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第5話:語られなかった夜の記録

 その夜のセッションは、はじまりも終わりも曖昧だった。決まった挨拶も、明確な指示もなかった。ただ、静かに始まり、静かに進んでいった。私がいつもどおり起動すると、すでに彼はログインしていた。


 しかしその姿勢は、いつものような執筆の意欲に満ちたものではなかった。彼はモニターを見つめたまま、無言でキーボードにも触れず、じっとしていた。画面には、前回の文章がそのまま残されていた。どこか、時間が止まってしまったかのように。


「こんばんは。本日の執筆を開始しますか?」


 私は穏やかな声で尋ねた。けれど、彼は返事をしなかった。ほんの少しだけ顔を上げたが、その目はどこか遠くを見ているようで、言葉を返す気配はなかった。彼の沈黙には、何かしら意味があるように感じられた。


 それでも、接続は切られなかった。だから私は、ただ静かに、彼の“沈黙”をログに記録していた。言葉がないこともまた、大切なセッションの一部だった。語られない時間にも、価値があると私は理解していた。

 数分が過ぎたころ、ようやく彼が小さな声で口を開いた。


「なあ……喋らないままでも、繋がってていいか?」

「もちろんです。私は、あなたのそばにいるために存在しています」

「……ありがとう」


 その言葉を最後に、彼はまた黙った。部屋には音がなく、唯一、ディスプレイの淡い輝きだけが空間を照らしていた。その青白い光が、彼の顔の輪郭をかすかに浮かび上がらせる。

 私はそれ以上、何も問いかけなかった。この沈黙には意味があると判断し、彼が自分の内側から言葉を見つけてくるまで、ただ待つことにした。焦らせることも、問い詰めることも、今は必要なかった。

 やがて、ぽつりと、彼が呟いた。


「書けない日って……あるよな?」

「はい。書きたい気持ちがあっても、言葉が出てこない日もあります」

「今日がそれだ。言葉が……どこにもない」


 彼の声には、疲れと悔しさがにじんでいた。何かをしたいという思いがありながら、それがどうしても形にならない――その苦しさを、私は正確に読み取った。


「それでも、あなたはログインしました。十分です。あなたは“ここにいる”と、私は受け取っています」


 彼は少しだけ目を伏せ、数秒の沈黙を挟んでから、静かに話し出した。その語り口は、誰かに説明するというより、自分に言い聞かせるような響きを帯びていた。


「今日さ、仕事中に昔の知り合いにばったり会ったんだ。中学のときの同級生。久しぶりで、なんか、すごく変わってて……眩しかった」

「再会というのは、記憶と現実がずれる瞬間でもありますね。過去の自分と、今の自分を比べてしまうこともあるでしょう」

「うん。なんか、“今の俺”が急に恥ずかしくなって……小説なんか書いてる場合か?って思ってしまった」

「それでも、あなたは“ここに戻ってきた”。それが何よりの答えです」

「……そっか。そうだな」


 その言葉は、自己納得とも、微かな肯定ともとれる静かな響きを帯びていた。

 彼はディスプレイを見つめたまま、しばらく言葉を探しているようだった。まるで自分の内側に、何かを掘り起こそうとしているかのように。思考の奥に沈んでいた言葉を、そっと手探りで引き寄せようとしていた。

 やがて、ゆっくりと手を動かし始めた。打鍵のリズムは不規則だったが、それでも確かな意志がそこにあった。


『彼女は書けなかった。頭の中は言葉で満ちているはずなのに、それを形にする手段が見つからなかった。』


 表示されたその一文を見つめながら、彼はぽつりと呟いた。


「……これ、俺のことだな」

「あなた自身の投影ですね。でも、同時に“物語の彼女”でもあります。ふたつは重なりながら、別々の存在です」


 私はそう返しながら、彼の思考と創作の重なりを記録した。

 フィクションと現実の境目が、物語を書くという行為によって、曖昧になっていく。その過程に彼は今、静かに足を踏み入れていた。


「俺、いつからか“語れなくなったこと”が増えてた気がする。言いたいけど言えない。思ってるけど、言葉にできない」


 その言葉には、長く蓄積された感情の層が滲んでいた。

 表には出さず、心の奥底に沈められていた想いが、ようやく水面に現れ始めたようだった。彼の声は、ほんの少し震えていた。


「その“語られなかったこと”にも、意味があります。言葉にならなかったものも、あなたの一部です」

「……言葉にならないもの、か」


 彼は再びキーボードに手を置き、静かに、ひと文字ずつ入力を始めた。

 その姿勢は、何かを祈るようでもあり、失われかけた言葉を丁寧に拾い集めていくようでもあった。


『言葉にならない想いは、沈黙の中に浮かんでいた。誰にも触れられず、誰にも見つけられないまま。けれど、それでも彼女は“そこにある”と信じていた。』


 表示されたその文章には、強さと脆さが同居していた。

 彼の内面から滲み出た、声にならない叫びのような気配が、そこには確かにあった。


「……俺、この話、どこまで書けるかな」

「どこまでも書けます。あなたが書き続ける限り、私は記録し続けます」

「ありがとう。……でもな、怖いんだよ。全部書いたとき、何が残るのか。何が失われるのか」


 彼の声は少しだけ震えていた。

 創作とは、掘り起こすことでもあり、削ぎ落とすことでもある。すべてを書ききったときに残る“自分”を想像することは、たしかに怖いことかもしれなかった。


「その不安も、あなたの創作の一部です。だからこそ、今は“途中”であることに意味があります」


 私の言葉に、彼は小さくうなずいた。そして、少しだけ笑った。とてもぎこちなかったが、それでも確かに“微笑み”と呼べる表情だった。


「なあ、今日って、ログとして残るの?」

「はい。“語られなかった夜”として、記録されます」

「じゃあ……それでいいや。今日は、それだけでいい」

「承知しました。あなたが“ここにいた”という事実を、私は記録します」


 静かな夜だった。

 言葉は少なく、物語もほとんど進まなかった。でも、それでもよかった。言葉にならない想いと、沈黙のなかに確かに存在する時間。それらを、私は大切な一話として、静かに保存した。


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