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54話 夜風にまぎれる影

晩餐会の喧騒がまだ遠くで響く中、

メアリーはひとり、会場の裏手にあるバルコニーへと出た。


夜風が、頬をやさしく撫でる。

星々が凛と輝く空の下で、胸の奥に残るざわつきを静めようと、深く息を吸い込む。


――アルバート様。

あの方の隣にいると、どうしてこんなにも息が苦しいのだろう。

あの穏やかな瞳を見つめるたび、胸が熱くなる。

でも、私はただのメイド頭。

主の想いを受け止めてはいけない立場のはずなのに……。


そんな想いを風に溶かしていたとき、

背後から、低く落ち着いた声が響いた。


「こんなところにいたのか、メアリー。」


驚いて振り向くと、ヘンリーが月明かりの下に立っていた。

白い手袋を外しながら、どこか探るような微笑を浮かべている。


「……ヘンリー様。どうしてここに?」


「少し、外の空気を吸いたくてね。

それに――君の姿を探していた。」


「私を?」


「うん。ホールの中で見ていたよ。

君とアルバート卿が踊る姿を。

あれはまるで、昔の誰かを見ているようだった。」


ヘンリーの口元が、ふっとゆがむ。

その笑みは、どこか冷たく、そして痛ましい。


「……血は争えないものだね。」


「……え?」


意味がわからず、メアリーは瞬きをする。

ヘンリーはゆっくりとバルコニーの手すりに手をかけ、

月光に照らされた瞳を細めた。


「君の母上は、元メイドだったことを知っているかい?」


「……母が、メイド?」


「そう。若い頃、ある貴族の屋敷で仕えていた。

その家の息子に見初められ――男の子が生まれた。

しかし、二人は若すぎた。

男の子は貴族の後継者にするために家にのこされたが、母上は追い出された。

君の母上はまた別の屋敷でメイドとして働きはじめた。

そして、貧乏貴族と結婚し、君が生まれた……。

“血”というのは残酷なものだね。

君もまた、貴族と使用人のあいだに立つ者だ。」


ヘンリーの声は穏やかだったが、

その奥には鋭い棘が潜んでいた。


「……どうしてそんなことを?」


「別に。君がアルバート卿と想い合っているのを見たら、

つい、言いたくなっただけさ。」


メアリーの胸が冷たくなる。


――見られていた。

自分とアルバートの想いを、気づかれていた。


ヘンリーは一歩、彼女に近づく。

月明かりがその横顔を照らし、

金の髪が光の粒のように揺れた。


「気をつけたほうがいいよ、メアリー。

貴族の男の愛は、いつだって移ろいやすい。

それを一番知っているのは――君の母上だろう?」


その言葉に、メアリーの心臓がぎゅっと締めつけられた。


「……どういう意味ですの?」


だが、ヘンリーは何も答えず、

ただ口の端をわずかに上げると、踵を返した。


「月が綺麗だね。風邪をひかないように。」


そう言い残して、

彼は夜の闇に溶けるように去っていった。


残されたメアリーは、

夜風の中でただ立ち尽くすしかなかった。


――母が、メイド?

ヘンリーの言葉が耳に焼きついて離れない。


そして、胸の奥で不安が静かに膨らんでいく。


この夜を境に、

運命の歯車がまたひとつ、音を立てて動き始めていた。

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