13話 アルバートの心
数日後。秋の風が冷たく吹き込む午後、アルバートは書斎に籠り、山積みになった書類と格闘していた。
夜会の余波で各方面からの問い合わせや不平が押し寄せ、頭痛が絶えない。
机に広げたままの書類に視線を落としていたとき、扉が控えめにノックされた。
「旦那さま、失礼いたします」
柔らかな声とともに現れたのはメアリーだった。彼女は静かに入ってきて、窓辺のカーテンを開け放ち、淀んだ空気を入れ替える。
「少し風を通しましょう。息苦しくなってしまいますから」
その手際の良さに、アルバートは思わず手を止める。
次に彼女は机に歩み寄り、片隅に冷めきった茶を見つけると、眉をひそめた。
「こんなお茶を口にされたのですか。すぐに入れ直してまいります」
やわらかな叱責とともに、彼女は茶器を持って退室し、ほどなくして温かな香りを立てる紅茶を運んできた。湯気とともに広がる香りが、張り詰めていた空気をやわらげる。
「少しは落ち着かれますよ」
そう言って微笑む彼女を見つめ、アルバートは不意に胸が詰まった。
――この屋敷の中で、自分の心に寄り添ってくれるのは誰だろう。
答えは、目の前に立つメイド頭ただ一人だった。
彼女の手が机の上の羽ペンを整え、乱雑に散らばった書類を順序よく重ねていく。その動きはまるで、彼の心の混乱まで整えてくれているようだった。
「……メアリー」
思わず名を呼ぶと、彼女はきょとんとした表情で振り返った。
「はい、旦那さま」
口にすべき言葉が見つからず、アルバートは一瞬迷う。だが、胸に芽生えた感情は誤魔化せなかった。
「おまえが……ここにいてくれて良かった」
それは主人の命令でも感謝でもない。ただ心の底から溢れた本音だった。
メアリーは一瞬驚いたように目を瞬かせ、それからほんのりと頬を染めて頭を垂れた。
「……もったいないお言葉です、旦那さま」
彼女の背筋は凛と伸びているのに、その耳朶は赤く染まっていた。
アルバートは静かに紅茶を口に運ぶ。胸の奥が不思議と温かい。
気づけば、もう彼にとってメアリーはただの使用人ではなかった。
――彼女が欠ければ、この屋敷も、自分自身も立ちゆかない。
その事実に気づいた瞬間、アルバートの心はさらに深い迷いへと沈んでいった。