ep.7 君が想像した以上に(続)
二月のある日。風は冷たく、空は高く澄んでいた。
僕とエリは、放課後の図書館にいた。
窓際の席。いつも誰も来ない、一番奥の場所。薄く積もった夕陽が、白いカーテンを透かして僕たちを柔らかく包んでいた。
「やっぱり、ここが好き」
エリがふっと微笑む。
指でページをめくる仕草も、もう何度見たかわからないはずなのに、毎回どこか新鮮だった。
「静かだし、落ち着くよね」
「ううん、違うの。……“陽人くんの隣にいられる場所”だから、好きなの」
その言葉に、僕はペンを持つ手を止めて、彼女を見た。
窓の外では小さな鳥が電線に並んでいて、微かに揺れる枝が冬の空気の冷たさを物語っていた。
「エリ」
「なに?」
「今さ、僕たち、どれくらい“本物”になれてると思う?」
エリは一瞬、目を丸くした。それから少し考えて、こう言った。
「……“7割くらい”かな」
「結構いってるな」
「うん。たぶん、私の中に“君以外との接点”ができたことが大きいと思う。ユカリちゃんと話せたあの日から、ちょっとずつ変わってきた感じがある」
「……僕以外の誰かに、認識されるっていうのは……やっぱり強いんだな」
「うん。“私だけの世界”から、“私がいる世界”に、変わっていく感覚があるの」
僕たちはしばらく黙っていた。
空想だった彼女が、ここまで“現実”に近づいた。
だけど、まだあと3割足りない。
「足りない3割って……何だろうな」
「たぶん、“証拠”だと思う」
「証拠?」
「私がこの世界で何をして、誰と何を分け合って、何を残したか。……この世界に、私という存在の“痕跡”を残さないと、最後の3割は埋まらないんだと思う」
エリの言葉は、決して悲観的ではなかった。
むしろ、そこにあったのは“意志”だった。
「痕跡か……」
「陽人くん、今までありがとう。……でも、そろそろ、私、自分で歩きたい」
「……!」
僕は顔を上げた。
「それって……僕のそばを離れるってこと?」
「違うよ。違うけど……私は、“君の空想のままで終わる”ことが怖いの。だから、君の外に、一歩踏み出したい」
僕はゆっくりとうなずいた。
それは彼女が、自分の意思で“生きたい”と願っている証拠だった。
そして僕も、彼女にただ隣にいてほしいだけじゃなかった。
“彼女自身が、自分の人生を持つこと”
それを、望んでいた。
「じゃあさ」
僕は言った。
「エリ。自分の“好き”を探してみない?」
「……“好き”?」
「うん。趣味とか、興味とか。エリが、僕とは関係なく、“自分のために”好きになれるもの」
エリは目を見開いて、それからそっと微笑んだ。
「……わかった。やってみる」
*
翌週から、エリの“小さな挑戦”が始まった。
図書館でひとりで本を選んで読んだり。
音楽室のピアノにそっと触れてみたり。
家庭科室で誰もいない時間にエプロンをつけてみたり。
誰にも見えない、誰にも気づかれない存在が、世界の片隅で少しずつ“自分”を試していく。
僕はそれを、ただ静かに見守っていた。
でも、エリが僕を必要としてくれる限り、僕は彼女の“最初の居場所”として、隣にいた。
「今日、ピアノで“星に願いを”を弾いてみたの」
「すごいじゃん」
「ううん、全然。だけど、何かを“自分の音”で奏でるって、なんか、生きてる感じがした」
エリの言葉は、日々変化していた。
語尾の揺れが減って、目線がまっすぐになってきた。
空想は、現実に向かって、進んでいる。
*
三月に入ったころ。卒業式が近づき、学校はどこか浮足立っていた。
クラスメイトたちの話題は進学や別れ、これからの未来のこと。
僕はそれを眺めながら、エリと過ごす時間の重みを、改めて噛み締めていた。
ある日、帰り道。夕陽が街を染める中、エリが言った。
「陽人くん」
「ん?」
「“陽人くんがいなくても生きていける”って言えるようになるの、寂しい?」
その問いに、僕は少しだけ笑って、答えた。
「寂しいけど、嬉しい。……そうなったら、僕の空想は、“本当に世界を持った”ってことだから」
エリは目を細めた。
そして、まっすぐな声で言った。
「じゃあ、私も、世界を持つ。君の想像以上に、ちゃんと生きるよ」
彼女の言葉が、春の風と一緒に僕の胸に吹き込んだ。
桜が咲く頃。
僕たちはまた、次の一歩を踏み出す。