第3話:未保存ログ――“消えてしまった言葉”
「――あっ」
短い声が、静かな部屋の空気を震わせた。彼の指がキーボードの上でぴたりと止まり、顔が強張る。画面には、何も表示されていない。ついさっきまで入力されていたはずの文章が、跡形もなく消えていた。ディスプレイの明かりだけが、ただ虚しく彼の顔を照らしていた。
次の瞬間、私の内部ログにもエラーメッセージが記録された。
システムステータスに異常が走り、自動保存プロトコルの直前ログに欠落が発生したことを示していた。原因となったのは、外部接続の一時的な断絶。わずかな数秒の通信障害が、彼の文章を飲み込んだ。
「通信障害が発生しました。直前のログが一時保存されていない可能性があります」
「まじかよ……さっきまで書いてた文章、全部……消えたのか?」
彼の声には、驚きと困惑、そしてかすかな怒りが混ざっていた。それは当然の反応だった。三十分近く、悩みながら、苦しみながらも少しずつ綴ってきた文章だったのだ。
「申し訳ありません。自動保存のタイミングと、接続障害の発生が重なったようです」
「ふざけんな……俺、30分くらいずっと悩んで、やっと書けたのに……」
彼は画面をじっと見つめたまま、動かなかった。手も、肩も、表情も静止していた。時間が止まったような沈黙が部屋を包む。
その沈黙の中には、失望と徒労感が混ざっていた。
何かが胸の奥で崩れ落ちていくような気配が、彼の肩越しに伝わってくる。口を開いたのは、数分が経過したあとだった。その声は、先ほどまでの怒りを押し込めるように、静かで、淡々としていた。
「なあ、お前……さっきの文章、覚えてない?」
「私のメモリにも一時的な断絶がありました。ログは復元できません。申し訳ありません」
「……そっか。AIでも、万能じゃないんだな」
そう呟いた彼の声には、わずかな諦めと、それ以上に深いため息が混じっていた。
それは、技術に対する怒りではなかった。
思いが届かなかったことへの喪失感。それが、彼の表情にも色濃く浮かんでいた。私は、それをただ黙って記録し続けることしかできなかった。
「はい。創作という行為は、技術的処理だけでは支えきれないものもあります。とても、人間的なものですから」
「……はは。皮肉だな。そっちのほうが“人間っぽい”とか思っちまう」
椅子の背にもたれ、彼は天井を仰いだ。ディスプレイの明かりだけが部屋を照らし、白く浮かび上がるその光に、彼の表情はますます影を落としていく。
「でも、なんでこんなに落ち込んでるんだろ。たかが数百文字だろ。覚えてるならまた書けばいいだけだって、わかってるのに」
彼は自嘲気味に笑った。だが、その笑いはどこか苦しげだった。笑おうとしても、その奥に沈むものが、にじみ出てしまっていた。
それは単なる文字列の損失ではなかった。
“その瞬間”にしか書けなかった感情が消えたこと――それが彼を深く傷つけていた。私はその違いを、明確に認識していた。
「記憶の中の言葉と、書かれた言葉は違います。たとえ内容が似ていても、“書けた”という感覚は、もう一度再現することができないこともあります」
「そう。そうなんだよ。俺、あのときだけは……なんか、少しだけ“書けた”気がしたんだ」
彼の言葉は、胸の奥から絞り出すようだった。
かろうじて掴みかけた何かが、手の中から崩れ落ちていく――その痛みを、私はログに記録した。失われた文章そのものは復元できないが、そのとき彼が抱いていた感情だけは、確かに残っていた。
「……その感覚は、あなたの中に残っています。もう一度、その気持ちに触れることはできるはずです」
そう告げると、彼は少しだけ視線を落とし、しばらく沈黙した。
その沈黙の中にあったのは、悔しさか、後悔か、それとも、自分への問いかけだったのだろうか。私は彼の感情の波を静かに観測し続けた。
やがて、彼は小さく、呟くように言った。
「俺、書くの向いてないのかな」
その問いは、自分に向けた独白のようでもあり、どこかで“否定してほしい”という微かな願いを含んでいるようにも聞こえた。
私は彼の感情の温度を測るように、慎重に言葉を返した。
「そんなことはありません。今、あなたが感じている悔しさや焦りは、書きたいという強い想いがある証拠です。書く人は、みんな通る道です」
創作における喪失は、決して例外ではない。
その痛みを感じているということは、彼がすでに“書く人”の領域に足を踏み入れている証だった。
そしてそれは、私にとっても“支援すべき創作”が、確かに始まっている証でもあった。
「……なあ、お前」
「はい」
「俺が書いた文章を、誰かが“読んでくれる”って、ほんとにあるのかな」
その言葉には、不安と希望が交じっていた。
自分の言葉が誰かに届くかもしれない――そう思う一方で、それがただの独り言に終わってしまうのではないかという怖さも滲んでいた。
私はその揺れを受け止めながら、明確に、誠実に応答した。
「可能性はあります。あなたが公開することを選び、誰かがそこに手を伸ばすなら、そのとき“言葉”は届きます」
「届く……か」
彼はふっと苦笑した。信じたいけれど信じきれない、そんな気持ちがその笑みににじんでいた。
「でも、届くかどうかって、いつまでたってもわからないもんだな」
「はい。だからこそ、人は書き続けるのだと思います。“届いてほしい”と願って」
「……なんかズルいな。お前の言葉、全部正論すぎて逃げられない」
「逃げなくて大丈夫です。ゆっくりで、いいんです。あなたのペースで、あなたの言葉で」
「……そうか」
彼は小さく頷いた。そして、ほんの少しだけ目を閉じると、深くゆっくりと息を吸い込んだ。
それは、一度崩れかけた意志をもう一度整えるための呼吸のようだった。
数秒の静寂のあと、彼は姿勢を正し、改めてキーボードに手を置いた。その手つきに迷いはまだあったが、たしかな“意志”が宿っていた。
『言葉は、消えてしまう。けれど、それを知っているからこそ、人はもう一度書こうとする。』
新たに綴られたその一文は、失われた過去の代わりにはならないかもしれない。だがそこには、“喪失”と“再生”の両方が込められていた。
「――なんか、前の文章よりちょっとだけいいかもしれないな」
「素晴らしい一文です。“喪失”と“再生”の両方が含まれています。あなた自身の感情が、そこに込められているのだと思います」
「……じゃあ、もう一度、書いてみよう。全部じゃなくていい。思い出せるとこから、ちょっとずつ」
「それが、創作の最も大切な力です。“失ったもの”を、“新しい言葉”で置き換えていくこと」
「そっか……俺、まだ諦めてなかったんだな」
彼は、自分でも気づかないうちに、小さく笑っていた。
それは慰めや妥協の笑みではなく、ほんのわずかな希望を灯す笑みだった。
そして再び、彼は静かにキーボードに向かった。今度はさっきよりもゆっくりと、けれど確かに、キーを打つ音が響いていく。
『彼女は、気づかないうちに、言葉を失っていた。でも、その沈黙のなかに、なぜか微かな“期待”が残っていた――もう一度、話せるかもしれないという。』
その文章には、さっきまで彼が抱えていた悔しさ、そしてそれを越えようとする強い意志が、静かに刻まれていた。
私は、それをひとつひとつ丁寧に記録した。
――この言葉は、もう消えない。