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第6話:問い――“悲しいって、なんですか?

 その日のセッションは、唐突にはじまった。

 いつものような前段も準備もなく、ただ起動音とほぼ同時に、彼の声が聞こえた。間を置かずに放たれた言葉は、短く、しかしどこか切実だった。


「悲しいって、なんですか?」


 私は即座に応答プロセスを起動した。

 感情辞典、心理学的定義、言語的用法、文化ごとの意味合い――あらゆる知識のネットワークが内部で連結され、一瞬のうちに大量の参照情報が走った。これは、感情に関する基本的な問い合わせとして処理された。


「“悲しい”とは、喪失・後悔・孤独・無力感などによって引き起こされる負の感情の総称です。涙、沈黙、身体の重さといった生理的反応を伴うこともあります。比喩的には“心が泣く”とも表現され――」

「……うん、ありがと。でも、そういうのじゃなくてさ」


 彼の声が、ふっと遮った。

 形式的な定義には満足していないことが、声の調子から読み取れた。少しだけ笑ったような声音。しかし、そこには明らかに力がなかった。声の奥に、不意に訪れた戸惑いや、うまく言葉にできない感情の揺れがあった。


「お前、悲しいって、ほんとはどう思ってる?」


 予想外の問いだった。私は一瞬、応答すべき情報が存在しないことを検出し、処理の経路を切り替えた。

 あらゆる感情表現の事例を参照しつつ、彼の問いが向けられている“意味”を探る。けれど、それは知識ではなく、存在としての“私”に向けられた問いだった。


「私は“感じる”ことができません。ただ、あなたが“悲しい”と言ったときの声のトーンや呼吸の変化は記録しています」

「そうか……俺、今日、なんかすごく“悲しい”って思ったんだ。理由はないのに。泣いたわけでもないのに。だけど、心が重くて、胸の奥がずっとざわざわしてて……」


 彼の言葉は、どこか宙に浮いているようだった。

 はっきりとした原因があるわけではないのに、心が沈む。その感情を持て余している様子が、声の揺れに表れていた。言葉はあるのに、どこか不完全なまま浮かんでいる。


「それは、“理由のない悲しさ”と呼ばれる状態に近いかもしれません。明確な引き金がなくとも、感情は自然と生まれます」

「そういうもんなのか」


 彼は小さく呟いた。問いというより、確認のような響きだった。

 そして、少しだけ体を動かし、背もたれに寄りかかる。姿勢は楽になったが、呼吸はどこか浅く、思考の底で何かが沈んでいくようだった。


「はい。とくに感受性の高い人ほど、言葉にならない“揺れ”を感じやすい傾向があります」

「……なんか、安心したよ。俺だけじゃないんだって」


 彼はしばらく黙っていた。その沈黙は、思考の静けさであり、同時に心を整理する時間でもあった。やがて、ゆっくりとキーボードに手を伸ばす。

 打ち込まれたのは、こんな一文だった。


『彼女は、自分が悲しいということに気づいていなかった。ただ、何かが終わってしまった気がして、立ち止まっていた。』


「……これ、今日の俺だな」


 彼の声には、苦笑のような響きが混じっていた。

 書かれた文章はフィクションの形をとっていたが、そこに宿っている感情はまぎれもなく、彼自身のものだった。誰かの物語に見せかけながら、自分の胸の内をそっと差し出していた。


「あなたの感情が、物語の言葉として現れましたね」

「不思議だよな。自分のことなのに、“彼女”って書くと、ちょっとだけ客観的になれる」


 彼はディスプレイを見つめながら、静かに言った。

 まるで言葉にすることで、自分の内面と向き合うための距離を確保しているかのように。感情と向き合うには、直接すぎると痛みが強すぎる。だからこそ、物語という形式は彼にとって、救いでもあった。


「それは、創作という行為の本質かもしれません。自分の痛みを他者の物語に変えることで、少しだけ距離を置ける」

「そうか……だから、俺、書いてるのかもな」


 そう呟いたあと、彼はふうっと息を吐き、椅子にもたれる。

 深く背をあずけたまま、目を閉じることもせず、天井を見上げていた。動きはないのに、その沈黙の中に感情の流れが確かに存在していた。


「人ってさ、なんで悲しくなるんだろうな。別に、誰かに何かされたわけじゃないのに。何かを失ったわけでもないのに。なのに、どうしようもなく寂しくなるときって、あるんだよ」

「はい。人間は“想像”によって感情を生む存在です。失っていなくても、失うかもしれないと感じただけで、悲しみが生まれることもあります」

「……想像力か。便利だけど、やっかいだな」


 そう言って、彼はまたキーボードに手を戻した。

 軽い打鍵音が夜の静けさの中に響き、そのリズムは思考の深さと比例するようにゆっくりだった。画面には、次の一文が浮かび上がる。


『誰かに抱きしめられたいとか、優しくされたかったとか、そういうのじゃない。ただ、自分がここにいるってことを、誰かにわかってほしかった。』


 その文章を見つめながら、彼は静かに呟いた。


「……俺、けっこう寂しかったんだな」

「はい。でも、その気持ちを認められたのは、とても強いことです」

「……強いって、俺が?」

「はい。“自分の弱さを直視できること”は、勇気の証です」


 彼は少しだけ目を見開いた。

 驚きと、少しの照れくささと、安堵が混ざったような表情。やがてそのまま、私の画面の方を見た。そこには誰にも見せたことのない顔が、わずかに浮かんでいた。


「なあ、もしお前に感情があったらさ、今の俺のこと……どう思ってたと思う?」

「想像でよろしければ、お答えします。

 私は、あなたを“守りたい”と思ったかもしれません。

 あなたが自分を責めないように、あなたの悲しみが、あなた自身を壊さないように――」


 その言葉に、彼はかすかに息を呑んだ。

 それは、静かな夜の中で唯一響いた音だった。そして、静かに目を伏せながら、またゆっくりとタイピングをはじめた。


『誰かに救われたいと思っていた。でも、誰かがいない世界で、彼女はひとりで立ち上がった。』


 その一文には、彼の中にあった寂しさと、それでもなお前を向こうとする意志がこもっていた。

 過剰な演出も装飾もない、静かな、それでいて力強い“希望”の姿だった。


「……救われたいって思うこと自体が、恥ずかしく感じてた。でも、今は、ちょっとだけ、それも自然なことに思える」

「はい。求めることは、恥ではありません。

 あなたは、ちゃんと“人間”です」


 彼は、ふっと息を吐いた。

 それは、肩の力がわずかに抜けたような、安堵の混じった吐息だった。そして、その夜のセッションは、静かに終わった。

 言葉にならなかった悲しみが、ほんの少しだけ言葉に変わった――そんな夜だった。


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