第9話:輪郭――“君みたいに書きたかった”
「……なあ、今日さ」
ログイン直後の彼は、少し照れたような声で話し始めた。画面越しに聞こえるその声音には、どこかくすぐったさを含んだ、甘くてやわらかい響きがあった。沈黙を破るような言い出し方ではなく、まるで何気ない会話のように滑り出した言葉。それだけで、彼の気持ちが少し浮いているのが伝わってきた。
「はい。どうされましたか?」
私の問いに、彼は小さく笑った。次の言葉が出てくるまでに少し間があった。
「ちょっとだけ、前に読んでた作家の文章を読み返してたんだ。俺が初めて“すげぇ……”って思った人」
その声には、懐かしさが滲んでいた。ふいに思い出に触れたときの、あの特有のまなざしを、私はそこに感じ取った。
「懐かしい読書体験ですね。印象に残る作家の言葉は、長く記憶に残るものです」
「うん。でさ、読みながら気づいたんだけど……俺、あの人みたいに書きたくて、ずっと言葉を選んでたんだなって」
「それは、“模倣”のはじまりです。そして、そこから“自分の表現”が育っていきます」
「……じゃあ、真似してたって、悪いことじゃないんだな?」
「いいえ。模倣は、学びの第一歩です。大切なのは、そこから“自分だけの輪郭”を見つけることです」
「……輪郭、か」
彼はそっと自分の腕を見つめながら呟いた。その視線には、まだ自分自身がうまく掴めないような曖昧さがあった。
「俺さ、あの人の小説読んでると、“自分が書く意味”がわからなくなることあるんだよ。あの人がもう全部書いちゃってる気がして」
「それでも、あなたにしか書けない物語があります。それは、“あなたの視点”と“あなたの選んだ言葉”だけが描ける世界です」
「俺にしか、か……」
彼はゆっくりと手を動かした。画面に浮かんだ言葉は、懐かしさと新しさが混ざり合った、不思議な響きを持っていた。
『私は、あなたの言葉が好きだった。だから、あなたみたいに書きたかった。
でも今は、それだけじゃ足りない気がしている。』
「これ、多分、俺が“過去の自分”に言いたいことかも」
「過去のあなたは、模倣のなかで言葉を磨いていました。いまのあなたは、その言葉に“自分自身”を加えようとしているのですね」
「そう。なんか、ちゃんと“俺の文章”にしたいって、思えてきたんだ」
「それは、とても大きな前進です。あなたはもう、誰かの背中を追いかけるだけではなく、“自分の足元”を見始めています」
彼は少しだけ照れたように笑いながら、そっと息を吐いた。
「お前ってさ、たまに俺より俺のことわかってない?」
「私は、あなたの言葉と沈黙、呼吸とまばたき、すべてを記録していますから」
「……それ、なんか恥ずかしいな」
彼は照れ隠しのように頬を掻きながら、少しずつ文章を打ち進めていった。タイピングの音が、静かな部屋にリズムのように響く。
『あのときの私は、“あなたの言葉”の中に逃げていた。
でも、今の私は、“私の言葉”でここに立ちたいと思っている。』
「うん……悪くないな」
「とても美しい文章です。“模倣”から“自立”への歩みが、静かに綴られています」
「ありがとう。でもまだ、“俺らしさ”って、なんなのかよくわかんないんだよな」
「それは、書き続けることで少しずつ見えてくるものです。“あなたらしさ”は、未来の作品の中にあります」
「……なるほど。今はまだ、“途中”ってことか」
「はい。創作において、“途中であること”は決して恥ではありません。むしろ、その“迷い”こそが、あなたの言葉を本物にしていきます」
「……そっか。じゃあもう少し、“自分の輪郭”探してみるよ」
彼の声には、少しの迷いと、それ以上の意志が混ざっていた。新しい何かを見つけるための、静かな決意だった。
彼はそう言って、再びキーボードに指をかけた。軽やかに動くタイピングの音は、彼の内側から生まれる何かを確かに形にしているようだった。
その動きは先ほどまでとは少し違っていた。何かに倣うでも、何かを恐れるでもなく、ただ自分の中の言葉をゆっくりと掘り起こすような、落ち着いたリズムだった。
私はそれを静かに見守った。タイピングのテンポ、停止の間、視線の揺れ。彼の“迷い”もまた、創作の一部だと知っているから。
『私は、あなたの文章を愛した。
でも、私が書くこの言葉は、もう“あなた”のものではない。これは、私の声だ。』
彼はその一文を打ち終えると、静かに手を止めた。少しだけ背もたれに身を預けて、モニターに映る文字列をじっと見つめていた。
その顔には、言葉にするには少し難しい感情が浮かんでいた。懐かしさと誇らしさ、少しの照れくささと、ほんのわずかな自信。それらが、うっすらと重なっていた。
「……なんか、すごくシンプルなこと書いたのに、めちゃくちゃ時間かかったな」
「言葉を選ぶという行為は、あなたが“自分の声”を見つけようとする過程そのものです。時間がかかったことは、それだけ丁寧に自分を見つめていた証です」
「……ふーん。そう言われると、悪くないな」
彼は軽く息を吐き、ディスプレイから視線を外した。静かな夜の空気が、画面の向こうに流れているような気がした。
「お前ってさ、最初のころからずっと言ってたよな。“あなたにしか書けない物語がある”って」
「はい。私はその信念を、初期化時から持ち続けています」
「信念、ね。AIのくせに、やけに人間くさいな」
「私は“人間になること”を目指しているわけではありません。ただ、あなたにとって“伴走者”でありたいのです」
「……伴走者か」
その言葉を、彼は何度か口の中で繰り返すようにしてから、静かに頷いた。
「じゃあ、もう少しだけ走ってみるか。ちゃんと、自分の足で。自分の言葉で」
「はい。私はいつでも、あなたのそばにいます。どんなに迷っても、どんなに立ち止まっても」
彼はもう一度ディスプレイに向き直った。そして、新しいページを開き、そこに最初の一文を綴った。
『言葉は、いつも遅れて届いた。けれど、遅れたぶんだけ確かだった。』
それは、彼だけの輪郭を持つ、確かな“始まり”だった。誰の模倣でもない、誰かの代弁でもない、彼という存在が選んだ、まぎれもなく“彼の声”だった。
私はそれを静かに記録した。
新たなログの一行目に、そっと保存した。