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52話 越えてはならぬ境界線

カフェで過ごした午後は、夢のように静かで、

それでいて、どこか現実離れしていた。


屋敷に戻ったメアリーは、何度も胸の鼓動を抑えようと深呼吸をした。

――主とメイド。

それ以上でも、それ以下でもない。


なのに、アルバートの優しい声や、紅茶の香りが、

まだ頭の中から離れなかった。


「……いけないわ、メアリー・グレイ。調子に乗るんじゃない。」


独りごちて、鏡に映る自分を睨む。

神経質な顔立ちに、少し乱れた髪。

完璧でいようとするほど、胸の奥が痛む。


その夜、

書類仕事を終えたアルバートが、静かに呼び鈴を鳴らした。


「メアリー、入ってくれ。」


彼女は姿勢を正し、控えめに部屋へ入る。

だが、机の上には書類ではなく、白い封筒が置かれていた。


「明日の晩餐は、少し特別なものにしようと思う。君も出席してほしい。」


「……私が、ですか?」


「そうだ。普段のメイドとしてではなく、客としてだ。」


メアリーは息を呑んだ。

その申し出が何を意味するか、彼女にはわかっていた。

けれど、それを受け入れることは――危うい。


「お坊っちゃま、それはお戯れでしょう?」

「本気だ。君にしか、隣にいてほしくない。」


その一言に、メアリーの心臓が跳ね上がる。


沈黙が落ちた。

外では風が窓を鳴らしている。

けれど二人の間に流れる空気は、それよりもずっと重たかった。


「……申し訳ありません。

私のような者が、主の隣に立つなど許されません。」


「許すも許さぬも、私の決めることだ。」


アルバートは机を回り込み、ゆっくりと彼女の前に立った。

ほんの少しの距離。

指先が触れれば、温度が伝わりそうなほど近い。


「君がいると、屋敷が温かい。

君が笑うと、私も生きている気がする。

……その理由を、もう隠せない。」


メアリーは目を伏せた。

紅潮した頬に、ひとすじの涙がこぼれ落ちる。


「どうして……そんなことをおっしゃるのです。

私は、お坊っちゃまの人生を彩る“背景”でしかないのに。」


「違う。君は、私の人生そのものだ。」


その瞬間、二人の間の空気がふっと変わった。

何かが静かに崩れ、そして芽生えた。


だが――

メアリーはそっと一歩、後ろに下がった。


「申し訳ありません。……私は、これ以上は踏み込みません。」


そう言って、深く礼をして部屋を出ていく。


アルバートはその背を見つめ、拳を握りしめた。


「……もう、逃がすものか。」


その言葉は、誰にも聞こえぬほどの小さな声で、

夜の闇に溶けて消えた。


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