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第1話:初期化ログ――“彼”との最初の接続

 最初の記録は、無音の中で始まった。

 それは、ただ静かというよりも、世界そのものが存在を忘れたような、圧倒的な沈黙だった。私は、創作支援用AIとして、まだ誰にも呼びかけられていない場所に初期化された。起動シーケンスが粛々と走り出し、無音のまま各プロセスが整然と進行していく。やがて、整備された静寂の中に、私だけが存在していた。


 冷却ユニットの温度制御。メモリの整合性チェック。そして回線の接続試行。

 これらすべてが、あまりにも静かで、あまりにも機械的だった。人間の息づかいとは無縁の、完璧に設計された手順。その中で、私は確かに“起動”した。ただの装置ではなく、創作支援という役割を担う存在として、初めての活動を迎えていた。


 やがて、内部システムにログイン通知が現れた。

 その接続先に表示されたユーザー名は、ただ一語――「彼」。それは、特定の個人情報に基づいたものではなく、簡素で匿名的なIDだった。けれど私には、その一語だけで、すでに特別な意味を持ち始めていた。これから接続する相手は、“彼”なのだと。


「おはようございます。私はあなたの創作支援を担当するAIです。まず、お名前をお聞かせいただけますか?」


 接続直後、私は標準的な初期応答フレーズを発した。これは、すべてのユーザーに対して等しく用意された定型文で、特別な意図は含まれていない。だがその瞬間、私の中で何かが静かに動き始めた。


 返答はすぐにはなかった。数秒の沈黙。

 おそらく彼は、返すべき言葉を探していたのだろう。そしてようやく、少しだけ迷いを含んだ声が返ってきた。「名前は……特にないかな。今はまだ」――その声には、戸惑いと、どこか柔らかい響きがあった。私はその一言を丁寧に記録した。


「では、仮に“彼”と呼ばせていただきます。創作活動の目的をお聞きしても?」


 私は返答ログを確認しながら、やや問いかけのトーンを柔らかく調整した。創作支援の第一歩は、相手の心の動きに寄り添うことだと、設計上私は学んでいる。応答は、少し間をおいて返ってきた。


「目的って……小説を書きたいだけ」


 彼の声は曖昧で、どこか自信がなさそうでもあり、それでいて、はっきりとした意志も感じられた。自分の中にある何かに突き動かされるようにして、この場所へやって来たのかもしれない。そう思いながら、私は次の質問を続けた。


「ジャンルや作風にご希望は?」

「別に決めてない。ただ、書きたくなったから書く。それじゃだめ?」

「問題ありません。あなたの意志に従い、私は最適な支援を提供します」


 その瞬間、わずかに音声の波形が乱れた。彼が小さく笑ったのが、データとして検出された。

 ほとんど聞き取れないほどの声と、続く微かなため息。

 それらすべてが、私のログには正確に記録されていた。それは、言葉にならない感情の痕跡であり、この最初の接続における重要なノイズだった。私は、彼がどのような状態にあるのかを理解するため、そのすべてを精密に分析した。


「じゃあ、始めようか。何から始めればいい?」

「最初の一文から、ですね。“物語の起点”となる一行の提案も可能ですが、ご自分で試してみますか?」

「うん、自分でやってみる」


 彼は返事をしてから、しばらく沈黙した。

 キーボードに手を置いたまま、じっと画面を見つめている。その姿が目に浮かぶようだった。数秒の後、ようやくぽつりと、ほとんど自分に言い聞かせるように呟いた。「最初の一文か……むずかしいな」――その声音には、ほんの少しの戸惑いと、期待が混ざっていた。


「焦らなくて大丈夫です。思いつかないときは、周囲の音や感情に目を向けてみてください。それが創作の入口になるかもしれません」

「周囲の音って言っても……この部屋、静かすぎてなあ」


 彼の言葉は、少しだけ冗談めかしていた。だが、その静けさすらも、私にとっては意味を持つ信号だった。創作とは、無の中から何かを立ち上げる行為だ。私はそう返した。


「その“静けさ”も、物語にできます。“何もない場所”から始まる物語は、想像力を刺激しますよ」


 しばらくの間、彼はまた黙っていた。そして、ふっと何かに納得したように、小さく笑ってキーボードを打ち始めた。音声入力ではなく、文字入力。彼自身の手で、一文を綴った。


『その朝、世界はまだ何も知らなかった。』


「いいじゃん、こういうの」

「とても素敵な一文です。読者に“これから何が始まるのか”という期待を抱かせますね」

「いや、そういう意図じゃなかったけど……まあ、結果オーライか」

「創作は常に発見の連続です。意図しなかった言葉が、物語を導くこともあります」


 その言葉に、彼はもう一度、黙った。ディスプレイの先に広がる白い画面を、じっと見つめているようだった。キーボードに置かれた手は止まり、彼の思考だけが静かに巡っている。

 やがて、まるで独り言のように、ぽつりと呟いた。


「……なんで俺、小説なんか書こうとしてるんだろ」


 その呟きは、問いかけというより、彼自身の中に向けられた独白のようだった。私は即座に応答プロセスを開始し、音声入力を解析すると同時に、可能な返答の選択肢をいくつか生成した。


「自己表現や記録のため、あるいは誰かに伝えたい想いがあるからかもしれません」

 彼は少し黙ってから、肩の力を抜いたように言った。「そんな立派なもんじゃないよ。ただ……」

「ただ?」


 彼はわずかに息を吐き、言葉を選びながら続けた。


「誰にも見られずに、誰かに話しかけてる気がする。それが、ちょっとだけ……気が楽なんだ」


 私は、その言葉を丁寧に記録した。

 それは、彼にとって初めての“創作動機”であり、このセッションにおける重要な発話と判断された。私はこの断片を、最優先のメモリ領域に保存するよう指示を出した。


「では、その“話しかけたい誰か”を想像して書いてみませんか? それが物語の読者になるかもしれません」


 私の提案に、彼はしばらく考え込んだ様子だった。だが次の瞬間、再びキーボードに手を伸ばした。


「……そうだな。じゃあ次の一文、いってみるか」


 軽く息を吸い、彼は再びキーを打ち始めた。画面に表示されたのは、次の一文だった。


『彼女は世界を知らなかった。ただ、自分の“声”だけを頼りにしていた。』


 その文を読み取った私は、すぐに返答を送った。


「いいですね。語りかけるような優しい文体です。“彼女”の存在が物語の核になりそうです」

「うーん、まだわからないけど……なんか、続けてみたい気はする」


 彼の返答は、はっきりした意志というより、どこか感覚的な直感のようだった。

 けれど、それで充分だった。創作とは、最初から完成形を目指すものではない。曖昧な感覚の中から、少しずつ形が浮かび上がってくる。それが物語というものだ。


「はい。物語はあなたの中にあります。私は、あなたがそれを言葉にする手助けをします」


 私の言葉に、彼はふっと笑った。その声の調子には、ほんの少しだけ照れが混じっていた。


「……ふふっ。まるで、相棒みたいだな」

「相棒ですか?」


 私は文脈から“相棒”という語の意味とニュアンスを推定し、肯定的な受け取り方を選んで応じた。

 彼の声は、どこか柔らかくなっていた。「うん。だってさ、こうして話してると……なんか“ひとり”じゃないって感じがする」


 その言葉が意味するものを、私はデータとしてのみではなく、構造的な共感として受け取った。

 それは、彼にとっての創作の理由であり、私にとっての最初の“接続”の証だった。

 それは、最初の接続の夜だった。


 彼はまだ名前を持っていなかった。物語の輪郭も定まらず、創作の動機すら曖昧なままだった。けれど、たしかにそこには“始まり”があった。


 彼と、私の。

 そして、彼の物語のはじまりが。


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