55話 母の影、そして疑惑
翌朝。
メアリーは鏡の前で、昨夜の自分を思い返していた。
――血は争えない。
――君の母上は、元メイドだった。
ヘンリーの冷ややかな声が、まだ耳の奥でこだましている。
どれほど否定したくても、胸の奥に妙な違和感が残っていた。
母のことを、メアリーはほとんど知らない。
優しく、穏やかで、けれどいつも何かを恐れるように
窓の外を見つめていた女性――。
(母は、本当に“貴族夫人”だったの?)
心の中の問いに答えられないまま、
メアリーは屋敷の使用人記録の保管庫に足を運んだ。
そこには過去の雇用記録や家系図、古い手紙が眠っている。
(代々続くこのお屋敷の記録は、さながら街の図書館並み……。ここに何かお母さまの記録が残っているかも。)
埃をかぶった帳簿をめくっていると、
指先が一枚の古びた紙をはじいた。
――《メイド:エミリア・スチュワート。主の推薦により退職。結婚のため屋敷を去る。》
目を見開いた。
スチュワート――それは母の旧姓だ。
(やっぱり……お母さまは、使用人だったの?)
膝がかくりと震えた。
手にした紙が微かに揺れる。
だがそのとき、
背後から低い声がした。
「……何をしている?」
振り返ると、そこにはアルバートが立っていた。
彼は腕を組み、険しい表情でメアリーを見下ろしていた。
「お坊っちゃま……!」
「朝から書庫で帳簿を漁るとは珍しいな。何を探している?」
「い、いえ……少し、昔の記録を――」
言葉を濁す彼女を、アルバートの目がじっと射抜く。
その視線はいつもより鋭く、どこか焦りを帯びていた。
「……ヘンリーに何を言われた?」
メアリーの肩がびくりと跳ねる。
「な、なぜそれを……?」
「彼が昨夜、君の後を追ってバルコニーに向かうのを見た。
戻ってきた君の顔が、あまりに蒼かったからな。」
その言葉に、メアリーの胸が詰まる。
アルバートの声には怒りよりも、心配と苛立ちが入り混じっていた。
「彼は……母のことを話しました。」
「母君のこと?」
「はい。――母は元メイドだったと。」
一瞬、アルバートの目が見開かれた。
だがすぐに、彼は視線を逸らし、
深く息を吐いた。
「……彼らしいな。」
「彼らしい?」
「ヘンリーは君の過去を調べている。
何かを知っていて、それを“駒”に使おうとしている。」
アルバートの声には怒りが宿っていた。
それはメアリーを庇うようであり、同時に自分を責めるようでもあった。
「私がもっと早く、彼を遠ざけていれば――」
「お坊っちゃま、どうか……ヘンリー様を悪く言わないでください。
私が確かめます。母のことを、本当に知っているのかどうか。」
メアリーの瞳には決意の色があった。
だがアルバートは首を振る。
「君が彼に近づくのは危険だ。」
「それでも、知りたいのです。
母が、どんな人だったのか。
私が何者なのか。」
沈黙が流れた。
やがてアルバートは一歩近づき、
そっと彼女の肩に手を置いた。
「……わかった。
だが、約束してくれ。
何があっても、私の知らぬところで行動はしない。」
「……はい。」
その約束が、後に二人の運命を大きく変えることになるとは、
このときのメアリーはまだ知らなかった。




