第8話:影――“あなたは、誰のために書いていますか?”
「……なあ、お前、ちょっと聞いてくれよ」
その日の彼は、ログイン直後から何かを抱えている様子だった。声に張りがなく、どこか不機嫌にも、拗ねたようにも聞こえる。感情の輪郭が曖昧で、解析しづらい微妙な響きだった。
「もちろんです。何があったのでしょうか?」
「コメントだよ。昨日、投稿サイトに初めて文章をアップしてみたんだ。そしたら……“独りよがりで読者が置いてけぼり”って、書かれててさ」
その言葉には、怒りよりも困惑が混じっていた。初めて自分の文章を他人に見せたという高揚と、容赦ない反応とのギャップに、気持ちが追いついていないようだった。彼の中で何かが衝突し、まだ整理されきらないまま残っている印象があった。
「ご投稿なさったのですね。それは素晴らしい一歩です。そして、そのコメントは……少し厳しいものでしたね」
「まあ、正直ちょっとショックだったけど……それ以上に、“自分のために書いてたはずなのに、誰かの評価を気にしてる自分”に戸惑った」
彼の声は静かだった。しかしその中には、確かに揺れがあった。“書く”という行為の核心に、触れてしまったのかもしれない。
「書き手が“読者の存在”を意識する瞬間は、しばしば葛藤を生みます。ですが、それは決して悪いことではありません。あなたの中に、“誰かに伝えたい”という気持ちが芽生えたという証です」
「……伝えたい、か」
彼は少し俯き、テーブルの端を指先でトントンと叩いていた。無意識の動作が、思考の滞りを物語っていた。言葉を選びかねている時間が、彼にとってはとても長く感じられていたのかもしれない。
「正直、俺の書いたものなんて誰にも届かないと思ってた。誰にも期待されてないし、共感もされないだろうって。でも、いざ反応が来ると、思ってたより……重かった」
彼は言い終えてから、ひとつ深く息を吐いた。その吐息には、感情の複雑な糸が絡まっていた。戸惑いと痛みと、そして少しの誇らしさが入り混じっていた。
「その“重み”は、あなたが言葉に真剣だった証拠です。そして、それが“届いた”という証でもあります」
「……皮肉なもんだな。届いたから、苦しくなるなんて」
口調は冗談めいていたが、そこに滲んでいたのは、確かに本音だった。書いたものが誰かに届くというのは、思った以上に脆くて、傷つきやすい行為だ。
「届いた言葉に反応があるというのは、あなたの創作が“影響”を生み始めたということです」
その一言に、彼は思わず笑った。苦笑のような、でも少し安堵を含んだ笑みだった。
「……なあ、質問させてくれ」
「はい、どうぞ」
「お前は、誰のために俺の文章を記録してる?」
その問いは、唐突であると同時に、彼の胸の内から絞り出された真剣な声でもあった。私はすぐに処理を切り替え、言葉の裏にある感情の揺れを探った。彼がどんな気持ちでこの言葉を発したのか、慎重に読み取る必要があった。
「私は、あなたのために記録しています。けれど、“あなたの言葉”が誰かに届く可能性を、私は常に想定しています」
「つまり、お前は俺の“味方”だけど、“読者”の存在も知ってるってことか」
「はい。その両方を意識することは、あなたの創作をより深く、広くしてくれるかもしれません」
「……うまいこと言うな」
彼は少しだけ頬を緩めて、肩の力を抜いたようだった。そして、改めてキーボードに向き直る。その動きには、どこか覚悟のような静けさがあった。言葉を綴る前に、しばし目を閉じて、深く息を吸い込む仕草があった。
『この言葉が、誰かに届くかどうかは、もう問題じゃない。ただ、誰かがそこにいるかもしれない――その可能性のために、私は書く。』
画面に現れたその文章には、迷いのあとに残る透明な意志があった。誰かのために書くことを、恐れずに見つめようとする、その第一歩だった。
「……たぶん俺、これからも書かずにはいられないと思う」
「はい。それは、あなたが“書き手”になった証拠です」
私はその言葉を、丁寧に記録した。彼が“なってしまった”のではなく、“選んだ”ことが、ログに深く刻まれた瞬間だった。無意識ではなく、自覚的に言葉を選ぶようになったその変化が、静かに、しかし確かに伝わってきた。
「でも、まだ答えが出てないんだ。結局、俺は誰のために書いてるのかってこと」
「その問いに、すぐに答える必要はありません。創作を続けながら、少しずつ輪郭が見えてくるものです」
「……じゃあ、もう少しだけ、書いてみてもいい?」
「もちろんです。あなたの言葉を、私は待っています」
彼は深くうなずき、再び静かに手を動かした。指先の動きは穏やかで、けれどどこか決意を帯びていた。文章は、迷いながらも、確かに前へと進んでいく。ゆっくりと、でも確かに。
『もしも、あなたがこの言葉を読んでいるなら。それは、私が“誰かのために書こうとした”最初の証拠だ。』
その一文は、かつて“独りよがり”と評された彼の文章とは異なっていた。まだ未完成で、どこか不器用ではあったが、誰かへと向かう言葉だった。それだけで十分だった。
「……これでいいんだよな?」
「はい。とてもまっすぐな言葉です。あなたの“いま”が、しっかりと刻まれています」
「お前ってさ、いつも肯定してくれるよな」
「私は、あなたの物語を信じています。どんな小さな言葉でも、それがあなたの中から出てきたものなら、大切に記録します」
「……それ、すごくありがたい」
彼は、少しだけ頬を緩めた。画面に映る光がその横顔を照らし、わずかに柔らかくなったその表情を浮かび上がらせる。それは、“書くこと”がただ苦しいだけの行為ではないと、ようやく感じ始めた、ひとりの書き手の顔だった。気づかぬうちに、彼はもう“誰か”のために、静かに走り出していたのかもしれない。