9話 船遊び
夏の終わりを告げる子爵家の「船遊び」。
湖には白い帆を掲げた船が並び、貴族の若者たちは甲板で笑い、楽団の音楽が風に流れていた。
エリザベスもまた、控えめな笑みを浮かべながら甲板に立っていた。完璧な立ち居振る舞い、優雅な姿。誰の目にも“理想の令嬢”と映る。
だが、メアリーはその笑顔の奥にかすかな緊張を読み取っていた。
(……あの方は秘密を抱えている。わたしだけが知る真実を)
そう思うと胸がざわめく。彼女を守りたい気持ちと、主であるアルバートに嘘を重ねている罪悪感。その狭間でメアリーは揺れていた。
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やがて船内で余興が始まった。ワイン片手に談笑する貴族たちの間を縫い、エリザベスはふと手すりに近づく。
その時だった。
甲板に走った小さな衝撃――若者がはしゃいでぶつかった拍子に、エリザベスの身体が大きく揺らいだ。
「きゃっ!」
短い悲鳴とともに、エリザベスの細い身体が湖へと落ちた。
水しぶきが陽光を裂き、周囲の空気が一変する。
「エリザベス嬢が! 誰か助けろ!」
船上が騒然となった。貴族たちの叫びが飛び交い、誰もが足をすくませる中、真っ先に動いたのはアルバートだった。
「待っていろ!」
彼は上着を脱ぎ捨て、ためらいなく湖に飛び込む。冷たい水が肌を打つのも構わず、必死に泳ぎ、沈みかけるエリザベスの腕を掴んだ。
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水面に浮かび上がった瞬間、アルバートは息をのんだ。
抱き寄せたその身体は、想像していたよりもずっと筋肉があり、しなやかで――。
さらに、湖水に濡れたドレスが肌に張り付き、彼女の「秘密」を隠しきれなくなっていた。
お互いの視線が一瞬合い、アルバートの胸に稲妻のような衝撃が走る。
(……まさか……エリザベス嬢が、男……?)
信じがたい現実。だが、腕に抱く身体の確かさが、その疑念を否応なく真実へと変えていく。
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救助されたエリザベスはすぐに毛布に包まれ、侍女たちが甲板へと連れていった。
周囲は安堵と混乱に包まれていたが、アルバートの心は嵐のように乱れていた。
完璧な令嬢。優雅な微笑み。誰もが憧れる存在。
――その仮面の下に、彼は誰にも知られぬ秘密を抱えていたのだ。
(なぜ……なぜ男が令嬢を演じている? そして、メアリーはこのことを知っていたのか?)
湖風が冷たく吹き抜ける中、アルバートはただ一人、胸の奥に重い真実を抱え込むのだった。