18話 馬車の中で
馬車は夜道を走っていた。市場での口論の余韻が、まだ二人の間に漂っている。
アルバートは険しい表情で外を眺め、メアリーは胸の奥に渦巻く感情を抑え込むように、膝の上で手を組んでいた。
「エドワードとは……二度と会うな」
沈黙を破るようにアルバートが低く言い放つ。
「ですが、彼はただ——」
「ただ、だと?」アルバートが振り返り、射抜くような瞳を向けた。
メアリーは言葉をのみ込んだ。彼の目は怒りに揺れているというより、苦しみにも似た色を宿していた。
その瞬間——。
ガタンッ! 馬車が急停止した。
御者の叫び声と共に、車輪が大きく軋み、メアリーの身体は前へと投げ出される。
「きゃっ——!」
次の瞬間、力強い腕が彼女を抱きとめた。
衝撃を吸収するように、アルバートの胸に押し込まれる。彼の広い肩越しに、馬車の窓が揺れるのが見えた。
(……ぶつからなかった……)
恐怖に震える身体を支えるその腕の温かさに、メアリーははっと息を呑む。
「……怪我はないか」
耳元で囁く声は、いつになく優しく低い。
顔を上げると、アルバートが至近距離で彼女を見つめていた。普段は毅然とした主の顔が、今はどこか必死で、守ろうとする意志に満ちている。
心臓が強く跳ねた。
彼を「主人」としてではなく、「ひとりの男性」として意識してしまう。
「……わたしは、大丈夫です」
そう答えながらも、声はわずかに震えていた。
アルバートはしばらく彼女を抱きしめたまま離そうとしなかった。
馬車の中に漂うのは、外のざわめきではなく、二人の鼓動の音だけだった。
——メアリーの中で、確かに何かが変わりはじめていた。