36話 ヘンリー
休日の午後。
メアリーは、緊張と少しの高揚を胸に抱きながら、指定された屋敷の庭園へと足を運んだ。
そこには、色とりどりの薔薇が咲き誇り、噴水の水音が涼やかに響いていた。
その中央に、ヘンリーが優雅に立っていた。
「来てくれて嬉しいよ、メアリー」
差し出された手に、一瞬ためらいながらも、彼女はそっと自分の手を重ねる。
メイド頭としてではなく、かつての「没落した貴族の娘」として扱われているのを、ひしひしと感じた。
庭園のテーブルには、銀のポットに紅茶、そして焼きたてのスコーンやジャムが並んでいた。
「さあ、どうぞ。君の好みは昔と変わらないだろう?」
「……覚えていてくださったのですね」
「忘れるはずがない。君が苺のジャムばかり先に食べて、ブルーベリーを私に押し付けていたことまで」
思わずメアリーは吹き出した。
「まあ! そんなことまで……」
「大事な思い出だよ」
二人は紅茶を口にしながら、幼い日々を語り合った。
失われた時間が、ゆっくりとつながっていくような感覚。
やがて、ヘンリーの瞳が真剣さを帯びる。
「メアリー。君がどんな境遇にあろうと、私にとっては昔から変わらぬ大切な存在だ。だから、昔のように交流させてくれないだろうか?」
その言葉に、メアリーの瞳が大きく揺れる。
過去の自分を見てくれる人。
そして今、主人の傍らに仕える自分。
カップを持つ手が震え、紅茶の水面に波紋が広がった。
「ヘンリー様……」
「二人の時はヘンリーでいいよ」
「では、ヘンリー。奥様は?」
没落後、メアリーは紆余曲折をへてメイドになり、アルバートの屋敷で働くこととなった。
だが、ヘンリーは寄宿学校を卒業して、
社交界のパーティーで出会ったレディと結婚をしたはずだ。
「妻は……数年前の流行り病で、亡くなったよ」
「……そうだったのですね。お悔やみ申し上げます」
テーブルにバラの花びらがひとつ、風に運ばれてきた。
あの時の風の噂では、ヘンリーは、その出会ったレディとかなり熱烈な恋愛をして、結婚をしたという。
――お可哀想に。
メアリーは、少しだけ肩の力を抜いた。
「時の流れは残酷だ。けれど、こうしてまた再会できた。君が変わらず元気でいてくれることが、ただ嬉しい」
ヘンリーの穏やかな声に、メアリーは胸の奥が温かくなるのを感じた。
「私は……没落してしまいました。それでも笑って過ごせるようになったのは、働ける場を得られたからです」
「それでも、君は君だ。貴族の娘であろうが、メイドであろうが、変わらない」
その言葉は、甘い告白ではなく、むしろ旧友のような温かさを帯びていた。
互いに身分も立場も変わってしまったが、心の奥底に流れる絆はまだ消えていない。
「ありがとう、ヘンリー。……お会いできて、本当によかった」
「こちらこそだ、メアリー」
二人は過去を語り、笑い合い、友情を確かめるように午後のひとときを過ごした。
――その後、屋敷へ戻ったメアリーを待っていたのは、アルバートだった。
重々しい声で彼女を呼び出すと、書斎に案内した。
「……今日はどこへ行っていた?」
「え、ええと……少し、ご縁があって……」
「縁? ヘンリー卿とお茶をしていたと聞いたが」
メアリーの胸が跳ねる。
なぜ彼が知っているのか――。
アルバートの鋭い視線が突き刺さった。
「メアリー。君とヘンリー卿の関係は、一体何なのだ?」
その問いに、部屋の空気は一気に張りつめた。
友情か、それとも……別の感情か。
メアリーは言葉を選びかね、ただ唇を噛みしめるのだった。




