癸区
夜は、何度も洗われて色を失った黒い布のように、この世界の空に垂れ下がっていた。
本来あるはずの光沢はすべて剥がれ落ち、残っているのは、灰色がかった死んだような暗さだけだ。
俺は藤堂の背中を追い、見知らぬ通りを歩いていた。
道は狭く、やけに長い。
アスファルトは何か得体の知れない力で引き裂かれ、あちこちに溝を刻まれている。
まるで一度解体され、適当に縫い合わせられた死体のようだった。
両脇の建物は、巨人の手で乱暴に引き裂かれた後の残骸に見える。
中身の抜けた骨組みだけが残り、今にも落ちそうな看板が斜めにぶら下がっている。
窓ガラスはとうの昔に砕け、窓枠の縁に、鋸歯のような破片が数本こびりついているだけだ。
ときおり、店の名残のようなものが目に入る。
コンビニのロゴ。
理髪店の料金表。
どれも、別の世界から無理やり引きちぎられてきた遺物のようだった。
足元の……地面。
俺は、そう呼ぶことにした。
認知を削られた箇所はまだじくじくと痛む。
一歩踏み出すたびに、足裏は、いつ崩れ落ちるかわからない空白の上を歩いているような心許なさを覚えた。
靴底から伝わってくるのは、硬くて乾いた感触だ。
土でもなければ、元いた世界の道路の質感でもない。
どこか、圧縮されて固体になったデータを踏んでいるような、不自然な粗さがあった。
周囲には、俺たちのほかにも足音があった。
不揃いな足取りが、がらんとした通りに反響する。
遠くで時折弾ける電流音と混ざり合い、妙なリズムを作っていた。
ジョニー、サディオ。
そして、名前を知らない何人もの人影。
彼らは自然と俺と藤堂を囲むように陣取り、護衛とも護送ともつかない動きでついてくる。
腰のあたりに手をやり、武器の存在を確かめる者。
時折、びくりと肩を震わせながら、振り返る者。
まるで暗闇の奥から、いつでも誰かの腕が伸びてきて、自分たちのひとりを引きずり込むことを恐れているようだった。
空には月も星もなかった。
あるのは、遠くの廃墟の隙間に点々と浮かぶ、壊れかけのネオンサインだけ。
そのほとんどは、かろうじて残った数本の線を、ときおり思い出したように点滅させているだけだ。
言葉を失くした広告文が、風の中で痙攣しているようにも見える。
もしここに来る前にあのゲームを経験していなければ、俺はこの光景を「どこかの国が経済破綻したあとの街の片隅」くらいに思ったかもしれない。
だが、この世界には「片隅」などない。
廃墟になっていない場所など、はじめから存在しない。
「ここは……いったい、どこだ?」
沈黙に耐えきれず、俺は口を開いた。
声は乾いた空気の中であっさりと散り、通りに吸い込まれていく。
「癸区だ」
答えたのは藤堂ではなく、ジョニーだった。
彼は空を見上げる。
誰にも見えない印が、そこに刻まれているかのように。
「厳密には、第九セクターって呼ぶべきだろうけどな」
「癸区、第九セクター……」
その言葉を、頭の中で何度か転がす。
いつか習った地理の知識を探そうとするが、すぐに行き止まりにぶつかる。
「世界全体を、一枚のパズルだと思ってくれ」
ようやく藤堂が口を開いた。
夜の中でも揺るがない、落ち着いた声だった。
「そのパズルは十枚のピースに分割されている。ひとつひとつが『セクター』だ」
「『甲』から『癸』まで、十の天干が割り振られている」
「癸は、最後のひとつ」
最後――
漢字に関する記憶はまだ無事らしく、その意味はすんなり理解できた。
「面積だけで言えば、お前が元いた世界の一つの省と同じくらいだ」
ジョニーが続ける。
「だが、人間は十万しかいない」
十万。
数字だけが、頭の中でぐるりと回る。
深い井戸に小石を落としたように、すぐに音を失った。
元の世界なら、中規模の都市ひとつ分の人口だろう。
人気歌手のライブなら、十五分でチケットが売り切れる数だ。
ニュースで見た「千万人」「数億人」という単位と比べれば、ちっぽけで心許ない数字。
だが、ここでは違う。
能力を持った人間が、毎夜のようにゲームに巻き込まれて死んでいく世界で――
この十万人が、「全部」だ。
観客はいない。
セーフティゾーンもない。
「他の場所にいる誰か」が助けに来てくれることも、決してない。
「つまり、この世界には、俺たち以外の人間は……いない?」
自分で言いながら、その幼稚さに気づいていた。
「『人間』という意味なら……」
藤堂は、ほんのわずかに言葉を選ぶ。
「そうだ。ここには十万の人間しかいない」
足が止まりかけた。
「俺たちは、皆、死ぬ」
今度話したのはサディオだった。
意外なほど低い声だった。
「飯を食わなくても。寝なくても。病気にならなくても。歳を取らなくても」
「それでも俺たちは、傷つき、死ぬ。ルールに従わなければ、跡形もなく消される」
「飯も、寝ることも……」
無意識に、腹に手を当てる。
そこはやけに静かで、平坦だった。
空腹を訴える音もなければ、食べ過ぎたときの息苦しさもない。
「空腹」と「満腹」という感覚そのものが、生理機能から取り除かれているようだった。
最後に何かを食べたのはいつだったか。
思い出そうとしても、浮かんでくるのは、ぼやけた光と影ばかりだ。
どこかのファストフードのチェーン店だった気もするし、自宅のキッチンだった気もする。
記憶のフィルムは、雑に切り貼りされ、意味のない断片だけになっていた。
ここに来てから、俺は一度も腹を空かせていない。
眠気もなかった。
身体はどこか、共通仕様のテンプレートにすげ替えられたようだった。
「行動」と「痛み」だけが残され、その二つを延々と繰り返すための器。
ゲームの初期キャラクターとして作られ、ステージに放り込まれた人形。
それが今の俺たちだ。
「天干のセクター、地支のゲーム」
藤堂は、祈りでも唱えるように、聞き慣れないフレーズを口にした。
「毎晩、『神』は、全セクター、もしくはその一部の範囲に対して、『ゲーム』を発表する」
俺は、脳裏に焼き付いた冷たい声を思い出す。
【臨時イベント起動:『初接触』】
【ターゲット:『ゼロ号』……】
「あれも、その一種だ」
「どのゲームにも、『報酬』がある」
藤堂は続ける。
「金でも装備でもない。十二の地支のどれかが刻まれた札だ」
「子、丑、寅、卯、辰、巳、午、未、申、酉、戌、亥」
漢字が一つひとつ、頭の中で明かりを灯す。
まだ、その順番を忘れていないことに、かすかな安堵を覚える。
「各セクターには、それぞれ天干が割り当てられている」
藤堂は、見えない地図を指さすように、宙に手を伸ばす。
「例えば、俺たちがいるのは『癸』のセクターだ。ここで行われるゲームの報酬は、『癸子』『癸丑』……『癸亥』のどれかになる」
「地支の順番が後ろになるほど、ゲームは難しくなる」
ジョニーが言葉を継いだ。
「さっきの規模のやつは、癸区の中でも最高難度の部類だ」
さっきの、血まみれの廊下と足掻きの一部始終を思い出す。
何十もの視線。
自分の足を踏みつけたときの痛み。
ルールに身体を切り刻まれそうになった頭痛。
「お前は、癸区でもっとも難しいゲームに勝った」
ジョニーは言う。
「それで手に入れたのが、癸区最高権限」
「代償は――元々持っていた能力のリセット」
俺たちは、ちょうど分かれ道に差しかかったところで足を止めた。
通りの突き当たりには、鉄柵と高い壁で囲われた一角が見えた。
壁は粗く、あちこちに別の建物から剥がしてきたような部材が継ぎはぎされている。
だが、大枠の構造は、不思議なほど整っていた。
壁の向こうから、かすかに灯りが漏れている。
人影が動き回るのも見えた。
「あれが、癸区のキャンプだ」
藤堂は囲いの内側を指さす。
「正確には、『まだ生きていて、かつ上位セクターの支配下に入っていない小隊』が集まっている場所だ」
「……上位セクター?」
その言葉は、さっきサディオの思考の中でも聞いた。
「癸は、十のセクターの中でも最弱だ」
藤堂は、遠回しな言い方を避けた。
「能力の平均値が最も低く、ルールの理解もいちばん遅れている」
「最初の頃、皆はここを『適者生存』の世界だと思っていた」
ジョニーが、乾いた笑いを漏らす。
「『天戦』が始まるまではな」
「天戦?」
「ひとつのセクターの住人が、自分たちの天干に対応する十二枚の地支札を全部集めると、ひとつのチャンスが与えられる」
藤堂の声は淡々としている。
その目には、二度と触れたくない記憶が滲んでいた。
「同じセクターに属する仲間を、何人でも選べる。全員の同意があれば、『自分たちよりも上位のセクター』に挑戦状を叩きつけられる」
「例えば癸区なら、『壬区』に挑んでもいいし、もっと上――『甲区』にだって挑める」
「なぜ挑む?」
「ランクを入れ替えられるからだ」
今度はジョニーが答えた。声に、微かな緊張が混じる。
「天戦が始まると、『神』は二つのセクターのために専用の戦場を用意する。十二日間、そのエリアで、二つのセクターの住人は同じゲームをやらされる」
「十二日が過ぎたとき、低ランクセクターが集めた地支札の数が、高ランクセクターを上回っていれば――」
「二つのセクターのランクは入れ替わる」
「ランクが上がった側の住人は、自動的に能力が底上げされる。例えば癸区が甲区に勝てば、癸区の能力平均値は、甲区にふさわしいレベルにまで引き上げられる。もちろん負ければ、その逆だ」
思わず、息を飲んだ。
つまり――
最底辺の癸区にも、ゲームを積み重ねることで、泥の底から這い上がるチャンスが残されているということだ。
「逆に言えば……」
藤堂は、目を伏せる。
「低ランク側が敗北した場合」
最後まで言うことはしなかった。
だが、俺の頭には一文字だけが浮かんでいた。
――死。
「癸区は、かつて壬区に挑んだ」
藤堂の声は、風に消されそうなほど静かだった。
「結果は、惨敗だ」
「それをきっかけに、世界中に知れ渡った。癸区の人間は、皆が思っているより、もっと弱いと」
ジョニーが自嘲気味に笑う。
「それから上のセクターの連中が、癸区を『管理』し始めた。甲、乙、丙……壬まで。それぞれのセクターから、少数精鋭の能力者が癸区に降りてきて、癸区を十個の小セクターに分けて統治した」
「何をしてもいい」
サディオが低く唸るように言った。
「娯楽の場にしてもいい。『壊れない便利な道具』を探しに来てもいい。新しいゲームルールを試す実験場にしてもいい。どうせ死ぬのは、癸区の人間だけだ」
彼の手は虚空を握りしめ、すぐに力なくほどけた。
「今、この癸区の中で」
藤堂は、遠くの壁を見据える。
「あそこだけが、まだ上位セクターに汚染されていない場所だ」
「壬区との戦争のあと、多くの者が戦死し、
生き残った者たちも、散り散りにされ、取り込まれていった」
「癸区は、上の連中に切り分けられた土地になった。好きに使っていい領地だ」
俺は、鉄壁を見つめる。
それは立派な城壁でも堅牢な要塞でもない。
廃材をかき集めて作った即席の囲いに過ぎない。
だが、この世界では、それが癸区の残された誇りの外殻でもあるのだろう。
「そこまで危険なら、どうしてまだ地支を集め続ける? どうして挑戦をやめない?」
抑えきれず、問いが口をついた。
「挑まないということは、そのまま踏みにじられ続けることを受け入れる、という意味だ」
藤堂の答えは簡潔だった。
「この世界で立ち止まるのは、現状を肯定することだ」
「寝転がって、死ぬのを待つ人間もいる」
「だが――」
彼はちらりと俺に視線を向ける。
「それでも賭け続ける者もいる」
「俺たちのキャンプにいる連中は、後者だ」
「もちろん、俺やサディオも含めてな」
冗談めかして言ったその目の奥に、一瞬だけ空虚な影が走る。
その瞬間、俺は思わず【魂の共鳴】を取り戻したくなった。
だが、もう二度と、あの力に手を伸ばすことはできない。
「俺たちは、一度だけ癸区の十二枚を揃えたことがある」
藤堂は、視線を壁から外す。
「お前が来る前の話だ」
胸の奥で、何かが微かに動いた。
「そのあと、どうなった?」
「もちろん――」
彼は、言葉を選ぶように間を置く。
「挑戦するだけが選択肢じゃない。十二枚を揃えたとき、もうひとつの権利が与えられる」
「神に質問できる。一つだけ、問いを許される」
「俺は尋ねた。癸区に、まだ這い上がるチャンスはあるのか、と」
「神は何と?」
「『ゼロ号の到来が、すべてを変える』と」
その言葉が、氷片になって胸に落ちた。
「だから、お前を探したのか。癸区のどこかに現れる、その『ゼロ号』を」
「そうだ」
答えたのはジョニーだった。
「そいつが誰かも、いつ現れるかもわからない。わかっているのはただひとつ――誰かが『新規プレイヤー』としてこの世界に来れば、全セクターにアナウンスが流れることだけだ」
俺の脳裏に、あの文字列が浮かぶ。
【サーバー全域アナウンス:新規プレイヤーがロードされました】
あの通知は、彼らにとって単なるシステムメッセージではなかった。
予言が動き出したことを知らせる鐘の音だったのだ。
「今夜のゲームは、お前のために用意された」
藤堂が言う。
「これは神が癸区全体に下した臨時イベントだ」
「誰でもいい。だが、誰よりも早くお前を見つけ、足を踏み、両手を交差させた者が勝つ」
「そして、癸区最高権限を得る」
「代償として――最初にお前に触れた者は、自分の固有能力を失う」
「お前たちは、その覚悟で探し回っていたのか」
自分でも驚くほど、声は静かだった。
「能力を捨ててでも、先に俺を見つけようと」
「俺たちがそう『望んだ』わけじゃない」
ジョニーが首を振る。
「そうするしかなかった」
「癸区には、もうほとんど切り札が残っていない」
藤堂は真正面から俺を見る。
「神が『ゼロ号が鍵になる』と言った以上、俺たちは賭けるしかなかった」
「お前に」
「お前が、本当に何かを変えられると信じるしかなかった」
「そして願うしかなかった。お前が、秋山雨のように、最高権限を取ったあと、わけもわからないまま死んだりしないことを」
口を開きかけて、言葉が出てこなかった。
彼らは、自分たちの希望を俺に預けている。
だが俺は、自分がすでに唯一の武器――他人の心を聞く力――を失っていることを、痛いほど自覚していた。
手元に残ったのは、冷たい権限と、背負いたくない記憶だけだ。
キャンプの門が、俺たちの接近に合わせて開いた。
鉄板と木材で組み合わされた即席の門は、きしんだ悲鳴を上げながら動く。
何かを無理やり引き裂いて道を作るような音だった。
門の向こうには、数人の見張りが立っていた。
彼らの服装はバラバラだ。
宅配業者のロゴが入った作業服。
穴だらけで、もはや身体を覆うだけで精一杯のコート。
ただ一つだけ共通しているものがある。
誰もがどこかしらに武器を括りつけていた。
藤堂の顔を見た途端、彼らの表情がゆるむ。
上げかけた銃口を下ろす者。
強張っていた肩の力を抜く者。
彼らの視線が、次に俺へと移った。
それは、単なる新入りを見る目ではない。
危険物に貼られたラベルを読み取ろうとする視線。
「爆発するかもしれないが、使えれば便利だ」と書かれた箱を見極めようとする目つきだった。
好奇。
警戒。
期待。
恐怖。
もし今も【魂の共鳴】を持っていたなら、きっとその場で意識が押し潰されていたに違いない。
『本当にこいつなのか?』
『賭ける価値はあるのか?』
『また誰かを神輿に乗せて、ひとりで死なせるだけなんじゃないか?』
そんな声が、洪水のように押し寄せてきただろう。
だが今の俺には、それらは一切聞こえない。
聞こえるのは自分の心臓の音だけだ。
狭い入口にこもった鼓動と、遠くの焚き火が爆ぜる音が、混ざり合う。
鉄の匂いと焦げたゴムの臭いが、風に乗って漂ってくる。
ここが今の癸区に残された、唯一の「生活の匂い」なのだろう。
「お帰りなさい、首領」
一人が、藤堂に向かって浅く頭を下げた。
「そちらが……ゼロ号か?」
「そうだ」
藤堂は頷く。
「癸区の『最高権限保持者』だ」
「道を開けてくれ」
俺は淡々と言った。
門番たちは一瞬、固まった。
誰かの目に、恐怖が一瞬だけ閃く。
別の者は、反射的に背筋を伸ばした。
そして、抗うことなく道を開けた。
もともと、彼らも門を開けるつもりではあったのだろう。
だからこの命令は、俺の胸に痛みを残さなかった。
「中で話そう」
藤堂が、こちらを見る。
「今からお前が目にするもの、耳にすることの一つひとつが――これから生き延びるための手がかりになる」
「同時に、お前を奈落に突き落とす石にもなる」
俺は、キャンプの敷居をまたいだ。
反対側の地面に足を下ろした瞬間、妙な錯覚に襲われる。
またいだのは、ただの敷居ではない。
この先戻れない境界線を、ひとつ越えた気がした。
背後で、鉄の門がゆっくりと閉じていく。
金属同士がこすれ合う音は、見えない錠前が掛けられたようにも聞こえた。
この世界のルール。
この歪んだゲームの全貌。
それがようやく、俺の前に姿を現そうとしている。
そして俺は――
ただ、それに飲み込まれないようにしがみつきながら、見届けるしかないのだ。




