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お金で会っていた年下の彼に、「恋人になりたい」と言われました

作者: 黒咲かぐら
掲載日:2026/11/03

 封筒を受け取らなかったのは、その日が初めてだった。


「これからは、お金なしで会いたいです」


 苅部さんはテーブルの端に指を置き、私を見た。


「付き合ってほしい」


 隣の席で、小さな子がジュースをこぼした。

 母親がバッグからハンカチを出す。店員がおしぼりを持ってくる。その間、私は封筒を差し出したままでいた。


 出会って四か月。

 二十六歳の彼と、約束して会うたびにお金を渡していた。

 彼が欲しかったものと、私が欲しかったものは違っていたけれど、それでうまくいっていたはずだった。


「貯金、もう大丈夫なの?」


 最初に口から出たのは、それだった。

 苅部さんの指が、テーブルから離れた。



     *



 最初に会ったのは、六月の土曜日だった。


 待ち合わせの喫茶店には、約束の十五分前に着いた。

 店に入る前、ガラスに映った自分を確かめる。白のブラウスに紺のパンツ。会社帰りみたいだと思ったが、家で三回着替えた結果だった。

 休日らしい服は、張り切って見えすぎるか、近所のスーパーへ行く格好になる。


 三十五歳にもなって、何を着るかでこんなに迷うとは思わなかった。


 窓際の席につき、彼に連絡した。


〈中にいます。白いブラウスに紺のパンツです〉


 水を二口飲んだところで、彼が来た。

 写真より髪が短かった。肩がしっかりしている。入口で店内を見回す顔には、私と似た緊張があった。


「チハルさんですか」

「はい。ナオさん?」


 彼はうなずき、向かいに座った。

 互いに下の名前をカタカナで名乗っていた。私が千晴、彼が直央。名字はまだ知らなかった。


「暑いですね」

「駅から歩くと、思ったよりありましたね」


 どこで会った相手でもできる話をした。

 彼はアイスコーヒーを頼み、私は先に注文していた紅茶を飲んだ。砂糖を入れたかどうか、もう覚えていなかった。


 こういう関係を求めている男女の募集を、私は何日も眺めていた。

 お金を出して、年下の男性に会う。ママ活という呼び方は、自分のすることと少し離れたところに置いておきたかった。誰かの母親になりたいわけではなかったから。

 それでも、探しているものがそこにあることは分かっていた。


 彼を選んだのは、顔が好きだったからだ。

 写真の笑い方も、半袖から出た腕も好みだった。

 短い自己紹介には、休みが土日で、仕事のある日は夜遅くまで会えないと書いてあった。いつでも会えると書かれていないことにも、少し安心した。


「こういうの、慣れてます?」


 私が尋ねると、彼は首を振った。


「一度、食事したことがあるだけです。チハルさんは?」

「初めて」

「そうなんですね」


 会話が止まった。

 彼はストローの袋を細く折り、それに気づいたらしく手を止めた。


「こういうのって、寂しいから始めるんですか」


 私は顔を上げた。

 彼は、口にしてから困った顔になった。


「あ、すみません。聞き方が」

「寂しい日もあるけど。それだけじゃないよ」


 声が少し硬くなった。

 友人との約束も、気に入っている仕事もあった。水曜日に早く帰れれば、一人で映画を観る。休日に寝坊するのも好きだった。

 男性がいないから、毎日泣いて暮らしているわけではない。


 ただ、何年も誰にも触れられていなかった。

 それを思い出して、寝つけなくなる夜があった。


「あなたは?」

「俺は、お金です」


 彼は言い切ってから、ますます困った顔になった。


「また、言い方が悪かったですね」


 笑ってしまった。

 彼の耳が赤くなった。


「そこは、取り繕わなくていいと思う」

「でも、それだけだと、誰でもいいみたいになるんで」

「違うの?」

「会って話してみて、嫌だったら続けないと思います。俺も」


 私は彼を見た。

 彼は、こちらの機嫌をうかがいながら笑うことはしなかった。


「私も、そうしたい」


 そこでようやく、紅茶の味がした。砂糖は入れていなかった。


 私は生活用品メーカーで、営業企画の仕事をしている。

 係長になって四年目。給料で生活して、貯金もできる。結婚するためのお金として分けていた口座は、三年前から普通の貯金に戻っていた。


 前の恋人とは、彼の転勤をきっかけに別れた。

 ついていけば、と母は言った。私には、任されたばかりの仕事があった。

 彼にも私のいる街へ戻る予定はなかった。

 どちらかが悪いと言えないまま、電話が減り、会う予定を立てることに疲れた。


 もう恋をしないと決めたわけではない。

 けれど誰かと知り合うと、今度は結婚をどうするのかが頭をよぎった。相手も考えるだろう。考えないなら、考えないで腹が立つのかもしれない。

 始まる前から、そんなことが面倒になっていた。


「食事だけの相手を探してるわけじゃないです」


 私はカップを置いた。

 彼の表情が変わるのを見ないように、いったん視線を落とした。


「その先も、会ってみて、お互いに嫌じゃなければ」

「はい」

「今日は、ここまでにしたいけど」

「俺も、そのつもりです」


 そこで初めて、彼が少し笑った。


「いきなり次の場所を探し始めたりしません」

「うん。それは、助かる」


 喫茶店を出たのは、一時間後だった。

 顔合わせの分として約束したお金を渡した。彼は一度私を見てから、受け取った。

 改札まで一緒に歩く途中、彼は道路の向こうのパン屋を見た。


「あそこ、塩パンがおいしいです」

「よく来るの?」

「前の会社、この近くにあったんです」


 過去形だった。

 私はその先を聞かなかった。


 駅で別れ、帰りに塩パンを二つ買った。

 家に着くまでに一つつぶれた。夕飯の前にそれを食べ、残りは翌朝にしようと思った。

 結局、二つとも食べた。


〈また会いたいです〉


 送ったあと、スマホを食卓に伏せた。

 洗濯物を畳んだ。タオルを一枚畳むごとに画面を確かめ、五枚目のところで返事が来た。


〈俺もです。来週の土曜、どうですか〉


 その先のことは、まだ何もしていない。

 それなのに私は、来週までに少しだけでもお腹を引っ込めたいと思い、空になったパンの袋を見た。



     *



 二度目に会う前、メッセージで条件を確認した。

 月に一、二度。互いに都合のつく日。どちらも独身で、恋人はいない。交際相手ができたら、この関係は終わりにする。

 会っても気が進まなければ食事だけで帰る。お金を渡したからといって、その先を断れなくなるようにはしたくなかった。


〈普段は、用事がなければ連絡しなくて大丈夫です〉


 最後に私が送ると、彼は承知した。

 気遣いのつもりだった。

 返事の来ない画面を、自分が毎日見なくて済むようにもしたかった。


 当日は、駅前のイタリア料理店へ行った。

 彼はメニューをじっくり見て、魚介のパスタを頼んだ。私はいつもの癖で、二人分の前菜まで決めかけた。


「苦手なもの、ある?」

「生のトマトが、ちょっと」

「そうなの? 先に聞けばよかった」

「パスタに入ってるのは平気です」

「じゃあ、これはやめよう」


 カプレーゼを指していた指を動かすと、彼は「あ、別に頼んでも」と言った。


「私も、すごく食べたいわけじゃないから」


 代わりにきのこの前菜を頼んだ。

 好みを知らない人と食事をすること自体、久しぶりだった。


 会計のあと、彼は私がバッグを閉じるのを待って尋ねた。


「このあと、どうします?」


 私は一度、店の外を見た。

 家族連れが通り過ぎていった。誰も私たちを見ていない。


「一緒に、いたいです」


 自分で言うと、急に現実になった。

 彼は短くうなずいた。


 部屋に入ってからも、私はバッグを肩に掛けたままだった。

 彼が気づき、「座りません?」と言った。


「そうだね」


 椅子にバッグを置く。

 中の小さなポーチには、家で選んだものが入っていた。必要かどうか迷い、結局持ってきた。そこまで考えていたくせに、顔が熱かった。


「緊張しますね」


 彼が言った。


「ナオさんも?」

「しますよ」

「慣れてるのかと思った」

「先週、慣れてないって話しました」


 そうだった。

 私は笑った。彼も笑って、ソファの端に座った。


 しばらく、つけたテレビを二人で見た。

 知らない芸人が料理を失敗していた。その話をしているうちに、バッグの中身のことを考えなくなった。


 翌朝、先に目を覚ましたのは私だった。

 カーテンの隙間が明るかった。

 隣に人がいる。そのことを、起きてすぐには思い出せなかった。


 彼が寝返りを打ち、目を開けた。


「おはようございます」

「おはよう」


 彼は枕元の時計を見た。


「時間、まだ大丈夫ですか」

「うん」


 髪が跳ねていた。

 言うと、彼は手で押さえた。直らなかった。

 笑いながら見ていると、彼も私の前髪を指さした。


「人のこと、言えないです」


 家へ帰り、洗濯機を回した。

 昼食を作るつもりだったが、面倒になって冷凍うどんにした。洗濯物を干しながら、次に会うときは何を着ようと考えた。


 満足していた。

 始めた自分を嫌いになったりはしなかった。

 彼からの〈無事帰れましたか〉に〈帰りました。ありがとう〉と返し、スマホを置いた。

 その日は、それ以上の連絡をしなかった。



     *



 三回目に会ったとき、名字を教え合った。


「苅部です。草冠の、苅る」

「苅部直央さん」

「はい。千晴さんは?」

「有坂。ある、に坂道の坂」


 居酒屋の伝票の裏に、互いの名前を書いた。

 直央の央は真ん中の央だと、彼が付け足した。


「今度から、苅部さんって呼ぼうかな」

「急に遠くないですか」

「ナオさんだと、まだハンドルネームみたいで」

「本名なんですけど」


 彼が笑ったので、私も笑った。

 結局、私は苅部さんと呼ぶことにした。彼は千晴さんのままだった。


 彼は印刷会社で、チラシや冊子の制作補助をしていると言った。

 前も同じ仕事だったが、会社が廃業したという。


「最後まで仕事はあったんですけどね。明日来なくていい、じゃなくて、何月で終わりですって。終わるまで普通に忙しくて」

「次の仕事、すぐ決まった?」

「四か月かかりました。給付とかはありましたけど、引っ越しも重なって」


 今の会社に入って半年になるそうだ。

 生活は給料で足りる。ただ、貯金の残高を見ると落ち着かない。それで知人の話を聞いたのだという。


「大変だったんだね」

「大変だったのは確かですけど。それでこれ始めるのが当然、とまでは思ってないです」


 彼はおしぼりを畳んだ。


「普通に節約しても、貯まるんで。時間かかりますけど」


 私も、似たようなことを思っていた。

 彼を助けるために会っているわけではない。

 彼も、私を慰めるためだけに座っているわけではなかった。


「この話、嫌ですか」


 彼に聞かれ、私は首を振った。


「知らないまま、勝手に考えちゃうよりいい」


 その夜は、以前より少し長く話した。


 約束の日以外に連絡することは、ほとんどなかった。

 私が候補日を送り、彼が都合を確かめる。店を決める。前日に、予定どおりで大丈夫か確認する。

 それでよかった。


 七月の初め、金曜夜の仕事の予定が急になくなった。

 久しぶりに早く退社できる。明日は休みだった。


〈今日、急だけど空いてる?〉


 駅へ向かいながら送ると、電車に乗る前に返事が来た。


〈すみません。友達と約束があって〉

〈来週の土曜なら空いてます〉


 分かった、と返した。

 前に行った店の空席を調べていた画面を閉じた。


 夕飯は駅の地下で買った。

 惣菜を三つ選び、家で皿に移した。テレビをつけたが、どの番組も面白くなかった。

 手をつける前に、缶ビールが一本空いた。


 いつもより多く出すと伝えたら、来るだろうか。


 考えた自分に、驚いた。

 友人との約束だと言われている。来週なら会えるとも言われている。

 それなのに、急に空いた自分の金曜日が、彼の予定より大切な気がした。


 スマホを別の部屋に置き、食器を洗った。

 惣菜は二つ、翌日に残した。


 次の土曜日、彼は腕を少し日焼けさせて現れた。


「釣りに行ってたんです。先週」

「金曜から?」

「夜から友達の家に集まって、朝早く出て」


 何が釣れたのか聞くと、彼は笑った。


「何も」

「一匹も?」

「友達が小さいの一匹。逃がしました」

「朝早く出たのに」

「帰りにスーパーで刺身買いました。四人で」


 想像して、笑ってしまった。

 釣りに使った箱を持った男たちが、鮮魚売場に並んでいる。


「千晴さんは、何してたんですか」

「金曜日? 家で飲んでた」

「何飲むんですか」


 私は銘柄を答えた。

 彼は、それなら自分も飲むと言った。


 釣りの写真を見せてもらった。

 朝日が海に広がる写真と、眠そうな男の人たち。最後には、スーパーの刺身のパックがあった。

 どれも、私に送るために撮ったものではなかった。


 断ってくれて、よかったと思った。

 そう思えたのは、実際に会ってからだった。


 友達との予定より自分を優先してほしかったとは、言わなかった。

 代わりに、次はもう少し早く誘おうと決めた。



     *



 七月の終わり、私のほうが約束を変えてもらった。


 新商品の店頭用資料に、古い仕様の画像が残っていた。

 制作を担当した後輩だけのミスではない。確認した私も、見落としていた。

 取引先からの問い合わせで発覚し、営業への連絡とデータの差し替えを済ませた頃には、六時を過ぎていた。


 待ち合わせは七時。

 間に合うけれど、笑って食事をする気分にはなれなかった。


〈ごめんなさい。今日は疲れてしまって、食事だけで帰りたいです〉


 送ってから、彼がもう家を出ていることを思い出した。

 別の日に変えても、と思ったところで返事が来た。


〈分かりました。何食べたいですか〉


 いつもと同じ返事に、肩の力が抜けた。


 予約していた店は、まだキャンセル料のかからない時間だった。私から電話を入れ、待ち合わせ場所を駅の東口へ変えた。

 苅部さんが近くの定食屋を提案した。


 席についてからも、私は資料の画像が頭を離れなかった。

 スマホを一度見ると、後輩から謝罪のメッセージが来ていた。

 月曜に手順を見直そう、今日はもう休んで、と返す。


「仕事ですか」

「うん。私も、同じところで間違えてたんだけどね」


 彼は私がスマホをしまうのを待ち、注文用の端末をこちらへ向けた。


「決まりました?」

「唐揚げ。苅部さんは?」

「焼き魚にします」


 料理を待つ間、私は仕事のことを話した。

 どうして古い画像が残ったのか。確認する段階はいくつもあったこと。出荷済みの商品に問題はないけれど、説明し直さなければならない相手が多かったこと。


 苅部さんは聞いていたが、途中で眉を寄せた。


「すみません。その二つの資料って、誰に渡すものなんですか」

「え?」

「社内の人と、取引先? 俺、その辺から分からなくなって」


 私は話すのをやめた。

 彼は困った顔をした。


「ごめんなさい。話の途中で」

「ううん。私、分かるように話してなかったね」


 会社の人に話すように、名称だけで説明していた。

 相手が知らないことを考えていなかった。


 最初から説明し直した。

 彼が二、三度質問し、私が答えた。話しながら、今日ずっと同じことを聞かれて腹が立っていた理由にも気づいた。

 自分が確認を怠ったところを、何度も思い出すからだった。


「私、後輩に優しくする余裕もないのかと思ってた」

「何て言ったんですか。その人に」

「月曜に、確認の仕方を一緒に考えようって」

「じゃあ、その人には伝わってないんじゃないですか。余裕ないの」


 伝わっていなければいいと思った。

 月曜には、顔を見て話せばいい。


 運ばれてきた唐揚げは、思っていたより大きかった。

 二つ食べたところで箸が止まると、苅部さんが皿を見た。


「食べきれなかったら、一つもらっていいですか」

「最初に言えばよかった。まだ触ってないの、あるよ」


 彼は取り皿へ一つ移し、熱そうに食べた。

 私は味噌汁を飲んだ。胃のあたりが、やっと温まった。


 駅へ向かう道で、私は封筒を渡した。

 彼は礼を言い、封筒を鞄にしまった。

 今日はこのまま帰る。それをもう一度確かめなくてよかった。


「唐揚げ、おいしかったですね」


 改札の前で彼が言った。


「仕事の話より、そっちが印象に残った?」

「いや、仕事の話も覚えてますけど」

「冗談。今日は聞いてくれて、ありがとう」


 彼は首を振った。


「月曜、うまく話せるといいですね」


 手を振って別れた。

 ホームに上がり、さっきの店を検索した。


〈ここ、ランチは少し安いんだね〉


 用事のない連絡はしなくていいと言ったのは、私だ。

 次に会う日の相談でもないのに、送っていた。


〈焼き魚もおいしかったです。次は唐揚げにします〉


 彼の返事を読んで、私はもう一度メニューを見た。

 次は、と思ってくれたことが嬉しかった。



     *



 連絡は、急には増えなかった。

 私が送った店の写真に、彼が翌日の昼休みに返事をする。彼が送ってきた釣り竿の写真に、私が使い方を尋ねる。その程度だった。


 八月に入ると、彼が「千晴さん、手帳って使います?」と聞いてきた。

 仕事では使っていると答えると、紙の厚さがどうだとか、製本の方法がどうだとか、私には考えたことのない話になった。


〈紙が薄いと、裏に書いたのが透けて嫌じゃないですか〉

〈透けるのは嫌だけど、厚いと重い〉

〈それなんですよ〉


 その一言に、妙に実感がこもっていた。


 次に会ったとき、私は仕事用の手帳を見せた。

 彼は書き込みのないページを開き、綴じてあるところを見た。


「これ、去年も同じの使ってました?」

「うん。もう何年も」

「使いやすいんですね」

「書き慣れてるだけかも」


 彼は買い替えを勧めなかった。

 ただ、開きやすいですねと言い、返してくれた。


 私はそのとき初めて、自分が彼に仕事の道具を見せたことに気づいた。

 会社名が書いてあるページもある。

 彼はそこを読もうとしなかったが、急に隠すのも変だった。


「営業企画、でしたっけ」

「うん。生活用品の会社。今は洗面所まわりのものとか」

「この前、ドラッグストアで見たかもしれないです。言ってた形のやつ」


 商品名を尋ねると、うちの商品だった。

 私が入社する前から売っているものだったが、それでも少し嬉しかった。


「買ったの?」

「いや、まだ前のが使えるんで」


 そこは買ってよ、と言いかけて笑った。

 彼も、買ったほうがよかったですか、と笑った。


 その二週間後、彼が待ち合わせに遅れた。


 六時半頃に、仕事が終わらず一時間ほど遅れそうだと連絡があった。

 私の家から待ち合わせの駅までは三十分。まだ出発していなかったので、時間をずらして出た。

 彼は八時少し前に来た。


「すみません」

「会社、ここから遠いの?」

「二十分くらいです。会社を出て、そのまま来ました」

「お疲れさま。先に、何か食べようか」


 彼はうなずいた。

 普段なら、店に入るまでの間にも何か話す。今日は黙って歩いていた。


 近くの中華料理店に入り、麺と餃子を頼んだ。


「仕事、大変だった?」

「自分のミスです」


 彼は水を飲んだ。

 私は、それ以上聞かなかった。

 隣の席に来た料理を見て、あっちにすればよかったと言うと、彼も顔を上げた。


「それ、辛いやつですよ」

「辛いの、好き」

「俺、辛いの食べると翌日までお腹にくるんで、無理です」


 少しだけ会話が戻った。

 餃子が来て、互いの皿に取り分けた頃、彼がぽつりと言った。


「チラシの日付、古いのが残ってたんです」


 私は箸を置いた。


「印刷に回す前に、俺が最終確認するところで見落として。そのまま刷っちゃったんです」

「前に私が間違えたのと、ちょっと似てるね」

「そうですね」


 笑おうとして、うまく笑えていなかった。


「でも、お客さんには確認してもらってたんでしょう?」

「確認は、もらってます」

「じゃあ全部、苅部さんの責任ってわけじゃ」

「そういう話じゃなくて」


 彼の声が、少し強くなった。

 私は口を閉じた。


「すみません」

「ううん。私、勝手に先に行ったね。続き、聞いてもいい?」


 彼は水を飲み、グラスを置いた。


「前の会社と、似た仕事なんです。だから、採ってもらったとき、経験あるからって言われて」

「うん」

「今の会社のやり方、まだ覚えなきゃいけないこともあって。でも、分からないって言うの、ちょっと格好悪くて」


 今日だけの話ではなかった。

 彼は最近の仕事のことを話した。

 引き継ぎでもらったデータが整理されていなかったこと。分からない箇所を聞くつもりが、忙しそうな先輩を見て、後回しにしたこと。自分で探しているうちに時間が足りなくなったこと。


 私は、明日から使える助言を探しかけた。

 けれど彼の会社の人員も、頼みやすい人がいるかどうかも知らない。


「それで今日は、直してたんだ」

「はい。先輩にも残ってもらいました」

「お礼は言えた?」

「言いました。月曜、もう一回言います」


 餃子が一つ残っていた。

 彼が私に確認してから食べた。


「今日は、ここで帰ってもいいですか」

「もちろん。遅くまで仕事だったんだし」


 彼の眉間が、少し緩んだ。

 私は会計を済ませ、店の外で封筒を出した。


 彼はすぐには手を伸ばさなかった。


「どうしたの?」

「……今日、俺、話聞いてもらってばっかりだったんで」

「そういう日もあるでしょう」

「でも」

「この前、私の仕事の話も聞いてくれたし」


 私は差し出したまま待った。

 彼は受け取った。


「ありがとうございます」


 その声は、初めて会った日の声より小さかった。


 帰りの電車で、彼から連絡が来た。


〈途中で強く言って、すみませんでした〉


 私は返事を打ち、途中で消した。

 気にしなくていいよ、と書くと、これからも私の言い方を我慢させる気がした。


〈私も、最後まで聞く前に決めつけた。ごめんね〉

〈来週、ちゃんと先輩に聞けるといいね〉


 返事は、私が家に着いてから届いた。


〈はい。今日は会えてよかったです〉


 次に会う日を確かめる言葉はなかった。

 私はその短い文章を、着替えたあとにも読んだ。



     *



 月曜日の夜、彼から、先輩に時間を取ってもらえたと連絡があった。


〈月末にもう一人入るみたいで、その人と一緒に手順教わることになりました〉

〈よかった。聞いてみたんだね〉

〈はい。先輩も、まとめて話すほうが楽だって〉


 私はそれを読んでから、手帳の翌週のページを開いた。

 彼と会う日は、何も書かずに小さな丸だけつけていた。

 その丸の横に、初めて店の名前を書いた。


 九月になると、彼の会社が出展する紙のイベントの案内が送られてきた。

 市内の小さな展示施設で、紙や印刷に関わる会社が、商品や見本を販売する催しだった。


〈手帳の話してたので。興味あったら〉


 日程を見ると、土曜日だった。

 彼は会社の担当者として立つという。


〈会いに行っても平気?〉


 送ってから、違う聞き方をすればよかったと思った。

 会社の人に、どう説明するのだろう。


〈はい。二時から四時まで、交代で休憩するんで、その時間は席外してるかもです〉


 返事は普通だった。

 私はスマホを置き、クローゼットを開けた。


 当日は、薄い緑のワンピースにした。

 会社へ着ていく服はやめたかったが、特別な約束をした日でもなかった。鏡の前で、また少し迷った。


 会場には、私より若い人も、親より年上に見える人もいた。

 入口でもらった地図を見て歩くと、彼の会社の名前が見つかった。


 彼は紺のポロシャツを着て、年配の女性に紙の見本帳を見せていた。

 説明が終わるまで、少し離れたところでノートを見た。


「こんにちは」


 顔を上げると、彼がいた。

 名前を書いた札を首から下げている。苅部直央。伝票の裏で見た字より、ずっと普通の名前に見えた。


「来ました」

「ありがとうございます。あ、それ、開いてみていいですよ」


 私が見ていたノートを指した。

 厚い表紙なのに、開くと真ん中が平らになった。


「手で押さえなくていいんだ」

「そうです。こっちは薄いんですけど、ページ数も少なくて」


 隣のノートも見せてもらった。

 私は二つを交互に開き、鞄に入る大きさを確かめた。


「苅部君、お知り合い?」


 横から声がした。

 同じポロシャツを着た女性が立っていた。

 彼が口を開きかけたので、私が先に答えた。


「はい。手帳の話をしていて、こちらを教えてもらって」

「ああ、そうなんですね。ゆっくり見ていってください」


 女性は笑い、別のお客さんのところへ行った。

 私も少し笑った。頬が硬くなっていた。


「これ、買います」


 薄いほうのノートを一冊持ち上げた。

 彼は会計の場所を指した。そこで別の社員にお金を払い、袋を受け取った。


「ほかも、見てきます。仕事中にごめんね」

「いえ。あとで、感想聞かせてください」


 私はうなずき、隣のブースへ移った。


 紙のイベントが、こんなに楽しいとは知らなかった。

 封筒の色を選び、便箋を買い、活版印刷のカードを指で触った。彼がいるから来たのに、気づくと一時間半経っていた。


 休憩中なら、と連絡すると、もうすぐ戻ると返ってきた。

 戻る前に会えるかと思い、入口へ行くと、彼が紙コップのコーヒーを飲んでいた。


「ずいぶん買いましたね」

「そう。使い道、考えてないものもある」


 袋から一枚、カードを出した。

 小さな鳥が、端のほうに一羽だけ印刷されている。


「これ、好きなんですか」

「うん。何もないところが多くて。書きやすそうで」

「でも、書くの、もったいなくなるやつですね」

「そうなんだよね」


 彼が笑った。

 紙コップを潰す前に、中身をもう一度確かめた。


「終わったあと、時間あります?」

「今日は、このあと何もないけど」

「撤収があるんで、六時過ぎになると思うんですけど。ご飯、行きません?」


 私は手の中のカードを見た。

 今日、会う約束はしていない。

 財布には、普段の封筒も入っていなかった。


「今日は、その……」


 彼は私が言い終わる前に、首を振った。


「俺が誘いました。ご飯、一緒に食べたいだけです」


 離れたところで、スタッフを呼ぶアナウンスが流れた。

 彼が時計を見る。


「じゃあ、六時半に駅のほうで」


 私が答えると、彼はうなずいた。

 歩き出してから一度戻り、言った。


「場所、あとで送ります」


 私は買ったノートを鞄にしまった。

 会う前には持っていなかった予定ができていた。



     *



 その晩は、彼が調べた洋食屋へ行った。

 イベントのことを話した。彼は朝から立っていて足が痛いと言い、私は二時間歩いただけで疲れたと言った。


「お客さん、どういう人が多かった?」

「結構、いろいろです。ノートを何冊も比べる人とか」

「私みたいな?」

「千晴さんも、長かったです」

「仕事の邪魔だった?」

「違います。ちゃんと使うもの選んでるなって、思いました」


 私は鞄の袋を見た。

 使い道のない紙まで買ったことは、もう話していた。


「使わないものも選んでたけど」

「それは、それで」


 彼は笑って、ハンバーグを切った。


 会計では、互いに食べた分を払った。

 私の財布から出したお金は、レジへ行った。


 店の外で、どちらからも次の場所の話をしなかった。

 駅へ向かう途中、彼が私の紙袋を持とうかと聞いた。

 重くないから、と断ったあと、持ってもらえばよかったと思った。


 改札の前で別れた。


〈今日は来てくれてありがとうございました〉


 帰りの電車でメッセージが届いた。


〈こちらこそ。ノート、使うの楽しみ〉


 そこまでは、すぐ打てた。

 そのあと、夕飯も楽しかったと書いて、消した。

 また書いて、送った。


〈俺もです〉


 それを読んで、隣の窓に映る自分の顔を見た。

 少し、笑っていた。


 それでも私は、次に会う日には封筒を用意した。

 あの日は会社のイベントに行った帰りで、たまたま夕飯を食べた。

 彼が丁寧なのは、私が今後も会う相手だからかもしれない。

 そう考えれば、何も変えずに済んだ。


 九月の終わり、彼のほうから初めて電話が来た。

 事前に、今話せるかとメッセージがあった。

 私は洗い物を終え、ソファに座ってから電話をかけ直した。


「どうしたの?」

「急ぎじゃないんですけど。今日、会社で」


 新しく入った社員の話だった。

 以前の彼と同じところで迷っていて、説明したら通じたという。


「教える側になったんだね」

「一個だけです。あとは、俺もまだ聞いてます」


 その話が終わると、会話が止まった。

 私はスマホを持つ手を替えた。


「千晴さんは?」

「私?」

「今日、何してたんですか」


 平日だから、仕事だ。

 そう答えかけて、今日食べた昼食の話をした。

 会社の近くに弁当屋ができた。おいしいが、付け合わせのマカロニサラダが少ない。


「そこ、量が決まってるんじゃないですか」

「だから、ご飯を減らしていいから、その分増やしてほしい」

「それ、言ってみたらいいじゃないですか」

「初日にそんなこと言えないよ」


 電話の向こうで彼が笑った。

 私は次に買うなら何弁当にするか話し、彼は明日の昼はコンビニだと言った。


 切ったあとで、二十分も話していたと気づいた。

 次に会う日の話は、一度もしなかった。



     *



 十月、雨の水曜日だった。


〈会いたいです〉


 夜十時過ぎに、彼から届いた。

 私はちょうど、手帳に翌日の予定を書き込んでいた。

 その週末は、母と出かける約束があった。


〈今週は難しいけど、来週の土曜なら。七時頃からでどう?〉


 返事は、少し間を置いて届いた。


〈はい。大丈夫です〉


 店は、翌日決めた。

 駅ビルに入っている、何度か行ったことのある店だった。


 当日、彼は先に着いていた。

 席に案内され、メニューを開いた。

 彼はパスタを選び、私は魚料理にした。前菜も、互いに相談して一つ頼んだ。


 食事中、彼は何度か口を開きかけた。

 私は、また仕事で何かあったのだろうかと思った。


「会社、大丈夫?」

「会社は、大丈夫です」

「そう」


 それ以上聞かなかった。

 コーヒーが来たとき、私は鞄の内側に手を入れた。

 店を出てから渡すと、駅前の人混みで出しづらい。席の間が空いていたので、テーブルのこちら側で渡そうとした。


 彼は封筒を見た。


「今日は、それ、受け取らないです」


 私は手を止めた。


「これからは、お金なしで会いたいです」


 彼はテーブルの端に指を置いた。


「付き合ってほしい」


 隣の席で、小さな子がジュースをこぼした。

 私たちはしばらく黙って、その片づけの音を聞いた。


「貯金、もう大丈夫なの?」


 彼の指がテーブルから離れた。


「少しずつ、貯まってます」

「無理しなくていいんだよ。前の会社のこともあったし」

「お金に困らなくなったから、言ってるだけじゃないです」


 私は封筒を膝に下ろした。

 彼を見た。見慣れているはずの顔が、今日はやけに近かった。


「私、三十五だよ」

「知ってます」

「今はよくても、何年かしたら、違うかもしれない」

「違うって、何がですか」

「結婚したくなるとか、子どもが欲しくなるとか」


 言ってから、私は自分の手を見た。

 彼がどうしたいかは、一度も聞いたことがなかった。

 私自身、今すぐ結婚したいわけではない。でも、この先ずっとしなくていいと決めてもいなかった。


「千晴さんは、どうなんですか」

「私は……」

「結婚とか、子どもとか」

「まだ、分からない」


 彼はうなずいた。


「俺も、まだ決めてないです。だから、付き合って、話したいです。そういうことも」


 そんなに簡単ではないと思った。

 九歳の差は、話し合ってもなくならない。

 彼が三十五になったら、私は四十四だ。今より若い女性と出会う機会も、これからいくらでもある。


 けれど、それを言って、何と答えてほしかったのだろう。

 絶対に別れないと言わせたかったのか。

 まだ付き合ってもいない人に。


「今のままじゃ、だめ?」


 私は膝から封筒を持ち上げた。

 彼は目を伏せた。


「今までどおりなら、また会えるでしょう」


 自分で言いながら、ほっとしかけた。

 次の日を決めて、また会う。それなら、できる。


 彼は首を振った。


「俺が会いたいって言っても、仕事だと思いますよね。これ受け取ってたら、ずっと」


 私は、否定できなかった。


「水曜日も、別に予定を決めたかっただけじゃないです」

「……そうだったの?」

「はい」


 彼は息を吐いた。


「でも、そういう会い方してきたんで。千晴さんだけに、分かってほしかったって言うのも違うと思います」


 コーヒーは、もう湯気が立っていなかった。

 彼は一口飲み、カップを置いた。


「今は、返事できないですか」


 私はうなずいた。

 彼は、分かりましたと言った。


 会計はそれぞれ払った。

 彼がその分を用意していたことに、レジの前で気づいた。

 私は自分の食べたものの代金を払い、封筒の入った鞄を持ち直した。


 店の外で彼が止まった。


「今までみたいに会うのは、一度やめたいです」

「……うん」

「返事をくれるなら、聞きたいです。でも、会えなくなって困るからって、お金の話に戻すのは、もう」


 最後まで言わなくても分かった。

 私はもう一度うなずいた。


 彼は、気をつけてとだけ言った。

 駅で反対方向へ別れるときも、振り返らなかった。



     *



 彼から連絡は来なかった。


 私も送れなかった。

 仕事は忙しかったし、週末に掃除もした。母と電話をし、友人と食事にも行った。

 毎日泣いて過ごしたわけではなかった。


 ただ、何か見るたび、彼に話しかける文章が頭にできた。

 電車の広告の変な改行。仕事帰りに見つけた唐揚げの店。会社で使う紙が薄くなって、去年の資料と手触りが違うこと。

 それを送らずに終わると、そのあと何をしても少し落ち着かなかった。


 一週間が過ぎた頃、スマホの連絡先を開いた。

 苅部直央。

 名字を知った日に、登録し直していた。


〈この前は、ごめんなさい〉


 そこまで書いて止まった。

 何を謝るのか。

 好きだと言われて、その気になれなかったことを謝るのは違う。

 会いたい、とだけ送れば、彼が聞きたかった返事にはならない。


 消した。


 二週間目、最初に相手を探した募集の画面を開いた。

 しばらく見ていない間に、知らない人が増えていた。

 仕事のある日は会えないと書いている人もいた。顔が好みの人もいた。


 私は一人に連絡した。

 この関係が恋になって困るなら、恋にならない相手に会えばいい。

 うまくいくかもしれないと、まだ考えていた。


 日曜の午後、駅前の喫茶店で会った。

 相手は二十九歳の会社員で、受け答えが丁寧だった。

 写真と大きく違わない。清潔な服装で、時間より少し早く来た。

 好きな食べ物の話をし、通勤電車の話をした。嫌だと思うところはなかった。


「仕事で使ってる名刺、今度変わるんですよ。会社のロゴ変わるんで」


 彼が言った。

 私は、紙も変わるのだろうかと思った。

 苅部さんなら、どこを見るだろう。


 目の前の人の話を聞きながら、別の人のことを考えていた。

 それが申し訳なくなった。


 帰り際、次はいつにするか聞かれた。

 私は首を振った。


「ごめんなさい。今、続けて会える気持ちになれていなくて」

「そうですか」


 彼は少し残念そうだった。

 けれど、理由を問い詰めたりはしなかった。


「分かりました。今日はありがとうございました」


 約束した顔合わせのお金を渡し、別れた。

 駅へ向かう途中、自分の身勝手さが嫌になった。

 彼に嫌なところがあれば、断る理由にできたのかもしれない。

 丁寧に会ってくれた人に、最初から別の誰かと比べる時間を使わせた。


 帰りに弁当屋へ寄った。

 苅部さんと電話で話した店の、駅前にある別の支店だった。

 唐揚げ弁当を頼み、出来上がりを待つ。

 見本の脇に、マカロニサラダの小さなカップが並んでいた。


「あの、これだけ追加できますか」


 店員は、できますよと言った。

 私は一つ頼んだ。


 弁当の横に置いて、写真を撮った。


〈増やせました〉


 メッセージにすると、それだけだった。

 初日に言えなかったことも、電話で笑われたことも、彼なら分かる。

 ほかの人に送っても、説明しなければ意味がない。


 私は送信せず、スマホを置いた。

 先に、言わなければいけないことがあった。


 彼に触れたいと思った。

 初めて会った日と同じように、顔も、肩も、笑ったときの目も好きだった。

 それだけなら別の人で埋まると考えたが、違った。

 彼が明日、何を昼に食べるのか。会社で教えている人が、もう慣れたのか。今度の釣りは、いつなのか。

 聞きたいことが、いくつもあった。


 彼の返事を待つ人になるのが、怖かった。

 予定を断られただけで、腹を立てる自分も知っていた。

 お金を渡せば、そのみっともないところを、もっともらしい条件の陰に隠せた。


 付き合えば、彼に嫌だと言われることもあるだろう。

 こちらが嫌だと言わなければいけない日もある。

 それでも、話をする相手に彼を選びたかった。


 弁当を食べ終え、机を拭いた。

 スマホを開き、書いた。


〈付き合ってほしいと言ってくれたことに、返事をしたいです。会ってもらえますか〉


 送った。

 今度は消さなかった。



     *



 返事は翌日の夜に来た。


〈今週の土曜なら。昼でも大丈夫ですか〉


 私は、空いていると答えた。

 場所は彼が指定した。

 最初に会った喫茶店だった。


 金曜日まで、何度も考え直した。

 彼が会ってくれることと、まだ好きでいてくれることは違う。

 もう気持ちが変わったと言われるかもしれない。

 会えなかった三週間について、理由を聞かれるかもしれない。


 土曜の朝、白いブラウスを出した。

 最初の日と同じものだった。

 別の服を手に取りかけ、やめた。好きな服なのだから、これでいい。


 駅に着いても、彼に連絡するのは店に入ってからにしようと思った。

 角を曲がると、喫茶店の前に彼がいた。


「こんにちは」


 私が言うと、彼もうなずいた。


「中、混んでます?」

「窓から見た感じ、席はありそうです。俺も今、着いたんで」


 そう言って、ドアを開けた。

 私が先に入り、彼が続いた。


 同じ窓際の席は空いていなかった。

 奥の二人席に案内された。

 私は紅茶、彼はホットコーヒーを頼んだ。


「寒くなったね」

「そうですね」


 それきり、黙った。

 私は鞄を椅子の横に置いた。

 封筒は持ってきていなかった。


「この前、ごめんなさい」


 彼は私を見た。


「好きだって言ってくれたのに、あなたが何を答えても、お金の話に戻そうとした」


 彼はすぐには返事をしなかった。


「お金のやり取りをやめたら、もう会う理由がなくなる気がして。ちゃんと付き合いたいって言ってくれてたのに」

「……はい」

「まだ、同じ気持ちでいてくれてる?」


 彼がカップを持ち上げた。

 一口飲み、ゆっくり置いた。


「います。でも、待ってる間は、もう無理なのかなって思いました」

「うん。連絡が遅くなって、ごめん」

「返事、今は決まってるんですか」


 私はうなずいた。

 用意してきた言葉があった。電車でも、何度も考えた。

 それでも彼を前にすると、先に聞きたいことが出てきた。


「聞いてもいい?」

「はい」

「私の、どこが好きなの」


 彼の眉が上がった。

 私は慌てて続けた。


「疑ってるんじゃなくて。今まで聞けなかったから、知りたい」


 彼は少し考えた。

 窓の外ではなく、テーブルの木目を見ていた。


「一緒にいて、話したいことが増えたんです」

「仕事のこととか?」

「仕事もです。あと、この紙、千晴さんの手帳に似てるなとか。弁当、今日はマカロニ多かったかなとか」


 私は小さく笑った。


「増やせたよ。追加で売ってた」

「そうなんですか」

「写真も撮った。でも、先に返事しなきゃって思って、送らなかった」


 彼の口元が、少し緩んだ。

 私は紅茶のカップを握った。


「仕事で失敗した日、俺が途中で、そういう話じゃないって言ったでしょう」

「うん」

「あのあと、最後まで聞いてくれたの、嬉しかったです。俺、自分から話し始めたくせに、うまく言えなくて。千晴さんは仕事できる人だし、分かんないかもって、勝手に思ってました」

「私も失敗するよ。あの日は、年上らしく何か言わなきゃって、少し格好つけてたと思う」

「そうですね」


 そこは否定しないんだと思った。

 彼は続けた。


「それで、会ってる間だけいい感じにして帰るの、だんだんできなくなって。嫌な言い方したのも、その日だけじゃないです」

「私も、先回りして決めつけることあるね」

「あります」


 今度は声に出して笑ってしまった。

 彼も少し笑った。


「でも、違うって言うと聞き直してくれるんで。俺も、言っていいんだなって」


 私はうなずいた。

 優しいから、綺麗だからと答えられるより、ずっと信じられた。


「あと、単純に、見た目も好きです」


 彼が急に言った。

 紅茶を飲みかけて、止まった。


「それ、今言う?」

「言わないと、話聞いてくれるから好き、で終わるんで」


 耳が少し赤くなっていた。

 初めて会った日の顔を思い出した。


「私も、最初は顔だった」

「最初だけですか」

「今も。あと、肩」


 彼が自分の肩を見た。

 セーターを着ているので、見てもよく分からない。

 私は笑って、カップを置いた。


「付き合いたいです。私も」


 彼は動きを止めた。


「年齢のことは、今も気になる。将来のことも、今日全部決められない。でも、あなたと話したい。会いたいし、触れたい。もう、それをお金を払う理由にしなくても、言ってみたい」


 最後は声が小さくなった。

 彼は私を見たまま、うなずいた。


「はい」


 その返事を聞いてから、ようやく息を吐けた。


 彼がカップを持ち上げ、また置いた。


「俺も、言っておきたいこと、あります」


 私は待った。


「最初、お金が欲しかったのは本当です。好きになってからも受け取ってました。いらないって言って、じゃあ会うのもやめようって言われるのが怖くて」


 私は、あの中華料理店の前を思い出した。

 封筒をすぐには受け取らなかった彼に、受け取るよう勧めたのは私だった。


「だから、俺だけずっと誠実だったみたいには、思わないでほしいです」

「うん」

「あと、好きになったから、今までのお金全部返すとか、言えないです。使った分もあるし」


 彼は膝に置いた手を見た。

 私は、彼の顔が上がるまで待った。


「返してほしいとは、思ってない」


 彼がこちらを見た。


「私も、会いたくて会ってた。嫌だった時間に変えたいわけじゃないから」


 彼は、はい、と答えた。

 肩が少し下がった。


 私は鞄からスマホを出した。

 マカロニサラダの写真を開いて、彼に見せた。


「これ」

「結構、多いですね」

「そう。でも、弁当にもついてるから、さすがに多かった」

「増やしてほしいって言ってたのに」


 私は笑った。

 言う相手がいなかった話を、一つ話せた。



     *



 喫茶店を出る頃には、昼を回っていた。


「お腹、空いてます?」


 彼に聞かれ、私はうなずいた。


「空いた。苅部さんは?」

「俺もです」


 彼は駅のほうを見た。

 私は反対側に、前から気になっていたビストロがあることを思い出した。

 言おうとすると、彼がこちらを向いた。


「これからの食事代は、俺が出します」

「毎回?」

「今まで出してもらってたんで」


 私は立ち止まった。

 彼も止まった。


「付き合うって、そうやって返してもらうことじゃないよ。私から誘う日もあるし、そのときは私にも出させて」


 彼は何か言いかけ、やめた。


「それとも、出してもらうのは嫌?」

「嫌じゃないです。ただ、今までと同じになるのも」

「じゃあ、その日ごとに相談しよう。全部まとめて決めないで」


 彼がうなずいた。


「今日は、俺が出してもいいですか」

「うん。どこ行く?」


 彼はスマホを出した。

 少し歩いた先に、気になっているカレー屋があると言う。

 私は、その店の看板を見たことがあった。


「辛いの、平気?」

「普通の辛さなら。千晴さんのは、一口もらわないようにします」


 私が何を頼むか、もう分かっているらしかった。


 歩きながら、私は彼の手に触れた。

 彼がこちらを見た。


「つないでもいい?」

「はい」


 私の指が落ち着く前に、彼の手が少し動いた。

 握り方が決まるまでに、二人とも一度、握り直した。


 カレーはおいしかった。

 彼の頼んだものは辛くなく、私のは途中から水が必要になった。

 食べながら、今後もこの店に来たいと思った。

 次は私が払おう。それくらいのことなら、もう難しくなかった。



     *



 付き合い始めたら、急に何もかもうまくいくわけではなかった。


 十一月、彼が仕事で使うソフトの勉強をしていると聞き、私は講座を調べて送った。

 一つではなく、三つ送った。

 比較しやすいように受講料と日程まで書いた。


〈ありがとうございます。でも、まだ探してほしいとは言ってないです〉


 返事を読んで、胸のあたりが固くなった。

 善意で調べたのに、と最初に思った。

 そこまで考えてから、彼に何を頼まれたのか読み返した。

 勉強を始めようかな、としか書いていなかった。


〈そうだね。先に聞けばよかった。ごめん〉


 それだけ返した。

 彼からは、使い慣れた参考書のシリーズがあるので、まずそれを買うつもりだと連絡が来た。

 私は知らない本だった。


 逆に、彼が選ぶ店は、手頃なところが続いた。

 それ自体はよかったが、私が気になる店を送ると、今度調べますと言われたままになった。


 三回目に同じ返事をもらったとき、電話で聞いた。


「私の送った店、苦手な感じ?」

「いや、そうじゃないです」

「じゃあ、どうして?」


 彼は少し黙り、値段を調べたら思っていたより高かったと言った。

 私は、彼を誘うつもりで送っていたので、自分が払ってもよかった。

 けれど彼は、それだとこちらがおごってもらうために店を選んでいるように見えないかと、考えたらしかった。


「私が誘ってるのに?」

「それは、そうなんですけど」

「私も、行きたい店を全部あきらめるのは、嫌だな」


 彼は、うん、と言った。

 私はスマホの画面に切り替え、店の案内を開いた。


「ここ、平日のランチなら半分くらいになる。私が休み取れる日に、一緒に行かない?」

「俺も、先に休めるか聞いてみます」

「うん。あとは、誕生日とか。毎週じゃなくていいから」


 彼は少し笑った。


「じゃあ、その日までに、俺も貯めときます」

「無理はしなくていいよ」

「無理じゃなくて、俺も行きたいんです」


 私は、そっか、と答えた。

 彼のお金の使い方まで、私が決めることはなかった。


 数日後、彼から、休みが取れそうだと連絡が来た。

 私も会社の予定を確かめ、手帳に書いた。

 彼と会う日に、小さな丸だけつけることは、もうなくなっていた。



     *



 十二月の最初の土曜日、私は彼を部屋に招いた。


 付き合い始めて、ひと月ほどになる。

 それまでも外で会い、夜を一緒に過ごすことはあった。けれど自宅には、まだ呼んでいなかった。

 会社のものも、昔からの写真も、片づけていない棚もある。

 見られることより、その部屋へ帰ったあと、彼のいない場所を増やすことが怖かった。


 それでも、冷えてきた頃から、一緒に鍋を食べたいと思っていた。

 店で食べるより、家のほうがのんびりできる。


 午前中に掃除をして、夕方、彼と駅で待ち合わせた。

 買い物は一緒にした。

 鍋の具を選んでいると、彼が小さな豆腐を二つかごに入れた。


「大きいの一つのほうが安いよ」

「これ、ちょっとずつ出せるんで。あとで足すのにも」


 そう言われれば、確かにそうだった。

 彼は一人で暮らしている。私が全部、教える必要はなかった。


 会計を分け、袋は一つずつ持った。

 帰り道にパン屋へ寄った。

 彼が、あ、ここの、という顔になった。


「最初に会ったときの店、ここの系列でした」

「そうなの? あの日、塩パン買ったよ」

「言ってましたっけ」

「言ってない。二つ買って、二つとも夜に食べた」


 彼が笑った。

 私は、甘いものも迷ったけれど、普通の丸いパンとチーズ入りのパンを一つずつ買った。


 部屋に入った彼は、玄関で靴を揃えた。

 手を洗う場所を案内し、上着を預かった。

 彼が洗面所に行っている間に、私は食卓に残っていた仕事の書類を片づけた。


「手伝います。何したらいいですか」


 戻ってきた彼が、袖をまくった。


「白菜、洗って切ってもらえる?」


 包丁の場所を教えた。

 彼はまな板を取り出し、流しの前に立った。

 二人で台所に立つと少し狭い。私は隣を通るたび、彼の背中に触れた。


 鍋を食べながら、テレビを見た。

 ニュースのあとに、旅番組が始まった。

 彼が、海へ行くならこの辺りもいいと言った。


「釣り?」

「釣りもできますけど。普通に、泊まって遊びに行くのも」


 私は画面を見た。

 露天風呂と、二人分の料理が映っていた。


「冬は寒そう」

「春とか」

「うん。春なら、行きたい」


 彼はうなずいた。

 その場で宿を予約したりはしなかった。今度休みの予定を確かめようと話し、残った豆腐を鍋に入れた。


 食器を洗い終えると、九時を回っていた。

 彼が時計を見た。


「明日、何か予定あります?」

「ない。苅部さんは?」

「俺も、ないです」


 私は布巾を畳んだ。

 泊まる用意はしてあると、部屋へ誘ったときに伝えていた。それでも、今ここで聞きたかった。


「泊まっていってほしい」


 彼が私を見た。


「はい。泊まります」


 その返事を聞き、洗面所の棚から新しい歯ブラシを出した。

 コップは一つしかなかった。


「明日、もう一つ買おう」


 そう言うと、彼は歯ブラシの袋を開けながら、何色でもいいですと言った。


 翌朝、目が覚めると、彼はまだ隣にいた。

 枕元の時計は八時を過ぎていた。

 私が起き上がると、彼も目を開けた。


「おはよう」

「おはようございます」


 カーテンを開ける。

 明るかったが、空は薄く曇っていた。

 寒そうだね、と言うと、彼は布団を少し引き上げた。


「朝ご飯、食べる?」

「食べます」


 私は台所へ行き、湯を沸かした。

 彼も少しして来た。

 冷蔵庫を開けようとした私の横で、パンの袋を見た。


「これ、二つとも同じですか」

「一つはチーズ」

「千晴さんは、どっち食べたいです?」

「チーズ。でも、半分交換でもいい」


 彼はうなずき、引き出しを開けた。

 昨夜、包丁の場所を教えた引き出しだった。


「切りますね」

「ありがとう。あ、その前に少し焼こうか」


 パンをトースターに入れ、皿を二枚出した。

 どちらも一人で使っていた皿だった。柄も大きさも違う。

 焼けたパンを彼が切り、二枚の皿に分けた。大きいほうの皿に、チーズの多い半分が載った。


「そっち、私?」

「チーズ食べたいって言ってたんで」


 大きい皿が、私の前に置かれた。

 彼は自分の分を一口食べ、熱かったらしく、慌てて口元を押さえた。


 コーヒーを淹れ、冷蔵庫から牛乳を出す。

 彼が、砂糖はなくていいと言う。

 知っていた。彼はいつも入れない。


 食卓の向かいに座り、パンを食べた。

 チーズ入りは少し塩気が強く、普通のパンと交互に食べるとちょうどよかった。

 彼が昨日の番組の海を調べ、スマホをこちらへ向けた。

 駅からはバスに乗るらしい。

 私は画面を見て、ここなら仕事が休める時期があると話した。


 食べ終えても、すぐには席を立たなかった。

 彼がコーヒーを飲むのを待ち、私は聞いた。


「来週も、泊まりに来ない?」


 彼はカップを置き、スマホの予定表を開いた。

 少し画面を動かしてから、顔を上げた。


「土曜なら」

「じゃあ、土曜。今度は、何食べようか」


 彼は考え、鍋以外で、と笑った。

 私は手元のパンをもう一口食べた。

 次の土曜日も、朝食の分まで買っておこうと思った。


~完~


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