32話 思い
夜も更け、屋敷は静まり返っていた。
メイドたちが寝静まった後、メアリーは帳簿を片付け、蝋燭の灯を消そうとした。
「――まだ起きていたのか」
背後から低い声が響く。
振り返ると、そこに立っていたのはアルバートだった。
「お坊っちゃま。お休みにならずに、どうされたのです?」
メアリーは慌てて眼鏡を直し、立ち上がる。
アルバートは一歩、また一歩と近づいてきた。
蝋燭の揺れる光が、その端正な顔を照らす。
「……君に、聞きたいことがある」
「はい」
しばしの沈黙。
やがて彼は、迷いを押し殺すように言った。
「なぜ、戻ってきた? あの男の傍にいる道もあったはずだ」
メアリーの胸が大きく跳ねた。
アルバートの声には嫉妬と焦りが滲んでいた。
主人としての冷静な問いではなく、ひとりの男としての本音だった。
「……私は」
メアリーは視線を落とし、両手を強く握りしめた。
(正直に言えば、お坊っちゃまへの気持ちを認めてしまう……
でも、私はただのメイド頭。世話焼きなおばさんにすぎない。そんなこと、口にしてはいけないのに……)
「私は、メイド頭としての務めを果たすために戻ったのです」
それが精一杯の答えだった。
しかしアルバートは、じっと彼女の瞳を覗き込む。
「それだけか?」
メアリーは答えられなかった。
沈黙が、ふたりの間に重くのしかかる。
やがてアルバートは一歩退き、ふっと笑みとも諦めともつかぬ表情を浮かべた。
「……ならば、それでいい。だが覚えておけ。俺は、もう君をただのメイド頭とは思っていない」
その言葉を残して去っていく彼の背を見送りながら、メアリーの胸は熱く、そして苦しく締め付けられていた。




