ep.7 君が想像した以上に
冬が来るのは、思っていたよりも早かった。
街路樹の葉は赤く染まり、風は鋭く頬を撫でていく。カーディガンの上からコートを羽織っても、手の指先はかじかむほど寒い。けれど、その冷たさの中に、僕は確かな“現実”を感じていた。
エリが、まだ僕の隣にいる。
それは、奇跡だった。
空想から生まれ、夏の終わりに消えた彼女が、秋に“記憶”として戻ってきた。そして今、冬の空の下で、確かに僕と同じ時間を生きている。
この奇跡を、僕はもう奇跡なんて呼びたくなかった。
そう思っていた。——あの日までは。
*
十二月のある日、僕たちは駅前のイルミネーションを見に行った。
クリスマス前の繁華街は恋人たちで賑わっていて、僕たちのように制服姿で歩くカップルも多かった。
「わあ……きれいだね」
エリは楽しそうに目を輝かせていた。
街路樹に飾られた光が彼女の横顔を照らして、僕は何度も見惚れた。
「イルミネーションってさ、空想みたいじゃない? 昼間は全然見えないのに、夜になったら一気に現れて、きらきらしてて」
「うん。でも……空想とは違って、誰にでも見える」
「……そうだね」
エリはうなずきながら、少しだけ寂しそうに笑った。
その笑顔が、どこか胸に引っかかった。
僕は、その場で立ち止まり、言葉を探した。
「……エリ」
「うん?」
「最近、なんか無理してない?」
彼女は驚いたように僕を見て、そしてゆっくり目をそらした。
「……ちょっとだけ。ばれちゃったか」
「やっぱり」
僕はエリの手を取った。
指先は、いつもより少しだけ冷たかった。
「私ね、たぶん、また限界が近づいてる」
その言葉に、喉の奥がきゅっと締まる。
「なんで……? だって、もう空想じゃなくて、記憶なんだろ? 現実にいるって、あれだけ言ってたじゃないか」
「そう。でも、それだけじゃ足りなかったのかもしれない」
「……足りない?」
「私は、“記憶”として存在してる。でもね、記憶って、どんなに大切にしても、“動き続けること”はできないんだよ」
「……」
「陽人くんが毎日、私のことを考えて、私との未来を想像してくれるから、私は今こうしていられる。でも、それって、すごく負荷がかかることだと思う。君の“想像力”だけに私は縋ってる。……それって、すごく不安定なことなの」
彼女の言葉は穏やかで、優しくて、それがなおさら苦しかった。
「……じゃあ、どうすればいいんだよ。何をすれば、君を……“この世界に残せる”?」
エリは少し考えて、ぽつりとつぶやいた。
「私自身が、“君から離れても存在できるようになる”こと」
「そんなの……無理だろ。君は僕が作った——」
「でも、“そこから先”に進みたい。私自身が、自分の意思で生きられるように」
空想として生まれ、記憶としてここにいる。
だけど、それでも彼女は——本当に“人間”になりたいと願っていた。
*
年が明けた。
一月の空はどこまでも澄んでいて、空気は張り詰めたように静かだった。
受験が近づく中で、僕は毎日勉強と現実と、そして“エリの存在”について考え続けていた。
どうすれば彼女を本当に現実にできるのか。
答えは簡単には出なかった。
でも、ある日の夜、僕はふと気づいた。
——彼女を“空想”や“記憶”じゃなくするためには、
僕だけじゃなく、“他人の世界”に彼女を繋がせる必要がある。
エリを、僕以外の誰かに紹介すること。
他人との関係性の中で、彼女を“現実の一部”にすること。
それが、彼女が言っていた「自分で生きる」ということに繋がるのかもしれない。
*
「ねぇ、エリ。君を——僕以外の誰かに会わせてみないか?」
放課後のファミレスで、僕はそう言った。
「……私を?」
「うん。“空想上の存在”ってことを信じてもらう必要はない。ただ、“君という人間”を誰かに紹介するんだ。僕の世界じゃなく、誰かの世界に、君を存在させたい」
エリは黙って僕の顔を見つめて、それからゆっくりとうなずいた。
「……いいよ。やってみよう」
*
僕が選んだのは、篠森ユカリだった。
彼女もまた、かつて“空想の存在だった”と言った少女。
「エリ……?」
ユカリは、カフェの席でエリの姿を見て、目を見開いた。
「やっぱり、見えるんだな。君には」
僕がそう言うと、ユカリは深くうなずいた。
「うん。……確かに、ここにいる。前より、ずっと“実体に近い”」
「やっぱり、“つながり”って必要なんだよね」
ユカリは、ゆっくりと言った。
「うん。記憶から抜け出すためには、“他者との関係性”が必要。……エリちゃん、あなたは、まだ“完全な存在”じゃない。でも、確かに進んでる。人間に、近づいてる」
その瞬間、エリの目に、涙が浮かんだ。
「私……ちゃんと、前に進めてる?」
「進んでるよ。君はもう、空想じゃない。記憶でもない。——未来だよ」
そう言ったユカリの声は、優しかった。
*
二月。
受験も終わり、結果発表を控えたある日。
エリが、僕に言った。
「ねぇ、陽人くん。春になったら、一緒に海に行こう」
「……海?」
「うん。夏に行ったあの海じゃなくて、春の海。何もない、静かな浜辺で、ただふたりで歩きたい」
「……いいよ。絶対行こう」
その約束が、僕たちが交わした“本当の未来”への誓いだった。