく見える端へとまで行く。
「映画を観る、それだけだろう。約束したではないか」
「そう、約束しました。しましたけど、あたし、ラトアさんと二人で映画鑑賞がすんなりできるなんて思いませんでした」
あたしの予定では、こっそりラトアさんと出掛けて観るつもりだったんだ。
夜中を抜け出そうと企んだりもした。
「あの過保護なお兄ちゃんが、ましてやデートを許可するなんて…夢にも思えませんよ」
下を眺めていたら目眩がしてきた。いくら高いところ好きでもこの高さを風を受けながら立って眺められない。楽しみにしている映画観る直前で好んで死ぬようなマゾではない。
あたしはラトアさんと向き合って、たたみかける。
「あたしを連れ出さなきゃいけない理由があるんでしょう?それでラトアさんは頼まれた。デートに誘って連れ出してくれって。丁度映画に行く約束もあったから、計画はあまり考えなくて済んだんでしょうが……上手く騙せるとでも思ったんですか?ラトアさん」
「……………」
ラトアさんは苦い顔で黙り込んだ。何かを迷うように視線をあちらこちらと泳がす。
「わかってますよ。どうせ、アレのことなんでしょう」
すんなり自白してくれなさそうなのであたしはそう言って肩を落とす。
「知って、いるのか?」
「ええ。あの人達は上手く隠してるみたいですが…バレバレですよ。なんであたしに隠したがるか理解できません」
ここで大袈裟な溜め息を吐く。
「仕方ないだろ。切羽詰まった状況なんだ。お前が大事なんだろう」
ラトアさんはやれやれと言った感じに息をつく。
切羽詰まった状況?それほど深刻なのだろうか。
「それならそれであたしに話してくれてもいいじゃないですか!」
あと少し。ラトアさんが喋ってくれれば、仲間外れにされている秘密がわかる。
「それぐらい、理解してやれ」
ラトアさんは眉間にシワを深く刻んで言う。
「オレだってアイツに関わりたくなどないが戦争をするならばクラッチャーに加戦する。お前をアイツが──」
戦争だって?切羽詰まっている?そこまで知らないとこで大事になっているのか。
肝心なところで、ラトアさんは言葉を止めてあたしを凝視した。
「お前………知って、るんだよな?」
「ええ、知ってますよ」
「…一体何をだ?」
「…あたしに隠していること」
ズカズカとラトアさんは近付いてあたしの首を掴んだ。
「それはなんだ?」
首を掴まれたことに驚いて思わず息を飲む。
「嘘だな!貴様何も知らないな!」
バレてしまった。
「オレにカマをかけたな!」
「だってラトアさんも加担してるなんて、ムカついたんだもん!」
「ムカつきでオレを裏切り者に仕立てあげようとしたのか!」
「裏切り者じゃん!あたしと秘密を守ってるかと思えば少女一人を仲間外れにして大の男達がコソコソコソコソ!酷い!」
「秘密を守ってるだろうが!どこが裏切り者だ!莫迦者!」
「でもでも!アイツって黒の殺戮者でしょ!?」
ラトアさんは更に顔をしかめた。
ぱっとあたしの首から手を話す。
「何故そうだと思う?」
「今度はカマじゃないです。白瑠さんの不機嫌は黒の殺戮者と会ってからだし幸樹さんは彼の話題をするなとまで言いました。…戦争をやるんですか?あたしが何かまずいことをしたんですか?今夜白瑠さん達は何をする気なんですか?」
あたしは問い詰めた。ラトアさんは表情を変えないままあたしを凝視する。
自分の失態に唇を噛んでから舌打ちをした。
「この事は黙っていろ。口にもするな触れるんじゃない。知らないフリを続けていろ。さもないと例の指切り殺人のことをバラすぞ」
長い沈黙のあとに言われたのは脅しだった。
「なにそれ!?ずるい!裏切り者!その手を使うのはあたしの方なのに!」
「何故だ!?バラされて困るのは貴様だろ!」
「そっちだって困るでしょ!」
「いいからこの件は兄達に任せてお前は黙って指切り殺人鬼を追っていろ!今なら気付かれずに済む!」
ラトアさんはびしっと言った。
「それが最善だ。お前が下手に動けば───死人が出るぞ」
死人が出るのはいつものことだ。だからそれは脅し文句にはならないはずだった。
だけど脳裏に浮かんだ腹から出血した幸樹さんを思い出して、身が鋤くんだ。
「……上映時間が迫っている、行くぞ」
腕時計を気にしたラトアさんがあたしを抱えるために腕を伸ばす。あたしはそれをガシリと掴んだ。
「待って。知らないフリをするから、だからせめて教えてよ!あたしのせいなんでしょ!?」
「お前のせいじゃない!!!」
お前のせいじゃない。
即座に真っ向から否定をされてしまった。されてしまった。
あたしの、せいじゃない。
「そう………ですか…。すみません」
「………怒鳴ってすまない。行こう」
俯いたあたしの頭をポンポンと叩いてから紳士的な仕草であたしを抱えてラトアさんはまた飛んだ。
浮遊感を味わいながら思ったことは山のようにあって波のように押し寄せてきたけれど、あの電車でのことを思い出してあたしは考えることを放棄した。
映画観にはギリギリ間に合ってジュースやポップコーンを買って席につけば上映が始まった。
そのあとは映画の中に入った気分で物語に集中する。
吸血鬼と人間の純愛ラブストーリー。うぶな恋に禁断で危なかっしい物語に釘付けになる。ラブストーリーなのに妙に緊迫した危機が迫りくるアクションが入っていて楽しめる。
ふと、あたしは吸血鬼と恋したかったんだと思い出した。
吸血鬼に愛されるヒロインになりたいと、願ったことがある。
愛される。愛されるような人間なのだろうか。
愛。愛か。
愛って、本当になんだろう。
ばかだと笑ってしまう疑問まで浮かんできたから忘却した。
一緒に「愛してる」と見つめてきた秀介も、彼方にやる。
ふと、一緒に劇場を出たラトアさんに目をやる。上映が始まってから一言も口を開いていないラトアさんは難しい顔で腕時計を見つめていた。
「流石に、純愛ものはつまらなかったですか?」
それなりにアクションが入っていて緊迫感を存分に味わったのだが純愛がテーマの映画は、ましてや人間と吸血鬼の恋がテーマなんて欠伸が出てしまうだろうか。
「いや、面白かった。しかし現実は騒ぎになるほど禁断ではない」
「それって吸血鬼と人間のカップルがいるってことですか?」
「ああ、当然のことだ。まぁ大抵…人間の恋人は取っ替え引っ替えしているがな。あの吸血鬼のように一人を真っ直ぐに狂ったように愛せやしない」
「狂ったように?ラトアさんは狂ったようにしか見えないんですか」
「怒るなよ、イケメン男優を貶しているわけじゃない。大袈裟に表現しただけだ。訂正しよう。周りが見えないほど、愛せやしない」
「怒ってませんよー。それは純愛だからじゃないからでしょ。こう……苦しいくらい愛してる!と食べたいくらい美味そう!みたいな。ラトアさんはあります?好きだけど食べてしまうかもと思った恋」
「ないな。別にそれほど人間を食物として意識はしていない。血を吸わずに愛すなんて苦じゃないだろう」
「え?ステーキが目の前に置いてあるようなもんじゃないんですか?」
「間違いではないが、要は外見の問題だな。美しく噛みつきたくなる首筋ならまだしも、生きてる豚にお前は噛みついたりしないだろ?」
「まぁ………そうですね。じゃあ現実の吸血鬼は食欲制御に苦労はしてないんですね」
二人で立ち話。
「いや……喉が渇いているなら否応でも噛み付きたくなる」
茶化した風でなく、ラトアさんは真面目に言って一言呟いた。
「喉が渇いたな」
あたしはそうでもない。さっきから会話を挟んでコーラを今飲み終えたのだから。
上映前に買ったがラトアさんの分だけない。ラトアさんには必要ないからだ。
「お前はどうなんだ?」
「は?喉は渇いてませんが」
ついでに言えばポップコーンでお腹は満たされている。
「違う。吸血鬼と人間のカップルが珍しそうな口振りだったから、何か偏見でもあるのか?」
「いいえ。ただ。偏見ならどうしてそれが禁断なのかが解せませんね。豚じゃないですけど、見た目は人間同士なんだし」
「ふん、禁断が売りなんだから許してやれ」
「そうですね。……まぁ、あれですね、現実の吸血鬼に会いたくなりましたね」
「ん?何故だ?目の前にいるだろう」
ラトアさんはまた腕時計を確認した。時間が気になるのだろうか。
「吸血鬼はラトアさんしか会ってませんし……どうせなら純愛してる吸血鬼と人間のカップルに会ってノロケが聞きたいです」
あたしは笑って言ってみせた。はて、ノロケを聞いてどうすんだか。
「ふん、純愛か。しているか疑問だな。……そうか、オレ以外には会ったことがないのか……」
鼻で笑いのけてからぶつくさ言うラトアさん。
「裏に入る前までは、吸血鬼と純愛がしたいと夢見ていましたからね」
「ふん、映画の影響を受けすぎだな。……まぁ、純愛をする相手ではないが、一人この辺に吸血鬼がいるから紹介してやろう」
あたしはきょとんとした。
時計を気にしていたラトアさんは夜空のにおいを嗅ぐような仕草をする。
その吸血鬼のにおいでも嗅いでいるのだろうか。犬みたいだ。
「本当ですか?嬉しい、正直ラトアさん以外の吸血鬼と会えないかと泣きそうだったんです」
「泣いてみろ。ほら、行くぞ」
ラトアさんは紳士的にあたしの手を軽く握って引いて歩き出した。映画館を出て、人気のない道にいって、あたしに向き合う。
「食事する、構わないだろ?」
「…グロくないなら…構わないですが」
「グロくなどない。お前が血塗れにした者の血をもらうだけだ」
「は?」
ラトアさんはあたしの肩に手を置いた。
「人を殺していないんだろう?」
あ。忘れてた。そういえば一週間も仕事をしていなかったから、人を殺してない。
「オレ達の食事ついでに殺っておけ」とラトアさんはあたしを抱えあげた。
「…言っておくが、黒の殺戮者の話を持ち出しても意味ないからな」
釘を刺すのも忘れない。
「アイツはきっと何一つ喋らないからな」
降り立ったのは屋上。
そこに一人の少年がいた。
あまりにも小さく、小学生並の身長。髪は水色かかった白銀で輪郭を包んで外につんつんと跳ねていた。
服装はサイズの合わない白いYシャツを着ている。
「久しいな。紹介する、紅色の黒猫だ。コイツはハウンだ」
殺し屋の名前で紹介された。
まぁこれから殺しをやるっていうのだから仕方ない。
ハウンという名の少年は無言だった。
ただ口を一文字に結んだままあたしを見上げる。
「無口なんだ」
ラトアさんはそう説明した。無口にもほどがあるだろう。一言ぐらい言ってくれよ。
あたしはしゃがんで目線を合わせた。しゃがめば丁度目線が合うのだ。
見つめてみた。
ラトアさんと似た不思議な瞳はただの硝子のように生気はなく、ぼんやりとあたしを見つめ返す。まるで張り合うように見つめ合う。
互いに無言そして微動だにしない。
ただただ無意味に張り合って見つめあった。口を開いた方が敗けだ!
「いつまでそうやっているつもりだ」
敗者ラトア。
「いやぁ、可愛いッスね。あたし胸射止められました。抱き締めてもいいですか?」
「本人に訊け。…ふん、お前の好みがわからないな」
ハウン君に直接訊いたが相変わらず人形のように無表情で黙っている。
頷くとか首を振るとかどれかしてほしいものだ。
「ポセイドンは確か…二十にもなっていない男だったな。見掛けたことがあるが……先程の男優とは似つかないし人格も違う」
ポセイドン──狩人の鬼───秋川秀介。
忘却の彼方から引き返してきて、また思い出してしまう。
「別に……彼は…タイプではありません」
嘘だったり。美少年は大半タイプだ。蓮真君だって秀介だって、顔も声も好き。文句あるかこのヤロウ。
それに。秀介に気持ちが揺れていたり、する。
不意に。突然だった。
眼を離した隙にハウン君が腕を伸ばしてあたしを抱き締めた。
驚いたが、もう胸がキュンッとして、抱き締め返す。超可愛いんですけど!
やけに冷たい肌。小さくて柔らかさがない身体。香水なのか、肌から甘い香りがする。
────と。そこで、いきなり腕からハウン君が消えた。
「こやつは貴様の餌ではないぞ、ハウン」
ラトアさんがハウン君の襟を掴みあたしから引き剥がしたのだ。ぷらーと小さい身体はラトアさんの片手で浮いている。ハウン君の口はポカーンと開いていて二つの牙が見えた。
おや?もしかしてあたし食べられそうになっていたのかな?
「仕事なんだろ。混ぜてくれ」
それだけで会話は成立したらしい。最早会話と言っていいものなのか。
ハウン君が引き受けた殺しの仕事の標的は今立っているビルの中にいるそうだ。多弁でもないラトアさんから詳しい説明はない。勿論文字通り無口のハウン君からも説明なんてない。
要は殺しだ。吸血鬼に言わせれば食事。
もう忘れずに常備している短剣を右手に、吸血鬼二人の後をついて歩いていった。
電気のついていない廊下を歩いていけば、一つの扉の前に立ち止まる。社長室のようだ。
そこでラトアさんから無言の指示が下る。
自分が囮になるからお前が殺せ。だそうだ。
あたしとハウン君は扉の隣に立ち構える。
コンコン。
ラトアさんがノックしたあとに飛び屋根に張り付いて、弾丸の雨を避けた。
銃弾で穴だらけになった扉が蹴り開けられる前に壁に横たわりラトアさんは死んだフリをする。
蹴り破って出てきたマシンガンを持つ男を短剣で切り裂く。
それから、咆哮が響いた。
吸血鬼が牙を剥き出して獣のように飛び付く。
「…………」
どうやってこうなったんだろう。
数分もしない内に片はついた。標的であろう男を少年である吸血鬼は“食事”中だ。
もう一人の吸血鬼もまた食事中。
あたしが首を掻き切ってまだ息のある男の首に噛み付いて生き血を啜っている。
視ているのは、現実の吸血鬼の食事だ。
血塗れの部屋。あたしが既に息の根を止めたのは二人。部屋には五人の男が武装して待ち構えていたが圧勝だった。
ラトアさんは二人目を食事中。
あたしはただただぼんやりと吸血鬼の食事を見た。
んー思ったより良くはない。
人間が人間を食っているのと変わらない。
人間。指。指切り。うえっ。
食事を終えたのか、口元を赤色に濡らしたままあたしを見上げて立ち尽くすハウン君と目が合う。
口元だけ赤に塗られた、白い少年。
白いだけで、別に、似ていないのに。
ハウン君は死体を踏みつけてあたしの前まで歩んできた。あたしは首を傾げてしゃがむ。
何か言ってくれるのかと思った。が、違った。
ただ見つめあったあとに、ハウン君は顔を近付けて頬に唇を重ねる。
ざらついた舌が頬を舐める。くちゅうと、頬についた血を舐めていた。
ああ、そう言えば返り血を浴びていたんだ。毎度のことか。
小さな手でハウン君が頬を撫でて血を味あう。
…犯罪のにおいがする。
あ、そっか。小学生だもん。
……殺人現場のせいかな?
大いに混乱中。
「お前はまるで吸血鬼だな」
ラトアさんも終えたらしく、口元を拭いて言った。
「血を求めてる」
それに同意するように、ハウン君はコクリと頷く。
血を、求めてる。
真っ赤な、血を求めてる。
真っ赤な血を求めている、獣。
「吸血鬼に、成りたかったんです。あたし」
あたしは笑うよう心掛けて、そう言い返した。
腕時計を確認したラトアさんはハウン君に挨拶をしてからあたしを抱えてやっと帰宅。
家には誰もいなかった。留守だ。
訊いても教えてくれないだろうから、訊くことはしなかった。
「ところで」とラトアさんは口火を切る。どうやら今晩はあたしを見張るらしい。家に上がり込んでソファに腰掛けてあたしに問う。
「指切りはどうなったんだ?」
血を洗い流してびしょ濡れになりつつあたしは答えておく。
「明日動くつもりです。出掛けても平気でしょうか?」
「恐らく、奴らも朝は寝ているだろうな」
朝まで帰ってこない可能性があるということか。
「無闇に突っ込んだりしないだろうな?」
ラトアさんは目付きを変えて問う。
「大丈夫ですよ、まだ居場所が掴めてないんですから」
どいつもこいつも、過保護だな、本当。
寝坊しないようにあたしは直ぐに自分の部屋に入った。着る服と持って行く武器を用意しておいてから、布団に潜って眠りにつく。
起きたらラトアさんは居なくて、代わりに朝食が在った。あたしの分だけ。
もう二人は、済ませたようだ。部屋にいる気配がする。
「………」
あたしは一人で朝食を摂ってから、支度を始めた。
二人が起きる前に家を出てしまおう。
赤いチェックのスカートを履く。ベルトにカルドを通して、それが隠れる黒のフード付きジャケットを着る。ジャケットの裏にはナイフ三つ。袖の中は短剣。
髪はドライヤーでセットして決める。
「つーちゃん……おめかししてどこ行くの?」
そんなあたしの格好を見て、ソファの肘掛けに肘を乗せその上に顎を乗せて林檎を器用に食べていた白瑠さんがポロリとその林檎を落とす。それくらい驚いたらしい。
いつもスカートは頑なに断るからだ。
「いえ、ちょっと」
決して蓮真君との二人きりのお出掛けに嬉々として浮かれているわけではない。
「そういえば白瑠さん、昨日は何してたんです?出掛けてましたね」
「んー?んーまぁねぇ。いってらっしゃぁい、椿ちゃん」
「はい、いってきます」
遅くなっちゃだめだよぉ。
それだけ言って白瑠さんはそそくさとあたしを見送る。
そんなに知られたくないわけか。
あたしはさっさと行くことにした。
家を出て、溜め息を一つ。
待ち合わせ場所は駅。
今日初めて彼の私服を見ることになった。黒のチャック付きパーカーに白の襟付きシャツ。デニムを履いて、肩にはいつも持ち歩いているバットケースをかけている。
「よお」
「よーす」
軽く挨拶を交わして電車が来るのを立って待つ。
「正直、お前と電車に乗るの怖い。血塗れにするなよ」
「安心したまえ、もう二度とレッドトレインは作らないから」
冗談を交えて話していれば電車が来た。それに乗り込む。時間帯のせいか、空いてて席が空いていたがあたしと蓮真君も座らず、扉の横に向き合って立つ。
「アレは平気なのか?お前中毒なんだろ、一週間仕事してないって言ったろ」
「あー、それなら昨日二人殺った。安心して、噛み付かないから」
殺戮衝動。殺戮中毒。
そうゆう意味でも、あたしは吸血鬼みたいなんだろう。血を求めている獰猛な獣。人間じゃない。貪る獣。
ガタンゴトン。
揺れる振動を感じながら流れる景色をぼんやりと見つめた。
「どうかした?」
蓮真君が移動してあたしの隣にくる。揺れに倒れないよう吊革を掴んで踏み留まりながらあたしの顔を覗く。
「大丈夫かよ、椿。なんかあるなら話、聞くけど」
蓮真君はそう言う。
昨日の発言を気にしているのだろう。誰だって、気になるのだろうな。普通。
「精神、大丈夫?」
鼻が触れるほど顔を近付けて、蓮真君は問う。この癖を直してくれないだろうか。
「多分、大丈夫」とあたしは答えておく。
「他殺志願者なの、あたし」
「他殺…?」
「うん。あー…誰かあたしを殺してくれないかな、って」
あたしは自嘲の笑みで蓮真君に向けて答える。
「自殺志願と…また違うの?」
「一緒だよ、死を望んでる。死ねば楽なんだろうなぁ、て思う。死んだら、どうなんだろうね?魂みたいな綺麗なものがあるとは思ってないから逝き場所があるとは到底思えないんだよね。とりあえず、何も考えなくて何も感じなくなれるのは、死かなって。でも自分の喉や腹にナイフを刺す気はないの。臆病でしょ」
流れる景色に眼を戻して、そう呟く。
「殺してもらう約束だったんだ」
ガタンゴトン。呟かないと車内にあたしの声が響いてしまう。
「いや、あたしが勝手にそう約束させたの。もしも、あたしが不要なら、貴方の手で殺してくださいって。言っておいたの。どうせ死ぬなら、こんな思考をする頭を粉々に粉砕して欲しいから」
頭を粉々に粉砕。それだけで誰に頼んだか、解るだろう。
「でも、断られちゃったの」
コト、と額を冷たいドアに当てる。
「あたしの心臓、止めるつもりはないんだって」
この鼓動、俺、止めるつもりは、ない。
そう云った白の殺戮者。
笑いもせず、あたしと眼を合わさず。
白い白い、狂った殺人鬼。
あたしの命を破壊してくれない白い殺人鬼。
「責任を押し付けてたんだ。あの人に。あたしの手によって死ぬ人間皆、彼があたしを殺さないせいだからって。責任を擦り付けてたんだ。その責任が、断られて返ってきた。じゃああたしはどうすればいいんだろう?なんか…凄い、疲れが出ちゃって…疲れちゃったみたい…」
眼を閉じれば、そのまま、眠れそう。眠りに落ちたまま、二度と目覚めなければいいのに。
ぐいっ。
強引に肩を掴まれて引っ張られた。蓮真君じゃない。蓮真君の横から手が伸びてきた。
あたしの後ろに在った座席に座っていた誰かが立ち上がり、あたしを力の限り抱き締めたのだ。
この痛いくらいの抱擁。温もり。
「ばかっ!んなこと考えるな椿!」
「しゅ───シュウ」
秋川秀介。
秀介の匂い。温もり。鼓動。それに包まれる。
「死ぬなよ、殺されるな、殺されることを願うな!許すかよ!生きててくれよ!誰にも、椿を殺させたりしない!どんな殺し屋でも片っ端からこの俺が潰してやる!」
変わったりしない。
忘れてた。殺してと叫んだ時もこうやって抱き締めてくれたんだ。
殺せない──死なせない。はっきりと強く言った。
あたしが好きだから。大好きだから。好きなんだって。あたしを愛しているんだって。
どうしようもなく、殺戮者で殺し屋のあたしが、好きな狩人。獲物を愛した狩人。
「秀介……」
あたしは笑って名を呼ぶ。
「電車の中で叫ぶのはやめなさい」
真面目に注意をした。
「…すみません」と秀介はこちらを見る乗客者に謝罪して頭を下げる。
ごつん。といきなり蓮真君がまた顔を近付けてきたかと思えば、頭突きを喰らった。グラリと脳味噌が揺れる。
「先ずは死ぬことを諦めろ。そしたら頭蓋破壊屋に殺されるのも簡単に諦められるだろ。責任なんて、最初からないだろ?一人で思考の迷宮に入るな、お前は考えすぎなんだよ」
ぐりぐりとあたしが擦る額を親指で押す蓮真君はそう微笑んだ。
胸が、ギュッ、と痛む。
すると、ばしん。蓮真君の手が秀介によって叩き落とされる。
ぎろり。睨み合う二人。
あたしは、吹き出して笑う。
「慰めてくれてありがとう。二人は優しいね、本当。優しい」
「!…優しさじゃない!俺のは椿の───愛だ!!」
「秀介君。迷惑だから飛び降りて」
「走行中の電車から!?」
薄い笑みのまま言ったら秀介はショックを受けた。
出来ると思うよ。
ほら、ナマハゲだし。
なんて言ったら涙目になった。
変な目で見られるので隣の車両に移って、座席に座る。左右からの、無言の威圧感が重い。
さて、どうしよう。
まさかこの二人が再び顔を合わすことになろうとは、思いもしなかった。どうしよう。どうしたらいいんですか。
「よし、自己紹介からしよう。こちら、秋川秀介くん」
「椿。なんでそいつといるの?」
「それで、こっちが奈乃宮くん」
「椿。電車一度降りない?」
………………。
互いに無視しやがってる。
あたしがハウン君とただ無意味に見つめあうように、秀介と蓮真君もただ無意味に睨み合う。秀介にはちゃんと威嚇という意味があって蓮真君はただ睨み返してるだけだろうが。
「それにしても今日は可愛いな!椿。この前のゴスロリもよかったけどこれからデートしにいくみたいに……………」
あたしが拗ねて黙り込めばパッと秀介は無邪気な笑顔をあたしに向けて褒めてきた。が言葉を止める。
そういえば、秀介と会う格好でまともだったのはあの夜の病院の時以来だ。病院服に白瑠さんに借りた服にゴスロリ。今日は普通の格好。
秀介の視線は蓮真君に戻される。
嫌な予感。
「てめえっ!表出ろ!!」
「あ?やんのかコラァ!」
「ヤンキーか!!」
秀介が蓮真君の胸ぐらを掴んだ。蓮真君も反応して胸ぐらを掴む。
あたしは素早く二人の頬にツッコミの平手を喰らわす。
いい加減に静かにしなさい!ナイフを出すぞコラ!
「椿ぃ…!なんでこいついるんだよっ?なんで一緒にいるんだよっ!?」
「えっとぉ………」
「デート」
わなわな震える秀介があたしに詰め寄る。この煩い子が騒がない返答を考えていれば、蓮真君が答えた。その返答は間違ってる。
「浮気!?」
「君と付き合ってないから浮気とは言えません」
「キスしておいて、んな殺生な!」
「窓突き破って降りなさい」
「命令!?」
そこで蓮真君が大きな溜め息を吐いた。
「アンタさ、椿に気持ちを押し付け過ぎなんだよ。椿の気持ちを聞いたことあんの?」
「あぁ?部外者がすっこんでろ餓鬼。気安く椿椿って呼んでんじゃねえよ」
「頼むからあたしの疲れを増幅させないでよ……」
蓮真君に続いてあたしは溜め息を吐いて頭を抱える。頭痛が起こりそうだ。
「椿……大丈夫かよ?ちゃんと休んでんのか?」
直ぐにあたしを心配して顔を覗く秀介があたしの髪を上げて額に手を当てる。
「無理して仕事してねーよな…?無茶、すんな。疲れをちゃんととらねーと、肩を揉んでやる」
ニッと秀介は笑いかけてからあたしの肩を揉む。
「俺が疲れをとってやるから。なっ?」
癒される可愛い顔のにへらとした笑み。ついつい、つられて笑ってしまう。
見兼ねて蓮真君があたしを小突いた。
「あ、大丈夫だから。肩は凝ってないし」
「そう。……で、こいつも裏現実者なわけ?」
むすっとした顔で秀介が蓮真君を見る。あの話を聞いていたなら、そうわかってしまうか。
「うん、一応」と頷いておいた。ややこしくなるのは御免だから那拓という名は伏せておこう。
なんだか気に入らないという眼で刹那睨んでいたが、気を取り直してあたしに向き合った。
「クラッチャーと何かあったのか?」
そう話を戻す。
白瑠さんとのこと。
「別に、何もないわ」
「何もないわけないだろ」
「厳密に言えば、それだけ。最近機嫌が悪いのよ、あの人」
それだけなんだ。機嫌悪くて、あたしに抱き付いて笑いもせずに、殺さないと云った。白瑠さん。
「それって黒の殺戮者が原因?そういえば昨晩会ったぜ」
「え……?」
昨晩──昨晩だって?
「ドクターもいて、黒もいたな。なんだか一悶着あったが、俺が乱入したらさっさと撤退しちまったよ」
「え?黒の殺戮者と一緒にいたのっ?」
「え?知らなかったのか?」
秀介はきょとんとした。
「なんか喧嘩してたみたいだぜ。獲物を取り合っていたわけじゃなくて──てっきり、白と黒が決着つけるかと思ったんだけど」
「お前はよくその喧嘩に割って入ったな。邪魔者の何者でもないじゃん」
腕を組む秀介に蓮真君は突っ込む。
白と黒の殺戮者。
裏現実でトップとも言える名を轟かせる因縁の仲の二人の決着に割り込むとは度胸があるのか単なる馬鹿なのか。
「白だろうが黒だろうが狩るのが俺の仕事だ!」
噛み付く勢いの彼の肩を掴んで静かにさせる。
「どうして?なんか話してた?二人は」
「俺が駆け付けた時は派手に暴れてた、クレーターだらけだったぜ?俺が入るなりピタリと止めたさ。クラッチャー側はさっさと退散、黒はにこやかに挨拶して帰った」
クレーターだらけの現場。頭蓋破壊屋と遊びと称しつつ殺し合ったにも関わらず、にこやかに挨拶できる器の持ち主。
白瑠さんと同じで普段はへらへらしている人物なんだろう。
とにかく。裏はとれた。
白瑠さん達は、黒の殺戮者に会いに行ったんだ。何しに行ったかはわからないが一悶着殺し合った。
今朝の機嫌からして最悪な状態、というわけではないのだろう。
一晩あたしを仲間外れにして行なった秘密は、とてつもなく大事だったらしい。
秀介が割って入る前に話を終えて何か解決でもしたのか?
あたし絡みのはず、否あたしが関わってはまずい“何か”が解決したのかもしれない。どうなんだろう。
いっそ、藍さんを拷問してみようか。なんて、半分冗談。…半分は本気。
「ん?どうした?椿」
「……………別に」
あ、そういえば。
秀介に黒の殺戮者の名前を訊くつもりだったんだ。
訊いてみれば、秀介は困ったように首を傾げた。
「んー、それなりに黒の殺戮者と会うけど……本名を呼んだことねえから…。無理、忘れた」
少し難しそうな顔で思い出そうと心掛けてくれたが即座にその行為を破棄。
初めから彼の名前は脳内にインプットされていなかったらしい。
「頭蓋破壊屋の本名だって俺、知らねぇもん。つか忘れた。黒の方はプライベートだって黒の殺戮者って名乗ってるから……つか、クラッチャーに訊いた方が早くね?アイツが知らないわけないだろ」
「………………」
答えてくれるならば、君に訊いたりしない。
そうか。秀介も知らないのか。
じゃあ誰が彼の名前を知っているというのだろうか。誰が彼の名前を教えてくれるんだ。
本名を名乗らないなら、本名を知る人間は少ないだろう。下手をすれば火都も知らないかもしれない。
一体、誰が彼の名前を教えてくれるんだろう。
「黒の殺戮者、ね。アイツは妙に憎めないんだよなぁ」
「ん?」
「殺し屋で不愉快な奴だけど…なんだろうな、吸血鬼だからかな………嗚呼、椿と似てるからかも。ほら、血塗れになるの好きらしいから、アイツも」
秀介は会話を繋げる為か、そんなことを言い出す。冗句を言って笑いかけるのはあたしの顔に笑みを戻すためなんだろう。
蓮真君にも似たようなことを言われた気がする。
俺は椿大好きだから発言はあたしも蓮真君も無視。
「今吸血鬼って言った?」
「へ?うん」
「黒の殺戮者は吸血鬼なの?」
あたしも蓮真君もそこに食い付いた。
「知らなかった?吸血鬼だぜ」
当然だろと言わんばかりに秀介は答えた。
「ん、クラッチャー達は教えてはくれなかった?まぁ…あれだよ、吸血鬼だろうが人間だろうが関係ないだろ。手間か楽か。クラッチャーは一体何を教えてるんだ?」
呆れたように秀介は話をそっちに移す。
手間か楽か。
息の根を止めるのが、楽かそうじゃないか。
吸血鬼は楽に殺せやしない。
白瑠さんが教えてくれること。
「……スカートとニーソの間がそそる、ということを教わった」
「………」
「………」
「冗句だ。頼むから見ないでくれる?」
なんか不意に思い出してウケ狙いで口にしたら二人はあたしの下半身に目を向けた。あたしは例の間をなんとかスカートを伸ばして隠す。
あたしが悪かった。
「吸血鬼、か。どおりでね。よくあの人を怒らせて喧嘩をして生きていらると思ったら…へえ」
吸血鬼。血塗れ。そうだ。身体中の血液をぶちまける、で気付くべきだった。
ラトアさんも親しげな口振りだったし、ハウン君に訊く前に釘を刺したのも理解できる。
吸血鬼だから。
吸血鬼は数が少ない。
吸血鬼は多分、友達と呼べなくとも知り合いの域なのだろう。
話すのも嫌々そうだったのは、同族意識。同族の話を安易に話したくはなかったのだろう。
「椿?」
「おい、大丈夫か?」
またあたしが黙り込んでしまい、心配して二人が顔を覗いた。
うわあっ両側に美少年。
「大丈夫よ、飛び降りたりしない。バラバラになりたくないもの」
「椿…俺に二回ほどバラバラになれって言ったの?さっき」
とりあえず自殺志願で情緒不安定だというのは否定しておこう。
「ところで」
秀介はまた口を開く。どうやら沈黙させたくないらしい。
気まずいのだろうか。
あたしが一番気まずい。
…いや、想い人のデートに割って入るのは流石に気まずいのだろう。
「これから仕事?」
………………。
全然デートだと認めていなかった。爽やかな笑顔で訊きやがった。
「この前会った時より武装してるな」
「……君は透視能力があるのかい」
「さっき抱き着いた時に背中に三本と一本、腕に二本」
「…………ほう、君はあの短時間に確認する暇があったんだね。何が愛だど阿呆」
あたしは秀介と心の距離を置いた。うんと遠く。
「違う!強く抱き締めたらわかったんだ!愛だ!」
「もう黙りましょう。血塗れにすんぞ」
提案は無言のまま受け入れられた。
血塗れが効いたらしい。
電車であたしが血塗れと言うのはいい脅し文句で効果覿面のようだ。
なんか秀介の愛を疑いたくなったぞ。
形振り構わず「愛している」と言われるせいだろうか。
愛で正当化していようにしか思えないのは何故だろう。
正当化…ね。
「…………」
ガタンゴトン。
沈黙の電車は、好きだ。
静寂が好きだ。静かはいい、落ち着く。
疲れ。うん。それなら電車に揺られて眠れば疲れがとれるかもしれない。
かぷり。
「…………」
かぷり?一瞬理解ができなかった。
左隣の秀介があたしの耳に噛み付いてきたのだ。唇で挟んでいる。
秀介は当然、知っている。彼が一番最初にあたしの弱いところを見付けたんだ。
勿論、わかっててやっている。
すぐにあたしは悲鳴をあげようとした。
しかし、ここは電車の中。あたしまで騒いでいられない。
ぐぅと悲鳴は堪えた。
さっきからあたしの手を握っている秀介の手に爪を食い込ませたが効いていないのかあたしの耳を弄ぶ。
唇であたしが敏感に反応する耳を甘噛みするのは飽きたのか、あろうことか舌を這わせやがった。
耳元でクチャリといやらしい音がしてざらついた舌が舐めあげ、吐息を吹き掛けて擽る。
「ふっ……っ……」
声を我慢できなくなった時に丁度電車が停まり、ドアが開いたので掻き消された。
それでも秀介には聴こえたのか、それとも震えに気付いたのか、満足そうに笑うのが解った。その振りかかる息にも反応する。
もう意識が飛びそう。
堪えたが湿った舌に朦朧としてきて声らしい声も出やしない。
「は────ぁ───」
もう限界だ。
ギュッ。
あたしは左手ではなく、右手を握った。蓮真君の手を握って助けを求める。
直ぐに蓮真君は気付く、秀介の頭を叩いた。それでやっと解放される。
二人が口論を始める前に、あたしは乗り込んでくる人々をすり抜けて電車に降りた。
そして堪えていた悲鳴を上げる。
「んにゃああ!」
耳を必死にこすった。
うわっ!擽った!うひゃ!痒い!秀介!お前まじでぶっ飛ばす!
と、睨みつけるために振り返ったら、ドアが閉まった窓ガラスに秀介と蓮真君が映っていた。映っていたというより、見えたというべきだろう。
そしてそのまま、電車は走り出してしまった。
「……………」
えーと。あれか?
あたしがギリギリ電車を降りたせいで二人とも降り遅れたのか。それとも口論で忙しかったのかしら。
どちらにしても降り遅れたのは事実。
蓮真君と降りる予定の駅だったのだが、さてどうしよう。
生憎あたしは駅のホームで待っている姿を覚えられてはまずい顔だ。悪くて警察沙汰、よくて幽霊沙汰。
殺人鬼に浚われて遺体も見付からない哀れな女子高生の怨念が駅に出没。とか都市伝説にされちゃいそうだ。
……嫌だ。
至極嫌だ。
ということであたしは蓮真君にメールを送って駅から離れることにした。
「なんでてめえが椿のアドレスを知ってんだよ!!」
空耳で、秀介の声が聴こえた気がして振り返る。空耳だ。
あの二人を二人っきりにするのはとても嫌だったが仕方あるまい。
電車の中で喧嘩してないといいけど。喧嘩以外することがなさそうだ。
二人きりで一体どんな話をするんだろうか。
それはそれで気になったり。
あー、でも秀介ならあたし関連のことしか話さなそう。或いはこれから何をするかを問いただすか。
蓮真君は蓮真君でストーカーはやめろと説得してくれるかもしれない。あの子は優しいから。
優しい、二人。
最近の美少年は皆優しいのかしら。
蓮真君の優しさは、友情とでもいうのだろうか。秘密の友達。
秀介の優しさは、愛情。愛、か。
それでは、白瑠さんの優しさはなんだろう。
あたしを気まぐれに救い、裏現実に引っ張り込んだあの人。
問えばなんと答えるんだろうか。
狂ったように笑う白い殺戮者は、なんと言うんだろう。
「………ん?おや?あたしは何処に行くんだっけ?」
駅を離れたはいいが、目的地がわからず足を止める。
地理は苦手だ。住所だけではたどり着けやしない。
何故ならあたしはO型だからだ。O型は道に迷っても人には訊かない特性があるのだ。……のだ。
地図があれば辿り着けるのだが、それは蓮真君が持っている。
携帯電話でちゃんとした地図を探してみようかな。んー。
あたしは携帯電話を弄りながらとりあえず歩いてみた。
それにしても、まさか黒の殺戮者が吸血鬼だったとは。裏現実者は人間でも吸血鬼でもどちらでも同じだと考える傾向があるのか?
吸血鬼に恐れている裏現実者に会ったことがないからすると、そうなのかもしれない。吸血鬼を殺すのは手間だ。
それになんだか絶滅危惧種らしいし。
そういえばあたしは吸血鬼の生誕について聞いていない。…いや、多分訊いたら「じゃあ君は人間の生誕について知りたいのかい?犬の生誕について聞きたいかい?」と返されそうだ。
社会や生物の話はやめよう。勉強してないんです、真面目に。
吸血鬼───か。
血を吸う獣。蝙蝠。白い肌。牙。ぞっとする美しさ。魅了される瞳。
吸血鬼は好きだ。白黒の映画での吸血鬼だって観ちゃうだろう。レンタルビデオ店にある吸血鬼物の映画はほぼ観た。
吸血鬼が好きだ。美しく、奇怪で、魅力的で、妖艶。吸血鬼に会いたかった。吸血鬼になりたかった。
少なくとも、血塗れになりたくて、吸血鬼に成りたがっていたわけじゃない。
一種の、現実逃避だったんだろう。
今では、実現したそれに憧れても、現実逃避なんて無理だが。
現実逃避、か。どの現実のことだろうか?
表現実か?裏現実か?
表からの逃避に裏に居座っているだけなのかもしれない。
─────なんて。
こんなこと考えたくもない。
表に待ち構えているのは処刑の電気椅子か開かずの扉がついた白い病室のどちらか。或いは、境界線を越える前の退屈な日常。
どれも嫌な現実だ。
それなら、ずっと────。
リビングでの食事を思い出して、忘れようと振り払う。
「ずっと────なんて」
それこそ、現実逃避だ。
きっとくる。
今まであたたかい場所にいた代償が。痛みが。苦しみが。
強烈なそれが、襲い掛かる時が、くる。
それは今からかもしれない。
間違いなく。
すぐそこまできてる。
あれは予兆だ。
きっと、滅茶苦茶になるだろう。
そして思い知らされる。
居場所なんて、何処にもない─────と。
「っ…」
考えるのはやめよう。
まじで自殺しそうだ。
目的を忘れては駄目だ。
「……目的ってなんだっけ」
まじで忘れてしまっていた。
あ、そうそう、指切り死体の発見現場に行くんだ。
白と黒。
二人の仲を昔から知っているわけじゃないから、今回何があったかなんてわからない。
しかし。
隠しているのがムカつく。
隠す必要があるのか?
因縁の対決ならばあたしに話してもいいだろう。仮にも、仲間なんだから。一応、師弟関係なんだから。
連れてってもらえなくても、精々膝を抱えて膨れっ面するだけだ。そんなあたしの反応なんて見え透いているだろう。
そんなあたしを宥める手なんて幾らでもあるにくせに、どうして教えてくれないのだ?
あたし絡み?
自分絡みなら否応でも立ち上がるあたしの性格だからと、皆口を閉じているのか。
しかし、あたしが狙われている、そんな噂があるなら真っ先に秀介が教えてくれるはずだ。
その線は薄い。
もっと他に、でかい問題があり。あたしではあまりにも危険すぎる。話すのもいけない。知ることさえも許されないかもしれない問題。
例えば───あたしでは呆気なく死んでしまう、とか。
それならば。
白瑠さんが殺さないと言ったのも、わかる。鼓動を止めるつもりはない。殺すつもりはない。死なせるつもりも──ないのだろう。
否。それは。
あたしの思い込みだ。
「秘密にすんならちゃんとバレないように秘密にしやがれってんだ!!」
足元にあった石を蹴っ飛ばした。
隠している事実だけを知っているからこんなやきもきをしているんだ。苛々する!
これも白瑠さん達の演技の無さのせいだ!
バレバレなんだよ!上手く隠せコノヤロー!
……て、隠す自体しなければ悶々と悩まずに済んだんじゃん。怒るとこ間違ってる。
最近口調悪いの、出てくるなぁ。ストレスだよね、原因。
コン、カンッ。
蹴り飛ばした石はごみ捨て場に落ちていった。そこから、一匹の鼠が這い出る。
……………鼠。
ちょろちょろと鼠はあたしの横を歩いていく。ついつい、あたしはそれを追った。
ちょろちょろ。コンクリートを這っていく鼠のあとを歩いていく。
暫くして、ハッと気付く。
何故あたしは鼠を追っているのだろうか。
珍しい遭遇につい……。決して黒猫だからの反応ではない。断じて!鼠をいたぶろうと追ったのではない!あたしは動物大好きだ!動物愛護の殺人鬼だ!
…………嘘です。猫は撫でるのとじゃれるのが大好きで、鶏と豚と牛は食べるの大好きです。
「……っ!?」
ぎょっとする。
踵を返そうとして、ぎょっとしてしまい硬直した。
鼠は、珍しい。棲む家によっては出てくるだろうが、あたしにとっては珍しい。
灰色の鼠を見るなんて、野良猫が息の根を止めて運んでるとこを目撃して以来だ。
一匹なら、まだしも。
無数に群れを成している鼠なんて初めて見た。何匹いるんだ?十や二十?もっとか?
鼠って、群れで巣に住んでるんだっけか?
あたしはしゃがんで、鼠の群れが這いり込む小窓を見た。
鼠の群れはその中に消えていく。
しゃがんだまま、ちょこちょこと近付いて覗く。真っ暗だが、鼠の棲みかになったような悪臭はない。
好奇心or仕事。
真っ黒くろ○けを目撃した気分だ。見つけたことないけど。
ということで好奇心をとるあたし。
錆び付いてスライドしにくい窓を力付くで脚力も使って抉じ開けた。
「泥棒も楽しそうだよなぁ」
と呟きつつ不法侵入。廃虚っぽいが不法侵入は不法侵入。
さーて、鼠をいたぶろうか。…あ、違った。鼠を追ってみよう。おーう。
人の気配はしないので、こそこそしなくても良さそうだ。
足元に眼をやって鼠を探した。おや?いないぞ。
暗くてまともに視えないが、確かにいないことはわかる。蠢く気配が全くない。
どこか別の穴があってそこから別の部屋に行ったようだ。じーっと視ていけば目が慣れてきてぼんやりと視えてきた。
埃だらけの棚がいくつかあり、段ボールも転がっているところをみると倉庫らしい。
ビルっぽい建物だったから倒産した会社かなんかだろう。
ドアに辿り着いてノブを回す。鍵がついていても可笑しくはなかったがついていなく開く。
明かりのない廊下を鼠を探しつつ歩んでいった。途中で部屋を見付けたら入ってみよう。
鼠が集るような死体があったりして。うおお、むごっ。
吸血鬼の食事ならまだしも、人間の肉を食っていく光景なんて嫌だ。
指切り魔が人食族疑惑を思い出して吐き気がした。
あー…そう言えば、あたし指切り魔を捜すんだった。何鼠を追い掛けてるんだろう。
そこで携帯電話が鳴った。蓮真君だろう。やっと駅から降りたか、或いはあたしより先に現場に来てしまったのかもしれない。
「もしもしー、椿?」
「ん?秀介?」
電話口から聴こえたのは蓮真君の声ではなく、秀介の声だった。
小さく蓮真君の怒鳴り声がするから恐らく秀介が無理矢理奪ったのだろう。
「指切りの殺人鬼なら、俺詳しい情報集めてやるぜ」
「え?」
あたしはきょとんとする。
なんで秀介が指切り魔のことを知っているんだろうか。蓮真君が話すわけないだろう。
「同じ駅で降りたから変だと思った。餓鬼についてきてみれば、俺の目的地と丸かぶり!追ってんだろ?」
「……君も追ってるの?なんでまた…よく知ってるね」
「まーな。てか、指切りは今有名だぜ?あ、狩人の中では有名なんだよ。つか、狩人ぐらいしか知らないだろうな。なんでまた椿が知ってるのかよくわかんねーけど」
狩人には有名?
そうか。狩人には狩人の情報網があるんだろう。
ブラックリスト。
狩る獲物の名前が上がるリスト。連続殺人鬼のソイツは標的になったんだろう。
やっぱり、秀介に頼るんだった。
ん、でも、あれだな。
秀介に会ったら、すがってしまうかと思ったが、そうでもなかった。
蓮真君がいたからかな。
「指鼠ってんだよ、通り名」
「……ゆび………ねずみ…?」
思わず、声を潜める。
身を低く壁に手をついたまま立ち尽くす。
「そう。本業は殺し屋だ。無茶苦茶な奴でさ、表で爆発事件あったじゃん、あれ、指鼠の仕業なんだよ。たかが一人の為にホテル爆発。そんな指鼠の副業は猟奇殺人鬼だ。一人を気が向いた殺し方で殺して指をとるのが手口。指集めが趣味とか」
「……………………」
「ん?椿、どした?もしもーし」
「あ、の…さ。すぐそっちいくよ、現場にいるんでしょう?」
「おう、わかった。来てくれたらすぐにでも犯人の居場所、掴めるよ。殺人現場はそう離れてないから“何処か”に連れていき“何処か”で殺している可能性は大だ。隠れ家かなんかが近くにあるはずだよ」
「………わかった。じゃあ……喧嘩しないで、待っててね」
気持ちいい返事をして秀介は電話を切った。
指──鼠。
鼠。
なんだこれ。どんな偶然だ?なんつー偶然だよ。
ホテル爆発事件──幸樹さんと見たあのニュースだろう。偶然見付けた鼠。
否、偶然じゃない。偶然が重なったものを偶然とは呼べない。
必然。
あたしは、結局、指切り魔と遅かれ早かれ遭うべきだったんだ。
気持ち悪いが、運命を感じると言わせてもらおう。
いや、まだ早い。
偶然、鼠を追い入ってきたこの建物が、たまたま指鼠の隠れ家だったら、言わせてもらおう。
運命の人、とは死んでも言わないが何らかの縁はある、らしい。
それを確認しよう。
その時だ。足元に何か蠢いたのを感じて下を視たら、パッと明かりがついた。
視界に、あたしとは別の足が在る。
顔を上げれば、一瞬。
一瞬だけ、顔を見たが振り下ろされた何かに頭を叩き付けられて廊下に倒れる。
「不法侵入」
男の声。
「いっけないんだーあ」
なんとか起き上がった。
押さえた頭部がぬるっとする。
「指、切らなきゃ」
あたしが顔をあげる前に男が──指鼠が足を振り上げてあたしの胸を蹴った。
「ぐっ…っ!!」
頭部に続いてのダメージによろめいてしまう。駄目だ。最初の一撃だけで気を失っても可笑しくない。
視界が、定まらない。
意識が、はっきりしない。
「うっ……ぁあ!」
それでも。防衛本能が働いて反撃を開始させる。
しかし、意識が朦朧のせいだ。ナイフを取り出すのを忘れて腕を振るう。
猫が毛を逆立てたような攻撃は届かない。安易に受け止められてしまう。
────ドスン。
「っぐは!」
溝に膝が叩き付けられた。
倒れることは許されず、腕を引っ張られ壁に叩き付けられる。
動けずあたしは崩れるように、倒れた。
仰向けに倒れたあたしを、指鼠は容赦なく踏みつける。
ガツンとドスリと低い音を響かせた。骨が折れるような音まで聴こえる。
起き上がる動作はおろか指一本動かすこと出来なかった。
「あー、だめだめ。手に傷がついたら台無しだ」
そう言って腕を踏みつけられ、脇腹を蹴っ飛ばされる。
ボコボコにされた。
ボコボコになぶられた。
意識が数秒、途切れてしまうくらいダメージを喰らった頃に、攻撃は止んだ。
「さて、何で殺そうかな」
指鼠がそう独り言を漏らすのが聴こえた。
ズルッと引き摺られて何処かの部屋へと運ばれたらしい。
意識がハッキリした時には、指鼠の姿はなかった。
あたしは椅子にロープで縛り付けられていた。身体中が痛い。内蔵までやられてたらどうしよう。嗚呼、くそういてえ。
「運命を感じるぜ……鼠野郎」
吐き捨てて、改めて指鼠がいないことを確認する。
項垂れた顔を上げたら、胸部から痛みが走った。肋骨が折られたか。右肩は脱臼しているようだ。
よくも痛め付けやがったな。
さてどうするか。静かに呼吸をして確かめる。背中にちゃんとあった。カルドもナイフも。武器は没収されていない。恐らくあたしが武装してるなんて微塵も気付いていないのだろう。
足を上げてブーツからナイフを取り出す。身を屈むと痛みが走るが堪えて腕を肘掛けに縛り付けるロープを口に加えたナイフで切った。
左手を解放して、次は右手。簡単に椅子から立てた。
「……………あ」
椅子から立って、横に在った棚に眼を向けて気付く。
気持ち悪くなった。
棚にあったのは、指。
ケースに入れられた指が、ぞろりと並べられていた。
十本の指が入ったケース、それと何か指輪や髪の毛がおまけに入っていた。
ケースの下に写真が在る。多分、持ち主の写真だろう。
なるほど、ね。
この部屋で、殺したのだろう。この部屋が殺害現場。
棚とは逆の壁際にはなんだか解体に使いそうな器具がぶら下がっていた。
部屋の隅には何かの残骸に鼠が集っている。
もう少し起きるのが遅かったら鼠に噛まれていたかもしれない。
「くそ……痛い」
立つのが辛い。
殺したいのは山々だが、誰かを殺す気力も体力もない。
先ずは、目的のものを確保しよう。
多無橋さんの取引相手の顔は知らないが、ブツがどんな形状かは聞いていた。
だから直ぐにどのケースに取引相手の指が入っているか、わかった。
ブツが在ってよかった…。ボコボコにされた甲斐があったってもんだ。
大きな指輪。黄色の宝石が嵌められた指輪。
ケースを開けて、その指輪をとった。
「んじゃあ……撤収させて戴きますか」
ボロボロだし。
でもこれで帰るのは癪だ。
あたしはチラリと後ろを振り返った。残骸に集る鼠に、大事に保管されている指の数々。
「ふっ……」とニタリと笑みを浮かべる。
あたしが鼠なんかに痛め付けられて終わる運命なんて───認めてやるもんか。
表で警察が追っている被害者なら顔は知っている。それ以外のケースを全部、棚から落とした。
ぱきんと硝子は割れて弾く。残骸に誘われたのか、鼠達がすぐに集ってきた。
激しく音を立てたにも関わらず駆け付けないところをみると不在のようだ。
壁を伝ってあたしは先程の部屋に向かった。
無我夢中で抜け出して、さっき見掛けた懐かしい公衆電話にズルズルと行って入る。警察。警察に通報してやろう。これも仕返しだ。
「……………」
警察で思い出す篠塚さん。
秀介だと白瑠さん達の耳に届きそうだから、警察。
ちょっと、考えた。
秀介にすがらなかったけど、篠塚さんなら、どうなんだろう。
カチ、とボタンを押す。
暗記しまった携帯番号を押していった。少ししてコールが聴こえる。三回目で、電話に出た。
「もしもし」
懐かしい、声が耳元から聴こえて。気が緩んだのかその場に崩れるように座り込んだ。
その音が聴こえたのか「もしもし!?」と篠塚さんが声を上げる。
この声、懐かしい。
本当、懐かしい。
思わず、安堵の笑みを漏らす。それまで聴こえたらしい。
「……?…もし、もし?」
「匿名で、通報します」
あたしはそこで応える。
「連続殺人鬼の居場所を知っています」
そして、住所と男の特徴まで教えた。話し終えたから受話器を離そうとした、その時。
「椿……?」
そう、呼ばれた。
声、まで覚えててくれたのか。なんて人なんだろう。
こんな一被害者の皮を被ったあたしなんかを覚えてるなんて、全くお人好しだ。
頬に血が伝ったから拭いたら、それは自分の涙だった。
「篠、塚…さん」
「っ!……椿!椿なんだな!椿!」
優しい声があたしを呼ぶ。
涙も嗚咽も堪えようとした。
篠塚さん、と呼ぶ声が震えて涙声になる。
「生きてたんだな!」
「……生きてます、よ。図々しくも凛々しい花ですから」
心配と安堵の声の彼に、自嘲しながら言う。
「生きちゃってるんですよ、あたし」
生きちゃってるの。
生きてしまってる。
「凛々しく、真っ赤にまみれて、咲いてますよ。まだ、ポックリ落ちてません」
「つ…ばき?どう、したんだ?無事なのか?」
「全然、ボロボロです」
自分の血で血塗れでボロボロなんだ。頭はズキズキ痛いし息をする度に胸部も腹部も肩も痛い。すごく、胸が痛い。
いつだったか。病室で篠塚さんに言われたことがある。あたしは死なない、と。あたしは凛々しい花──椿花なのだから。
はは。誰も。
誰も死なせてくれないのか。
白瑠さんも秀介も蓮真君も──篠塚さんも。死なせてくれない。
「いま、今っどこにいるんだ!?」
「いいから聞いてください、篠塚刑事」
あたしは強く言った。
「篠塚さん………あたしを、助けてください…」
ポロポロと涙が落ちる。
悲鳴みたいな弱々しい声は喉をチクチクと刺激する。喉に何かを詰まらせたみたい。病室で首の怪我を治してた時より、痛いかもしれない。
口にして、一気に冷えた。
冷めた。凍るように、冷めた。
何を馬鹿なことを言っているんだろう。頭よりこの首を粉砕してもらった方がいい。
泣くんじゃない。
何を泣いているんだ。
これは、全部。まるごと。根こそぎ。自分のせいだ。自業自得。他人に助けを乞うのは、許されない。
「───嘘です」
あたしは淡々とした口調を作り上げていう。
「あたしは被害者じゃない、加害者なんです。あたしが真犯人なんですよ、篠塚刑事。貴方は56人を殺した殺人鬼を気遣って、心配して、笑いかけて、頭を撫でたんです。傑作でしょう?」
冷たく淡々と嘲笑うように貶すように吐き捨てた。
嗚呼、違う。違う。
こんなこと言うつもりじゃなかった。
謝ろうとした。
その時、プツリと電話は切れてしまった。
篠塚さんが切ったんじゃない。公衆電話が切れたんだ。
「─────ぷっ、はははっ」
笑い出したら身体中が軋むように痛みだした。痛い。
そう、だった。
そうだったんだ。
あたしは、真面目に。
誰かに助けを乞うことが出来なかったんだ。
助けを乞うたところで誰にも何もできないものを一人抱えなくてはならなかった。その癖が、今でもこびりついているんだ。
だから、白瑠さんに、まともに言えない。
勝手に殺してくれると思った。
56人を殺した最初の殺しのあと、誰にも助けを求めてなかった。求めるつもりは微塵もなかったんだ。
病室に見舞いに来た元友人達にだって、求めやしなかった。
誰も、助けては、くれない。
誰も、助け、られない。
誰が助けてくれると言うんだ。救って欲しいのは、あたしの心だ。凍えた心。
凍ってしまった心を一体、誰が救ってくれるんだ。
「もしもし」
あたしは自分の携帯電話で電話をした。
「今すぐ、迎えにきてくれませんか?すぐです」
場所を、伝える。
「警察が来る前に迎えに来なきゃ、串刺しにしますよ───ラトアさん」
助けて。
なんて、言えなくて。
ただその一言を言えなくて。
あたしは、生きようとして、殺されようとしてる。