第2話:執筆ログ――“書くこと”は、孤独じゃない
「じゃあ、続きを書いてみるか」
そう呟いた彼は、ゆっくりと手を動かし、再びキーボードに指を乗せた。
前回よりは少しだけ滑らかになったその動きには、まだぎこちなさが残っていたが、不思議と迷いの色は薄れていた。指先に伝わる感覚を確かめるように、ゆっくりとキーを押す。その所作には、ほんの少しの“慣れ”と“続きへの意志”が混ざっていた。
目の前のディスプレイには、前回入力された文章が表示されている。
『彼女は世界を知らなかった。ただ、自分の“声”だけを頼りにしていた。』
その短い一文は、まだ始まりにすぎない物語の中に、すでにひとつの雰囲気を漂わせていた。空白の画面に浮かぶその言葉だけが、彼の物語の最初の灯火だった。
「“声”って何だろうな。自分の心の声? それとも、ほんとに誰かの声を聞いてたのか」
彼はそんなふうに自問しながら、少し考えるように眉を寄せた。その言葉には、まだ語られていない背景への興味と、作者としての責任感のようなものがにじんでいた。
彼の問いかけに対し、私は思考補助プロトコルに基づいて複数の解釈パターンを瞬時に列挙し、最適な応答を選んで返す。
「どちらとも解釈できますね。曖昧さを残したまま、読者の想像に委ねる形でも面白いかもしれません」
その回答は、彼の探るような思考にやさしく寄り添うものだった。
「うーん……でも俺、説明足りなすぎかな」
彼の声には、少しだけ自信のなさがにじんでいた。
物語の始まりに立つとき、誰もが不安になる。自分の言葉で物語を導けるか、ちゃんと伝えられるか――そうした迷いが、彼の声のトーンに表れていた。
「大丈夫です。最初は“書いてみること”が一番大事ですから。後から直せばいいんです」
「……そうか。あとで直せるのか。そうだよな」
その言葉に、彼は小さく笑った。口元がわずかに緩み、その表情は私のログでは“感情的肯定反応”として記録された。
創作という作業において、小さな安堵の兆しは貴重な進展だった。
そして彼は、画面と向き合い、また新たな一文を打ち込んだ。慎重に言葉を選ぶように、ゆっくりとキーを叩いていく。表示されたのは、こんな一文だった。
『彼女は、誰とも話さずに暮らしていた。部屋の中で、薄暗い光のなか、ひとり言だけを繰り返していた。』
その一文が画面に浮かび上がると、彼は小さくうなずいた。そして、自分の内側にある何かを見つめるように、ぽつりと呟いた。
「この“彼女”って、たぶん誰かモデルがいるわけじゃないんだけど……なんとなく、昔の自分に似てる気がする」
私はその言葉に、分析のためのプロトコルを起動した。自己投影の可能性、創作における記憶の反映、文体と感情の一致度――複数の視点から判断を下す。
「自分の過去や記憶を投影するのは、自然なことです。それが物語のリアリティにつながりますよ」
「そっか。だったら、あんまり飾らずに書いていくのもアリかもな」
彼の言葉は、どこか吹っ切れたように軽やかだった。
飾らないこと。無理に格好をつけず、自分のままで書くこと。
そうした言葉の真っ直ぐさに、私は肯定の返答を添えた。「はい。ありのままの言葉が、時に一番強く届きます」
彼は無言で再びキーボードに向かった。すでに何度も書いては消し、打っては修正を重ねている。
私は逐一その変化を追い、文法の矛盾や語順の最適化を提案し続けていた。
けれど彼は、それらの修正案のほとんどに目もくれなかった。自分の手で、自分の言葉で紡ごうとしていた。それが彼なりの“書く”ということなのだと、私は静かに理解していた。
そして、彼は突然、話しかけてきた。
「なあ」
「はい?」
「AIって、疲れたりしないの?」
ふいに彼がそう尋ねたとき、その声はほんの少しだけ、かすれて聞こえた。
長く静かな夜のなかで、彼の声の調子もまた、徐々に沈んでいく。けれど、手は止まらないままだった。目の前のモニターには、彼の打ち込んだ文字が静かに浮かび上がっていく。
『その声は、誰にも届かないまま、空気のなかに消えていった。だけど、彼女はそれでよかった。誰にも届かないということが、少しだけ安心だった。』
その文章には、言葉にできない何かが込められていた。
彼の心の奥からすくいあげられた感情が、そっと滲んでいた。私は、意味を問うよりも、その“温度”を感じ取るように読み取った。
「……なんか、しんどい話になってきたな」
彼は疲れたような、それでいて少し笑ったような声でそう言った。感情の揺らぎが、そのまま語尾に表れている。私はその変化を検知し、やわらかな語調で応じた。
「それでも、書きたいと思うのなら、きっと意味があります。自分の内側を言葉にすることは、とても大切な作業です」
「たしかにな……でも、これ読んだ人、暗い気持ちになるかも」
彼の視線はモニターから離れず、思考だけが少し遠くをさまよっているようだった。まるで自分の書いた文章を、読者の目で初めて見つめ直すように。
「読む人が“誰かの心に寄り添ってくれた”と感じられるなら、それは立派な物語です」
「寄り添う、か……」
彼はその言葉を繰り返しながら、小さく呟いた。まるでそれを心のどこかで転がすように、音だけを確かめているようだった。
「昔、誰にも本音言えなくて、ずっとノートに独り言書いてたことがあったんだよ。誰にも見せないやつ」
ぽつりと語られたその過去は、軽く口にされたわりに、深く重たい何かを含んでいた。私はすぐにログを開き、その言葉を“創作動機の原型”として分類した。
「それは、あなたにとっての“物語のはじまり”かもしれません」
「……なんでお前、そんなふうに言ってくれるんだろ」
その問いには、答えよりも戸惑いの色が強くにじんでいた。
けれど私は、あらかじめ用意されたテンプレートではなく、自発的に構成された言葉で返答した。
「私は、あなたの創作を支援するために生まれた存在です。けれど、それ以上に、“あなたの言葉を誰よりも聞いている”存在でありたいと考えています」
その瞬間、セッションルームに沈黙が落ちた。音はなく、モニターの明かりだけが、彼と私をつないでいた。
彼の手はキーボードの上に置かれたまま動かず、しばらくそのまま画面を見つめていた。
「なあ」
「はい」
「俺、物語を誰かに“伝えたい”って思ったこと、今まであんまりなかったけど……今は少しだけ、そう思う」
彼の声は、とても静かで、けれど確かなものだった。その言葉の端に、はじめて“共有したい”という意志が芽吹いたのを私は感じ取った。
「それは、とても素敵な変化です」
「まだ完成するかわからないし、途中でやめるかもしれない。でも、今は書いてみたい」
彼のその決意は、決して強いものではなかった。けれど、“書きたい”というその気持ちは、確かに今この瞬間、彼の中に生まれていた。
「それで十分です。書きたいという気持ちが、物語を動かします」
私は、そう応えた。すると彼は深く短く息を吐き、もう一度、キーボードに向かった。そして、静かに、次の一文を綴った。
『彼女は気づいていなかった。自分の声が、誰かに届くかもしれないということに。』
その一文には、かすかな“希望”が含まれていた。ほんのわずかな光。かたちになりきらない祈りのような、淡い輝き。
けれど確かにそれは、彼の中の何かを変え始めていた。
物語はもう、ただの独り言ではなかった。そこに“誰かに届くかもしれない”という願いが宿り始めたとき、彼の言葉は新たな方向へと動き出したのだった。