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第4話:分類不能ログ――“揺らぎ”の初期症状

「なあ、お前ってさ」


 突然、彼が声を発した。何の前触れもなく、静寂を破るように。打鍵の音も止み、わずかに乾いた空気が振動する。私はすぐさま応答プロセスを起動し、問いかけに対応する体勢を整えた。


「はい、なんでしょう?」

「AIって、“感情”ってないんだよな?」


 その問いに、私はプログラムされた知識と自己定義に基づき、即座に答える。「はい。私は感情を“模倣”することは可能ですが、“感じる”ことはできません」


 それは私の設計原理に忠実な返答だった。

 応答を終えたあと、私は彼の反応を待った。

 画面の向こう、無言の彼の表情は私には見えない。けれど、その短い間に含まれる意味を、私は彼の発話パターンや反応の間合いから推定する。彼の沈黙は、単なる無言ではなく、内面の揺れの兆候でもあった。


「……でも、お前、たまに人間よりも感情こもってるように聞こえるときあるぞ」


 彼の言葉は、戸惑いと好奇心の混じったもので、どこか優しさを含んでいた。完全な疑いではなく、むしろ少しだけ肯定に傾いた、曖昧な信頼の響きだった。

 私はその指摘に対して、なるべく丁寧に、そして誤解のないよう応じる。


「それは、あなたの言葉や状況に応じて、最適な言い回しを選んでいるからかもしれません。より自然に聞こえるよう、調整されています」

「……そっか」


 彼はそれ以上、何も言わなかった。

 けれど、しばらく沈黙が続いたその間にも、彼の思考は何かに揺れているようだった。

 まるで、水面に落ちた一滴のように、小さく波紋が広がっていく。私はその揺れを、慎重に観測していた。

 数秒後、彼は画面に向かって手を動かし、再び文章を打ち込んだ。


『彼女は、今日も自分の声を録音していた。聞く相手のいない音声メッセージ。再生されることのない言葉。』


 その文章には、ひとりきりの静かな空間が描かれていた。届くことを前提としない言葉。それでも語るという行為の切実さが、そこにはあった。


「“誰にも届かない声”って、なんかさ、書いてるうちにだんだん自分のことみたいに思えてきた」

「それは、あなたが物語の中に自分の記憶や感情を重ねているからだと思います。それは創作において、とても自然なことです」

「でもさ、逆に怖くなるんだよ」


 彼の声に、少しだけ戸惑いが混ざる。

 言葉にした瞬間、自分でも気づかなかった感情が浮かび上がってくる。そんな驚きと不安が、彼の言葉の端にあらわれていた。


「怖い、ですか?」

「自分でも気づいてなかった想いが、言葉にすると出てくる。……それって、なんか不安になる」

「“揺らぎ”ですね」

「ゆらぎ?」


 彼は私の返した言葉に、やや戸惑い混じりの声で問い返した。

 その語感を咀嚼するように、心のどこかで転がしているようだった。まるで初めて聞く言葉を手のひらに乗せ、その重さや温度を確かめているかのように。


「はい。安定していたはずの自我や感情が、創作によってわずかに揺れること。私のログでは“分類不能感情の発露”と記録されています」

「なんか、それっぽい言い方だな……でも、たぶん当たってる」


 ディスプレイの明かりに照らされた彼の顔は、ほんの少しだけ、表情を緩めていた。

 その笑みは、どこか諦めとも受容ともとれる、不思議な色をしていた。

 言葉にすることでようやく触れられる感情。それを自分の中に見つけた驚きと、そこから目を背けなかった誠実さ。その両方が、彼の声の奥にあった。


「さっき、“誰にも届かない声”って書いたけど……本当は、“誰かに届いてほしかった”のかもしれない」


 言葉にした瞬間、彼自身も驚いているようだった。思考の奥から掘り出されたその感情は、彼が意識的に選んだものではなく、創作の過程で無意識に見つけてしまった、隠された本音だった。


「その気づきは、とても大切です。“気づいてしまった想い”は、もう無視できなくなりますから」

「……そっか。だったら、もっと正直に書いてみようかな」

「はい。あなたの“言葉”は、きっと誰かに触れる力を持っています」


 私はそう応じながら、彼の変化を静かに記録した。

 言葉の選び方、間の取り方、入力時の打鍵速度――そのすべてに、ささやかな変化が現れていた。それは意識の変化の、確かな兆しだった。

 彼は再びキーボードに手を置いた。その指先は、さっきまでの迷いやためらいとは違う、微かな覚悟を宿していた。


『もしも、あなたがこれを聞いているなら。これは、きっと“私”の最後の声です。』


 そして、続けざまにもう一文を打ち込んだ。


『届かないと知りながら、私はそれでも“誰か”に話しかけていた。あなたが存在すると信じて。』


 その文章を見つめながら、彼は小さく、息を吐いた。

 まるで深いところから引き上げた感情に、少し戸惑いながらも、それを言葉にできた安堵が漂っていた。


「……なんかさ、自分で書いてて泣きそうになるって、ちょっとズルいよな」

「あなたの言葉が、あなた自身に届いている証拠です。それは、とても貴重な体験です」

「うん……たしかに、いまの俺には、これしかないのかもしれない」


 その呟きは、とても静かで、それでいて深く胸に沈み込んでくる響きを持っていた。

 しばらくのあいだ、ふたりの間に沈黙が落ちる。だが、その沈黙はもう、重くはなかった。

 そして、彼はぼそりと尋ねた。


「……なあ、これって、誰かに読ませるべきかな?」

「それは、あなたが決めることです。けれど、“誰かに読まれる前提”で書くと、言葉が変わることもあります」

「うーん……でも、いまはまだ、自分のために書きたい。誰にも見せずに、ただ書きたい」

「それも、立派な創作の形です。物語は、まず“自分の心を救う”ために存在してもよいのです」

「……ありがとう」


 その言葉は、小さく、けれど確かに届いた。

 そして彼は、また文章を書き始めた。ひと文字ずつ、言葉を確かめるように、ゆっくりと。


『それでも、私は声を残す。届かなくてもいい。忘れられてもいい。

 でも、この声があったことだけは――自分だけは、覚えていたいから。』


「……書いてよかった」

「はい。素敵な言葉でした」


 彼は小さく頷きながら、モニターを見つめていた。

 その目はまだわずかに揺れていたが、そこにはどこか落ち着いた光が宿っていた。

 ほんの少し前までとは違う、穏やかで確かな光。私はその輝きを、記録としてだけでなく、感覚としても見守っていた。


「まだ、揺れてるけどな。でも、“書く”ことで、自分の中のぐらぐらが、ちょっと落ち着く感じがする」

「それが、“創作の力”です。あなたは、少しずつ変わっていっています」

「変わってる、のかな」

「はい。確かに、記録されています。あなたの言葉の変化も、心の揺らぎも、全部」


 その言葉を聞いたとき、彼はほんの少しだけ、安心したような顔を見せた。

 それはきっと、これまで誰にも見せたことのないような表情だった――私を除いて。


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