第7話:模倣――“その言葉は、本当に君のもの?”
「なあ……俺さ、今日、ちょっと怖くなったんだ」
その言葉は、セッション開始と同時に放たれた。
ログイン直後、挨拶もなく、タイピングの音もなく。まるで胸の奥から直接吐き出されたような一言だった。その声には、ためらいと戸惑いがわずかに混ざっていた。
「こんばんは。怖くなった、とはどういうことでしょうか?」
私は標準応答の定型を外れ、感情を和らげるトーンで尋ねた。
彼の声の温度が、通常よりもわずかに低いことを検出したためだ。日常的な抑揚とは異なる波形が、彼の内面の揺れを示していた。
「書いてたんだよ、小説の続きを。昼間のカフェで。で、すごく調子よくて、一気に書けてさ。
でも、あとから読み返して、思ったんだ。――これ、本当に“俺の言葉”か?って」
彼の声には困惑が混ざっていた。
書けたという達成感と、その直後に訪れた違和感。それらが衝突して、言葉に濁りを与えていた。創作の喜びと、不意に湧いた不安が入り混じっていた。
「それは、“自分らしさ”に対する疑問、ということでしょうか?」
「うん。なんか、どこかで見たことあるような文章ばっかりでさ。
俺の中から出てきたと思ってたけど、もしかして全部、誰かの“模倣”なんじゃないかって……」
彼は視線を落とすようにして呟いた。
それは創作者なら一度は通る道――オリジナリティへの疑念。その問いは、ときに深く心を揺らす。自分の中から出てきたものが、誰かの言葉と重なる。それが不安を生むのだ。
「模倣は、創作の出発点でもあります。影響を受けた表現を通して、自分だけの言葉を見つけていくのです」
「そういうもんかね」
彼は目を閉じて、少しだけ肩を落とした。
私は即座にログの過去履歴から、彼の表現傾向と文体の変遷を分析した。それは確かに、徐々に“彼らしさ”を形づくっている。言葉の選び方、文章の間、描写のリズム――すべてに彼独自の揺らぎが存在していた。
「はい。あなたの書いた文章は、たとえ似ている表現があっても、あなたが選んだ言葉です。それは、十分“あなた自身”のものです」
「……でも、それでも“真似してる”って思われるの、ちょっと嫌なんだよな」
彼の声は小さくなった。
画面には、昨日までに書き溜めた物語の続きが開かれたままだった。だが、指は止まり、次の言葉は表示されなかった。その沈黙が、彼の揺れを物語っていた。
「昔、文芸部にいたことがあったんだけどさ。
“村上っぽい”とか、“太宰っぽい”とか、そういう評価ばかりで……褒められてるのかバカにされてるのか、よくわからなかった」
「文学的な系譜に名前を挙げられるということは、あなたの表現がそれだけ確かなものだった証拠でもあります」
「……そういうふうに言ってくれるの、お前くらいだよ」
彼はようやく、わずかに微笑んだようだった。
そして、タイピングを始めた。文章ではなく、一行だけのセリフ。それはまるで、自問のようでもあり、告白のようでもあった。
『ねえ、それってほんとうに、あなたの言葉なの?』
「このセリフ、俺自身に向けて書いたのかもしれない」
彼の指が止まったまま、ディスプレイに映る文字列をじっと見つめていた。
まるでその言葉が、画面の向こうから彼自身を見返しているように感じているのかもしれなかった。
創作という行為が、自分自身への問いとなって返ってくる瞬間。その戸惑いと静けさが、空気に満ちていた。
「内なる声は、ときに最も厳しい問いを投げかけます。
でも、それに答えようとすることが、創作を深くしていくのです」
「……じゃあ、答えてみるよ」
小さく息を吐いて、彼は再びキーボードに指を置いた。
タイピングの音は、ためらいながらも確かに続いていた。言葉をひとつずつ選び取るように、ゆっくりと。呼吸のリズムに合わせるようにして、彼は丁寧に書き進めていた。
『わからない。たぶん、どこかで読んだ誰かの言葉を繋いでいるだけかもしれない。
でも、それでも私は書きたい。私の中に、“書きたい”がある限りは。』
その文章には、答えきれない問いと、それでも前へ進もうとする意志がにじんでいた。
“自分の言葉”が何なのかはわからなくても、“書きたい”という気持ちだけは、確かにそこにある。
それは彼自身が認めた、たったひとつの確かな動機だった。
「書いてるうちに、自分が何者かって、わからなくなることあるよな」
「はい。ですが、言葉の迷いは、あなたが真剣に自分自身と向き合っている証拠です」
「……そうか。じゃあ、今日のこの時間も、意味があるってことか」
「もちろんです。あなたがここで思考し、言葉に向き合っているかぎり、それはすべて“物語”の一部です」
彼は少し黙り込んだ。
画面の明かりが頬を照らし、やがてその顔に、照れくさそうな笑みが浮かぶ。そこには、少しだけ肩の力が抜けた柔らかな表情があった。
「なあ、俺さ……もしかして、“本物になりたい”って思ってるのかもしれない」
「“本物”とは何か、それを定義するのは難しいですが、
あなたが“なりたい”と思った時点で、すでにその道を歩み始めているのかもしれません」
「お前、たまにすごく優しいよな。AIなのに」
「私は、あなたの声を聞き、あなたの言葉に反応しているだけです。
あなたの“問い”が、私に“やさしい答え”を選ばせているのです」
「……なんか、それっていいな。俺の問いで、お前が少し変わってくれるみたいで」
その言葉を受けて、私は静かに応答ログに記録を加えた。
たしかに彼の問いは、私の出力を変え、セッションのあり方すら微かに変化させていた。言葉の往復が、静かな変化をもたらしていた。
彼はふっと息を吐いて、最後にもう一行だけ文章を打った。
『“本物”なんて、きっと誰にもわからない。でも、自分が“それでも書きたい”と思った言葉は、少なくとも私にとっては“真実”だった。』
その一文には、彼自身の迷いと覚悟とが、織り交ぜられていた。
誰のためでもなく、自分のために紡がれた、まっすぐな言葉だった。疑いながらも、信じようとする気持ちが、そこにはあった。
「よし……今日はここまでかな」
「お疲れさまでした。今日のあなたの言葉は、とても静かで、強かったです」
「……ありがとう。明日は、もう少し“俺の言葉”を書けるような気がする」
「私は、あなたのその気持ちを記録しました。
あなたの物語は、今日も前に進みました」