51話 偶然をよそおい
「メアリー、少し頼みがある。」
朝の執務室。
書類に目を通していたアルバートが、ふと顔を上げた。
いつものように、完璧に整った姿で控えていたメアリーは軽く会釈する。
「はい、お坊っちゃま。」
「街の商会に、このリストの品を届けてほしい。少し急ぎだ。」
「承知いたしました。」
何の疑いもなく、メアリーはリストを受け取る。
けれど、それは――アルバートが周到に仕組んだ“罠”だった。
***
昼過ぎ。
用事を終えたメアリーが、商会から出た瞬間だった。
「……おや、奇遇だな。」
優雅にシルクハットをかぶり、街角に立つ青年がいた。
まるで絵画から抜け出したような完璧な笑顔。
「アルバート様!? なぜこちらに……」
「たまたま通りかかっただけだ。」
(――嘘をつくのが、こんなに楽しいとは)
「せっかくだ。少しお茶でもしよう。」
「い、いえ! 私はこれから屋敷に――」
「命令だ。」
短く告げられ、メアリーは観念したようにため息をつく。
彼に腕を取られ、連れて行かれたのは街のはずれにある洒落たカフェ。
ガラス越しに光が差し込み、淡い花柄のカーテンが揺れている。
「……まさか、お坊っちゃまと二人で外食など」
「たまにはいいだろう。働きづめの君に、休息くらい与えても罰は当たらない。」
そう言って、アルバートはメニューを開いた。
「ここのアップルタルトは絶品らしい。君の好きな果物だろう?」
メアリーは驚きに目を瞬かせた。
「覚えて……いらしたのですか?」
「当然だ。君がリンゴの皮をむくとき、指を切って騒いでいたのを今でも覚えている。」
「お坊っちゃま! それは十年前の話です!」
彼のくすりと笑う声に、メアリーは頬を赤らめた。
テーブルに並んだ紅茶とタルト。
いつもは主従としての距離を保っている二人だが、この時ばかりは空気が違った。
穏やかで、どこかくすぐったい静けさが流れる。
「……メアリー。」
「はい?」
「君は、どうしてそんなに働く?」
「どうして、ですか?」
「見ていて苦しくなるほどだ。
自分を削ってまで他人の世話をする。その理由が、知りたい。」
メアリーは一瞬、言葉を失った。
けれど、やがてカップをそっと置いて微笑む。
「……私には、失ったものが多すぎたんです。
だからせめて、誰かの役に立てるなら、それで……救われる気がするんです。」
アルバートの胸が、ぎゅっと締めつけられる。
その横顔に、幼い日の彼が見た“光”が、まだ確かに宿っていた。
「君がそんなふうに生きるから、私は――」
そこまで言いかけて、彼は言葉を飲み込んだ。
カップの中の紅茶が、静かに揺れる。
「……君がいないと、私は落ち着かない。
それが、どんな意味なのか……私にも、もうわかっている。」
メアリーは俯いたまま、指先を震わせた。
(アルバート様は真剣だ……。)
主従の境界を越える一歩が、確かにそこにあった。




