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リセット

【サーバー全域アナウンス:新規プレイヤーがロードされました】


冷たく、無機質な声が――耳からではなく、直接、俺の脳内で炸裂した。


【臨時イベント起動:『初接触』】


【ターゲット:『ゼロ号』。第九セクター座標(771, 520)】


【ルール:イベント継続時間は十分。勝利プレイヤーはゼロ号プレイヤーの足を踏みつけ、その両手を胸の前で交差させれば勝利と判定される。勝者の固有能力は『リセット』される。参加者全員はリアルタイムでゼロ号の位置情報を共有する】


【報酬:第九セクターにおける最高権限】


【それでは……ゲームをお楽しみください】


――見られている。


そう“感じた”。


視覚ではない。もっと原始的な、捕食者に狙われたときに背骨をなぞってくる寒気のような感覚だった。


砕けた窓枠の向こうから。真っ暗な路地の奥から。向かいのビルの屋上、錆びついた貯水タンクの陰から。そこから伸びてくる無数の視線が、貪欲に、狂熱的に、そしてどこか怯えながら、この今にも崩れそうなアパート三階の一角を舐め回している。


白く細い蛇の舌が何本も、冷たく俺をなぞっているようだった。


俺の名前は?

思い出そうとしても、記憶は真っ白だった。


なぜここにいる?

その理由も、まるごと消しゴムをかけられたように抜け落ちている。


ただひとつだけ、はっきりしていることがある。


――俺は「ゼロ号」だ。


「ドンッ!」


階下から、重い何かが耐力壁にぶつかったような鈍い衝撃音が響いた。天井から、細かな埃がぱらぱらと降ってくる。押し殺した叫び声と、金属が擦れ合う高い音が、じわじわと近づいてきた。


逃げるか? だが、この建物はすでに包囲されている。


戦うか?


視線を落とし、自分の手を見つめる。血の気の薄い、骨ばった指。だがそこには、戦いとは無縁の、頼りない印象しかなかった。目の前のテーブルに転がる、錆まみれの食卓用ナイフでさえ、まともに握っていられそうにない。


【位置情報は三十秒後に再更新。誤差範囲:一メートル】


冷たいカウントダウンが、再び脳内に反響する。薄汚れた新聞紙がべったり貼られたこの壁は、三十秒後には、全方向から丸見えの透明な檻に変わるだろう。


完全な、詰みの局面。


絶望という名の冷たい海水が、意識の最後の一欠片をも沈めようとした、その瞬間――


異変が、魂の底から炸裂した。


それは音でも、光でもない。もっと本質的な、裂け目そのものだった。


見えない手によって頭蓋をこじ開けられ、閉じていた「自我」という殻に無理やりひびを入れられたような感覚。


続いて、なだれ込んできたのは――奔流だった。


細い水流などではない。土砂や砕けた岩、果ては魂の破片まで巻き込んだ、意識の濁流。


それが容赦なく流れ込む。俺の感覚はその勢いに引き裂かれ、粉々になり、無数の断片となって、周囲で俺を狙う気配と強制的にリンクしていく。


【……ジョニー、お前が先頭だ】


【……ゼロ号……】


【……この吐き気のする匂い……】


【……急げ、『リセット』が終わる前に……】


……


雑多で、混沌としていて、むき出しの悪意と打算に満ちた思考の断片が、灼けたマグマのように俺の脳髄を奔り回る。


――これは、何だ?


外から入り込む思念のひとつひとつが、真っ赤に焼けた鉄串となって神経に突き刺さり、俺の認識という認識をかき回していく。


頭を抱え込む。爪が頭皮に食い込むほど、力任せに。あまりの痛みに視界が暗く染まり、吐き気がこみ上げる。


雑音に意識が引き裂かれかけた、そのとき――


あの、アナウンスを告げた冷たく無機質な「神の声」が、崩壊寸前の意識の中心に、感情の欠片もなく正確に響いた。


【強度の外部意識干渉を検知】


【パッシブ固有能力起動:『魂の共鳴』】


【効果:一定範囲内の生命体の表層意識を感知し、リンクする】


【警告:深度使用は『認知摩耗』を招く。深度起動ごとに、ランダムな『常識』が記憶から削除される】


【ご利用は計画的に】


その警告を裏付けるように、脳の奥で、ガラス細工が砕けるような微かな音がした。


すぐさま、鋭い痛み。


視界がぐにゃりと歪み、色彩が一度すべて剥がれ落ちる。


やがて世界が安定したとき、俺は恐る恐るテーブルの上の、円柱状の――水を入れて飲むための容器に目を向けた。


その用途はわかる。そこに水を注ぎ、口元に運んで飲む自分の姿を想像することもできる。


だが、その物体が「コップ」と呼ばれていたという事実も、それにまつわるあらゆる記憶も――


まるで最初から存在しなかったかのように、俺の記憶という本から消し去られていた。


跡形もなく。ただ、ぽっかりとした認知の空洞だけが残る。


――これが『認知摩耗』。

これが、この能力の代償。


【位置情報を更新。ターゲットは三階廊下。】


今だ。


俺は窓へ走ることも、隠れ場所を探すこともしなかった。


選んだのは、誰も予想しない――そして、決して格好のいいとは言えない第三の選択肢。


きしむ音を立てるボロボロの木の扉を、思い切り蹴り開ける。


そして自ら、廊下の突き当たりで、階段の障害物を蹴散らしながら駆け上がってきた数人の男たち――獣じみた形相をした連中の視界に、堂々と飛び込んだ。


あまりにもあっけらかんとした「自首」に、彼らの動きが一瞬止まる。


その刹那を逃さず、俺は肺の中の空気をすべて振り絞り、声帯が裂けるほどの叫びを放った。掠れた声は、がらんどうの廊下という廊下に反射して響き渡る。


「お前ら、勘違いしてる!」


廊下に、死んだような静寂が落ちた。


息遣いさえ、ぴたりと止まる。


薄暗い光の中で、酸素を求めて激しく上下する自分の胸だけが、やけにくっきりと浮かび上がって見えた。


――聞こえる。


俺には、彼らの「心の声」が、はっきりと聞こえていた。


さっきまで喧騒の海だった思念の世界に、巨大なうねりが立ち上る。戸惑い、驚愕、理解不能――だが最後には、それらすべてを飲み込み、ひとつの感情が頭をもたげる。


――欲望。


欲望は、あらゆる理屈を凌駕する炎だ。


その炎は彼らの理性だけを焼いているのではない。


【魂の共鳴】を通して、俺の脳裏にも、ぎらつく焔となって燃え上がる。


『権限は俺のものだ! 先にあいつらを潰せ!』


『ジョニー、てめえ……!』


『今だ!』


幾重にも絡み合う思考の叫び。


混乱こそが、俺の唯一の活路だ。


俺は冷たく斑に汚れた壁に背をぴったりと預け、影そのものになるように身を滑らせて、廊下の反対側にある階段口へと移動した。


背後では、怒号、金属音、肉を殴打する生々しい音、そして死に際の怨嗟の声が渦を巻き、血塗られた交響曲を奏でている。


その中で俺だけが、一つだけ調子の違う、不協和音のような音符として紛れ込んでいた。


約束された痛みが、再び襲ってくる。


あの、俺だけが聞こえる微細な破砕音とともに。


こんどは、足もとの――階層と階層を隔てる、水平に広がる硬い構造物が、急に得体の知れないものに感じられた。


それが荷重を支え、人が歩くためのものだということはわかる。


しかし、それを「床」と呼ぶ感覚も、かつてその上を駆け回り、跳ねていたという記憶も……


引き潮のように、するりと俺から離れて行ってしまった。


残されたのは、やはり真っ白な砂地のような空洞だけ。


【認知摩耗】は、確実に加速している。


「奴は階段のほうに行った!」


混戦の中で、鋭い声が響いた。さっき陰に潜んでこちらを窺っていた、目つきの鋭い黒人の男だ。


その言葉を合図にするかのように、殺意を帯びた視線が何本も、混乱の中から俺を正確に射抜いてくる。


――階段には行けない。あそこは袋小路だ。


即座に踵を返す。


そばにあった半開きのドアを体当たりで押し開け、埃まみれの廃オフィスに転がり込む。


ほとんど同時に、砲弾のような巨体が廊下の壁ごと突き破り、瓦礫をまき散らしながら乱入してきた。


血走った目が、室内をひと掃きしただけで、俺を正確に捕捉する。


「見つけたぞ、ゼロ号!」


彼は嗤った。太い腕をしならせ、風圧を伴った拳を放ってくる。


――避けきれない。


その一撃の速度も、範囲も、このひ弱な肉体の限界を、完全に超えていた。


絶望に飲み込まれかけながら、俺は再び【魂の共鳴】を全開にした。


今度は広くばらまくのではない。すべての感覚を、一点の鋭い錐になぞらえて、目の前の男の意識の核へと突き立てる。


先ほどよりもさらに激しい頭痛が襲う。脳髄という脳髄に、無数の針が突き立てられ、掻き混ぜられているようだ。


だが、その代償のかわりに、彼の思考の奥底に潜んでいた、きわめて短い逡巡の影を捉えることができた。


「生け捕り」と「報酬」という単語が、微かな迷いとともにちらつく。


――生きている俺にこそ価値がある?


その、ほんの一瞬の遅れ。


俺はそこに賭けた。


身体を真横ではなく、斜め後ろへと投げ出す。


拳の軌道を完全に避けようとするのではない。


あくまで、寸前に生じた力の収束――攻撃の勢いをわずかに殺そうとした、その変化だけを利用し、急所からだけは外れる角度で身をずらした。


「ドガァンッ!」


凄まじい衝撃が、紙一重で俺の身体を掠める。


背後にあったデスクも、書類棚も、粉々に砕け散り、木片や金属片が嵐のように飛び散った。


巻き起こった衝撃波に煽られ、俺の身体は無様に宙を舞い、背後の壁に叩きつけられる。


五臓六腑という言葉が具体的な意味を持つくらい、中身がぐちゃぐちゃにかき回されたような感覚。


喉の奥が熱くなり、堪えきれず血が噴き出した。


――それでも、俺は、生きていた。


そして、さっきの一点集中の共鳴と、頭を割られたかと思うほどの精神的な衝撃のせいで、またひとつ、あの「壊れる音」が意識の中に響く。


顔を上げると、視界の端で、あの怪物じみた腕がぬらりと動くのが見えた。


筋肉が縄のように盛り上がった、その力の象徴。


だが、それを見た瞬間、奇妙な空白が胸に広がる。


それが、俺を殴る「武器」であり、恐るべき破壊力を秘めた肢であることは理解している。


だが、その部位が「腕」と呼ばれていることも。


そして本来、どう動き、どう力を伝えるのかという、ごく当たり前の常識も――


遠く霞んだ記憶の向こう側へと、すっと薄れていった。


俺は、「腕」という概念そのものを失っていた。


必殺の一撃をかわされるとは思っていなかったのだろう。


巨体の男――ジョニーは、一瞬呆けた顔をしたあと、さらに激しく顔を歪める。


怒りに身を任せ、荒々しい足取りでこちらへと迫ってくる。


今度こそ、仕留めるつもりで。


そのとき――


「ジョニー、やめろ!」


落ち着き払った声が飛んだ。


ドア口に、塔のように高い黒人の男が立っていた。あの鋭い目をした男だ。


「任務を忘れるな。殺すんじゃない。殺したら、俺たちは何も手に入らない」


ジョニーの拳が、空中で止まる。


顔の筋肉がぴくぴくと震えていた。


男は早口で続ける。


「外の連中はほとんど死んだ。だが、他のセクターの奴らも、もうこっちに向かってるはずだ。俺たちは先に行かなきゃならない。こいつを、俺たちの手の中で押さえ込むんだ!」


彼らの思考の断片が、俺の脳内で火花を散らす。


最高権限への渇望。

ルールへの畏怖。


そして――


互いへの、微かな不信。


壁にもたれ、荒い息を吐きながら、俺は広がっていく身体の痛みと、がらんどうになっていく認知の穴をじっと味わっていた。


視線を上げ、彼らを見据える。


かすれた声をなんとか押し出す。


「お前たちは、本気で信じてるのか……権限を手にすれば、癸区の運命を変えられるって?」


ふたりの視線が、同時に俺へと向けられる。


脳を裂くような痛みと、記憶が剥ぎ取られていく恐怖に耐えながら、俺は声をできるだけ平静に保った。


「『神』のゲームってのは……そんなに単純じゃない」


さっき、俺の脳を押し潰さんばかりに流れ込んできた思念の奔流の中で、ひとつの名前が、何度も何度も噛みしめるように繰り返されていた。


俺はその人物を知らない。


だが、その名前が、最高権限という言葉よりもずっと重く、深く、彼らの心に沈んでいることだけは、はっきりとわかった。


「お前たちと同じように考えた奴がいた。……秋山雨っていう女だ」


その名を口にした瞬間。


思考の海が、一斉に沸騰した。


驚愕と苦痛と信じがたさ。


相反する感情が油に火をつけたように燃え上がり、空気そのものを焦がす。


「な、なんで……お前が雨さんのことを知ってる……?」


ジョニーが声を裏返らせる。


黒人の男も、疑念と警戒をないまぜにした視線を俺に向けていた。


俺は答えない。


ただ、じっと彼らを見る。


緊張で張りつめた沈黙を裂くように――


【臨時イベント:『初接触』、残り時間:一分】


例の冷たいアナウンスが、再び響いた。


黒人の男の目が、鋭く細められる。


「時間がない。ジョニー、拘束しろ。俺がやる」


言い終わるより早く、彼は俺へと飛びかかってきた。


今度は、さっき以上の速度。


大きな手が、俺の肩めがけて一直線に伸びてくる。


――避けられない。


肉体の痛みも、精神の疲労も、すでに限界を超えていた。


ここで、終わるのか?


この程度の悪あがきは、ゲームのログにも残らない、ただの茶番に過ぎなかったのか?


黒人の指先が、俺の肩に触れようとした、その瞬間――


【魂の共鳴】が、彼の思考の底に潜んでいた、微かな、しかし決定的な「最終確認」を拾い上げた。


それは――ルールに関する、最後の再読。


【……足を踏む……両手を交差させる……それで……】


足を踏む。


両手を交差――


勝利――


荒唐無稽で、狂気じみていて、それでいて絶望の只中に差し込む一筋の光のようなアイデアが、稼働不良を起こしかけている脳裏に、稲妻のように閃いた。


思い出す。


最初に、あの声が告げた言葉を。


【サーバー全域アナウンス:新規プレイヤーがロードされました】


ルールはこうだった。


「勝利プレイヤーはゼロ号プレイヤーの足を踏みつけ、その両手を交差させれば勝利」――


俺も、プレイヤーだ。


どこにも、「そのプレイヤーはゼロ号本人であってはならない」なんて一文はなかった。


その事実に思い至ったときには、黒人の指先はすでに俺の服に触れていた。


迷っている暇は、一秒もない。


「……ッ!」


喉の奥から、声とも呻きともつかない音が漏れる。


俺は残った力をすべてかき集め、右足を勢いよく持ち上げ――


自分の左足の甲を、思いきり踏みつけた。


甲に、鮮烈な痛みが走る。


体重がぐしゃりと食い込んでいく感覚。


――まずは、第一条件。「足を踏む」、クリア。


次は……両手を、交差。


反射的に、両腕を持ち上げようとする。


記憶の底に沈んでいる、「交差」という身振りをなぞるために。


だが――


脳内は、真っ白だった。


腕?


手?


それは、何だ?


俺はさっき、何を、動かそうとしていた……?


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