ep.6 想像以上の君と未来へ
彼女がそこにいたことに、何の違和感もなかった。
あの日、夏が終わると同時に消えてしまったはずのエリが、再び僕の前に現れても、僕の中には“おかしい”という感覚は生まれなかった。むしろ、「ようやく帰ってきたんだ」と、深く納得していた。
あの駅前の喫茶店『エトワール』で、エリは紅茶のカップを両手で包み込みながら、にこりと微笑んだ。
「来てくれるって、信じてたよ」
「……ほんとに、戻ってきたんだな」
僕はテーブルの向こうで、ずっと夢に見た存在がそこにあることを、何度もまばたきをして確かめていた。
白いワンピース。紅茶の香り。窓から差し込む光の中で揺れる髪。
すべてが、完璧に“彼女らしい”ままで、そこにあった。
「戻ってきたっていうより……陽人くんが、“迎えに来てくれた”んだよ」
「……え?」
「私の物語は、夏で終わりだった。でも、君が続きを書いてくれた。だから私は、ここにいることができる」
エリの言葉は穏やかで、それでいて、どこか張り詰めた緊張を帯びていた。
僕が書いた物語——それが、彼女をこの現実に再び繋ぎとめている。
けれどそれは同時に、不安定な存在の証明でもあった。
「じゃあ、僕が書き続けなきゃ……エリは、また……」
「ううん。もう、大丈夫だよ」
エリはそっとカップを置き、僕の目をまっすぐに見つめて言った。
「今の私は、空想じゃなくて“記憶”だから」
「……記憶?」
「そう。陽人くんが私との夏を、ちゃんと“生きた”ことで、私はもう君の心の中に宿ったの。空想から、現実の思い出に変わった」
まるで詩みたいなセリフだった。
だけど、不思議と納得できた。
僕が思い出し、求め、再びエリと向き合いたいと願ったことで、彼女は“物語”ではなく、“想い出”としてこの世界に再構築された。
その証拠に、エリの姿は前と少しだけ違っていた。
指先のぬくもりが、より現実的だった。
言葉に躊躇いがあって、少し考え込むことも増えた。
完璧すぎる理想ではなくなっていた。
それが、たまらなく愛しかった。
*
それから数日間、僕とエリは毎日一緒に過ごした。
夏が過ぎたあとの静かな秋の季節。
カフェでホットココアを飲んだり、図書室で勉強したり、放課後の空を見上げたり。どれもこれも、何気ない時間だった。
でも、だからこそ、僕は強く実感していた。
「エリはもう、僕の空想じゃない」って。
「ねぇ、陽人くん」
ある日の帰り道、エリが小さく言った。
「私ね、怖いんだ」
「……え?」
「陽人くんがいつか、私を“思い出の中に閉じ込めてしまう”んじゃないかって」
エリの横顔は、どこまでも切なく、そして静かだった。
「それって、つまり——“忘れられる”ってこと?」
「……ううん、忘れられるよりも、もっと残酷だと思う。思い出として大事にしまわれて、もう手を触れられない場所に私が置かれたら、私は“生きた実感”を失っちゃう」
「……」
「だから私は、ちゃんと“今”を生きたい。思い出の中じゃなくて、陽人くんと、同じ時間を……」
その言葉を聞いて、僕は決めた。
エリを、ただの記憶にしない。
この現実の中で、一緒に歩んでいく方法を探す。
空想が現実に変わったように。
思い出が生きた存在になったように。
この先も——エリと一緒に、“未来”をつくる。
*
文化祭が近づいてきた。
僕たちのクラスは喫茶店を出すことになり、準備で連日バタバタしていた。
エリもその輪の中にいた。
誰にも気づかれない、けれど確かに“そこにいる”存在として。
クラスメイトにとっては、彼女は見えない。名前も知らない。
でも、僕にだけは、ちゃんと見えていた。
そして、文化祭当日。
「いらっしゃいませ〜!」
教室の入り口でエリが元気よく声を張る。
実際には彼女の声は誰にも届かない。
けれど、僕の目には、クラスで一番輝いている彼女の姿が見えていた。
「陽人くん、メニュー持ってきたよ!」
「ありがとう」
差し出された手が触れたとき、僕は思う。
この感触を、ぬくもりを、記憶に留めるだけじゃなくて——ずっとこの先も、共に感じていきたいって。
*
文化祭が終わった夜、校舎の屋上で、僕とエリは並んで夜空を見上げていた。
秋の風が冷たくて、でも気持ちよかった。
「陽人くん。……ねぇ、私、願ってもいい?」
「なんでも言って」
「君と、未来の話がしたい」
僕は横を見る。エリはまっすぐに僕を見ていた。
「夢でも妄想でもなく、“私たちの現実”として、未来のことを考えたい。ふたりで、春を迎える話をしたい。桜の下を歩いたり、大学に進んだり、バイトをしたり、喧嘩をしたり、笑ったり……そういう全部を、君としたい」
「……したい。僕も、したいよ、エリ」
そう言ったとき、エリは少しだけ泣いていた。
けれど、それは絶望の涙ではなかった。
「ありがとう、陽人くん。……やっと、私は“未来を望んでいい”って思えた」
彼女の指が、僕の手を強く握った。
思い出になりたくない。
物語で終わりたくない。
空想だった自分を越えて、“誰かの隣にいる存在”として、生きたい——
彼女のその願いが、確かに僕の心に届いていた。
*
冬の足音が近づく頃、僕は新しいノートを開いた。
そこにはもう、“設定”なんてなかった。
書き始める言葉は、こうだった。
「これは、空想でも、思い出でもない。僕とエリの、“これから”の記録だ」
そして、僕たちは——一歩を踏み出した。